餅は焼いても揚げても良い ぼり、ぼり、ぼりぼり、ざ、ざっ、がりん、ざく、ざく。辺りが静かなためか、ひどく大きく響く音に、福沢諭吉は悩ましい表情を浮かべた。隠し刀との勉強会も大詰めを迎え、早く切り上げて少し休もうかと外に出た先に、煎餅屋の屋台が待ち構えていたのが運の尽きである。膝上に揚げ餅の包、傍らに麦酒。見渡す限りの青い海。ちょうど夕陽が傾きかけた頃で、情人との雰囲気作りは完璧なはずだった。悔しさを滲ませて、しばし過去を振り返るとしよう。
横浜貴賓館を出るなり、感覚の優れた隠し刀はすぐさま異変に気が付いた。否、彼でなくとも誰でもわかっただろう。
「諭吉、あの香ばしい匂いがするものを食べても良いか?」
「揚げ餅ですね。ええ、食べましょう。僕も久々です」
天ぷら屋と同じ要領で屋台を引いた煎餅屋は、先見の明があると言って良い。揚げたて、焼き立ての煎餅に刷毛で醤油を塗れば、うなぎもかくやという香りを四方に漂わせ、ふらふらとどこからか人が誘われ集まりゆく。大行列に並んで自分の番が来る頃には、匂いだけでもうお腹が減ってしまって、最初に決めていた一種類に限らずもっと欲しいと思わせるのだ。
塩、七味、醤油、味噌、海苔塩、胡麻、はたまたざらめまで。甘いのしょっぱいの、どれを頼んでも胸がいっぱいになるだろう。今にもよだれが垂れそうな様子の隠し刀に、店主は満面の笑みを浮かべて額の汗をぬぐった。
「自分で食べたい、美味い煎餅を食べたいって店を構えてみたんですがね。自分が美味いと納得できるもんを他の人にも美味い美味いと言ってもらえるのは、いい気分ですよ」
「……ここは揚げ餅、の海苔塩を買おう。諭吉はどれにする?」
「僕は塩にしましょう」
「よしきた」
ざっざと手早く油紙に揚げ餅を包むと、店主がそれぞれに商品を渡す。受け取るなり熱さで驚いた様子の隠し刀に苦笑して、諭吉は手袋をはめた手で運んでやった。強靭な男も煮えたぎった油には勝てないらしい。途中で少し冷えた麦酒を仕入れ、気ままにぶらりと歩くと、海沿いに丁度良い石積みを見つけたので並んで座った。
揚げ餅を食べるためにも流石に手袋を外し、諭吉は早速本日のご褒美に手を付けた。揚げ餅に染みる菜種油の軽い舌ざわり、サクサクほろほろとしつつもしっかりと固さを残した餅から引き出される米らしい甘さや滋味を、塩が綺麗にまとめ上げてゆく。麦酒を流し込めば完璧な労いの完成だ。
さて初めて揚げ餅を食すらしい隠し刀はどうか――というと、冒頭にさかのぼる通りに大いに夢中である。麦酒にも目もくれず、一心不乱に貪る様は、さながら地獄で死体を食らう餓鬼のような凄味があった。揚げ餅一つでここまで真剣になる人間を諭吉は他に知らない。感想を共有する以前の状態で、声をかけることもためらわれた。
仕方なしにただ黙々と食べ、指先についた塩すら惜しくて舐めとる。確かに美味い。そして、揚げ物は揚げ立てが一番美味く、冷めてしまえばその感動は少し落ちる。あと少しでなくなってしまうな、という頃になって、ようやく隠し刀が夢から覚めたように顔を上げた。
「海苔塩、というのはこんなに美味しいものだったんだな……諭吉、お代わりを買おう」
「おや、もう食べ終わってしまったんですか?そんなに食べたらば、夕飯が入らなくなりますよ」
今日はきんぴらが評判の居酒屋に行くつもりだった。無論まだ相手には話していない。しかし二人が勉強会の後に夕飯を共にするのは、暗黙の了解である。それから二人で、と諭吉は期待するところが大きいのだが、目の前の隠し刀の顔は『揚げ餅を夕飯の代わりにしたい』という要望を物語っていた。揚げ餅!情人をこんなに病みつきにさせるだなんて、末恐ろしい逸品だ。清国で流通している阿片というものは人を中毒にさせるというが、隠し刀の場合は揚げ餅だったらしい。
さしもの諭吉もこれには眉をひそめた。許せないことが二点も生じている。一つ、隠し刀が菓子を夕飯代わりにしようとすること、二つに諭吉といるにも関わらず揚げ餅との蜜月を楽しもうとしていることである。海苔塩め。やおら相手の手を掴むと、諭吉はその指先にまだ海苔が点々と張り付いていることに笑みを浮かべた。
「食べ終わってしまったとは残念ですね。僕も少し食べてみたかったんですよ、海苔塩」
「ひゃ」
れろ、と指先を舐め上げると、隠し刀が生娘のような声を上げて慄く。一本、二本、確かに海苔塩もなかなかいけると思いながらも三本目も舐める頃には、隠し刀はふうう、と大きく深呼吸を繰り返し始めていた。頬が赤いのは、何も夕陽が差し込んでいるからだけではあるまい。四本目は軽く口づけるだけにして離れると、諭吉は悪戯が成功した気分で相手を見やった。
「ご馳走様です。僕の塩味も食べませんか?そうしたら……一緒に夕飯を楽しみましょう。良いですね」
「ああ」
ぎくしゃくと動いた隠し刀が、今度は諭吉の手首を掴む。揚げ餅を渡すつもりだったのだが、どうやら違う意味に捉えられたらしい。れろ、と湿って温かく、柔らかな刺激が指先を這う。相変わらず舌が短い癖に器用なことだ。関節の一つ一つまでしっかりと動く所作は恭しく、艶めかしい。
夕飯なんて、と背筋をぞくぞくと震わせて諭吉は空いた片手で残りの揚げ餅をつまんで食べた。しょっぱい、という隠し刀の声が耳に心地よい。夕飯なんて食べないで、こうして戯れるというのはどうだろう。そちらの方が揚げ餅よりも余程魅力的で、きっと愉しい。
五本の指をしっかり舐められ解放されると、諭吉は迷うことなくもう片方の手を差し出した。まだ指先には塩が陽を浴びてきらきら輝いている。
「お代わりをどうぞ」
「いただこう」
あーん、と隠し刀が口を開け、揚げ餅でなしに諭吉を食べる。束の間焼いた餅は、どうやら彼の口によく合っているらしい。そういえば、店主が季節ものとして近々ゆず塩味を出すという。あの爽やかで苦みを伴う味わいは、恐らく日本酒と合うだろう。
隠し刀が舐めた後をなぞるように、解放された手にそっと舌を這わせる。貪られた指先は、ほんのわずかにしょっぱかった。
〆.