ありふれた椿事 世界は広い。日々の生活に追われていると、目先の環境しか考えられないものだが、その目先をどんどん遠くに伸ばしてゆくとやがては海を出て、そうして別の国にとたどり着くのだから面白い。自分は日本のどこか、ではなく世界のどこか、に暮らしているのだと唐突に思い当たって驚かずにはいられない。隠し刀も、福沢諭吉に出会うまでは自分の住む陸地のことを考えるので精一杯だった。だからこそ、自分の片割れを見つけることができなかったとも言える。
理屈はすんなりと飲み込めた。さりとて日常生活の中で異国に想いを馳せることはまだまだ少ないのが世情で、時折異国のものを見かけ、異人を目にして、ああ世界は広いと想起される程度のことである。ある意味自分よりも、尊王攘夷を唱える志士たちの方が世界を実感していると言えよう。忌み嫌う人間の方が高い意識を抱いているというのは皮肉な話だった。
「完全に行き詰まりだよ」
そんな隠し刀に異国を教えてくれる人物の一人、マーカス・サミュエルは隠し刀の長屋で浮かない表情で頭を抱えていた。新進気鋭の野心に満ち溢れた青年実業家である彼が、こうまで頭を悩ませるのは珍しい。出会いこそ隠し刀の救いあってのものだが、訪問するたびに何かを得るのは大概こちらの方である。そのお返しの気持ちも込めて、隠し刀は青年に話を促した。
「悪いな。ここにはただ気晴らしに茶でも飲もうと思っただけだっていうのに……サトウさんも、伊賀七も同じだろう?」
「構わないとも。茶飲み話は立派な肴だ。それに、君の話は興味深い」
「そうそう。僕だって、マーカスのお世話になっているからね」
同じく茶を飲んで炉端に座っていた、アーネスト・サトウと飯塚伊賀七が快く請け合う。彼らも隠し刀が招いたでなしに、偶然ここに集まった風来坊たちだ。ただ、それぞれ茶菓子を持ち寄っているので、ちょっとしたお茶会の様相を呈している。ここに情人である諭吉がいたならば完璧だったのに、と惜しみつつ隠し刀は片目をつぶって見せた。
「だ、そうだぞ」
「はは、それじゃ、ありがたく相談させてもらうよ。悩んでいるのは他でもない、売り物についてなんだ。僕が最近は東洋の雑貨、特に貝殻細工を本国に輸出して売っていることは話したと思う。サトウさんたちには詳しく話していなかったかもしれないから念の為説明すると、扇子や手鏡、貝釦(貝ボタン)、向こうの帯締めなんかが多い。大きいものでは茶箪笥も扱っているよ。日本の螺鈿細工を応用した、日本らしい絵や装飾を施したものは向こうで人気なんだ」
「ああ、ジャポニズムは流行だからな。扇を壁に飾る家庭などもある」
サトウが日本風という意味だ、と説明を加えて頷いた。
「そうなんだよ。ただ、流行り物ということは他にも似たようなものを売る業者は多いんだ。浮世絵が取り扱えれば一番良いんだが、あれは政府の規制が厳しいからね。そこでだ。父が、他社と異なる独自の図柄の商品を開発して欲しいと言ってきたのさ。日本の風景や文化が思い浮かぶ、簡単なものはないかだなんて、気楽に言ってくれるよ」
「日本独自、か」
伊賀七と目を合わせて、隠し刀は小首を傾げた。何しろ普段日本に暮らしているので、この国のことはよく知ってはいる。しかし異国にもあるのか、ないのか、何が特別なのかはとんと見当もつかない。それが分かるのは異邦人であるマーカスやサトウだろう。腕を組んで考え込み始めたサトウは、いよいよこの話題に関心を寄せているらしい。隠し刀は立ち上がると、部屋の隅から反故紙の束と矢立を持ってきた。
「何が特別かはわからないが……それぞれ、この国で特別かもしれないと思うものを描いてみてはどうだろう?こういう時は考えている内容を書き連ねていくのも頭の整理になると諭吉が言っていたんだ」
「福沢君らしいね。よし、僕の絵心を見せてあげよう」
「ふむ。面白い提案だな」
どうせ案が出なくとも駄目元で、この場にいる人間にとっては時間潰しに相違ない。気楽に考えているうちにふと思いつくこともあるだろう。マーカスにも紙を渡すと、うろ、と申し訳なさそうに眼が揺れる。笑って紙を押し付けると、瞳は感謝の念に染まった。
「ありがとう。君には度々世話になるな」
「それはこちらの台詞だ。それに、まだ世話をしてはいない」
何しろこれは手慰み、当たるも八卦当たらぬも八卦の遊びである。いかに世界を観察すると大上段に切り上げても何も出なかったのだ、肩の力を抜いた気晴らしがちょうど良い。そういえば自分は絵心がないのだったと思い出しつつ、隠し刀も筆を取った。
自由とは、一般に言えば窮屈である。実際完璧な自由など存在しないし、己自身が第一の枷だ。もし完璧な自由を再現できるとすれば、それは現実世界ではなく、茫漠たる画布の上であるかもしれない。マーカスは職業柄、他者への説明のために絵図面を引くことはあっても(言葉が通じずとも絵であれば分かることもあるのだ)趣味として絵を描くのは幼少期以来のことだった。
何を描くべきか。お題は自分が求めている、競合他社にも張り合える図柄だ。本物でなくとも構わず、日本という異国を身近に感じさせてくれる象徴が欲しい。サミュエル商会で取り扱う雑貨は身の回りの商品、特に装飾品の類に力を入れているので、小さくとも判別がつくものが良いだろう。近頃大流行りなのは芸者や侍、変わり種では相撲取で、明らかに異国の人間だと分かる風体が理由であるらしい。
では花鳥風月か。残念ながら、マーカスは商売人としての目はあっても審美眼はない。文化的に豊かであるとは言い難かった。その点、名に聞こえた日本通であるサトウの回答は気になるところである。彼ならば、自分では到達し得ない和の心に触れられるかもしれない。せいぜい自分が知る日本は、移動許可の都合もあって横浜近隣という狭い範囲に収まってしまう。
収まると言えば、近所に良い団子屋ができた。自在団子という、たっぷりの餡子が見事で腹持ちする優れものである。団子の形はどうだったろうか、と丸を描いて線を引き、マーカスは髭を歪めた。果たしてこれが団子だと分かる人間が母国にいるだろうか?団子屋があるならばまだしも、食文化の伝播はまだまだ不十分だ。たとえば団子を食べる侍を描けば、と思うも今度は図柄が小さくなってしまう。直線と丸という素朴さはマーカスの好むところであるものの、この案は棄却した方が良さそうだ。続け様に思い浮かぶもので白紙を埋めるも、どうも団子が誘い水になったらしく延々食べ物を生み出してしまう。これはいけない。仕方がなしに他の参加者の様子を伺うと、もうほとんど終わった風を漂わせるサトウに声をかけた。
「サトウさんは何を描かれましたか」
「日本の風景だ。芸者や侍といったモチーフが好まれる理由は理解できるが、やはり日本の文化を育んだ自然そのものも固有の事物だろう。桜、紅葉、梅に鶯、それに……なんと言っても富士山だな。オールコック卿が登山を企画しているのも尤もだ」
「なるほど。確かに、富士山の形は独特ですからね」
なだらかに、末広がりという日本語をそのまま表した形は面白い。単に山の形だけでは物足りなくとも、桜ふぶきを散らせれば十二分に異国情緒を主張することができそうだ。流石サトウだ、と心の底から敬意を表すると、謹厳実直な青年はぎこちなく礼を述べてそっぽを向いた。どうやら照れているようだ。目の淵の赤さに微笑んでいると、ずい、と新しい紙が目の前に突き出される。
「おっと、もうできたんだな。伊賀七、これは日本の花かい?僕には菊のように見えるけれども」
「違う違う!浮世絵が人気なら、花の絵は出尽くしてるんだろう?これはね、ふぐさしさ!」
心もち胸を張ると、伊賀七はフグサシなる珍妙な日本食について説明した。なんでも毒のある魚をその道の達人が毒を抜いて捌き、その身を刺身として食べるのだという。薄く切った身は透けるようで、淡雪のような白さが美しいそうだ。切り身の薄さは職人の腕前を示すものだそうで、花のように並べるのは皿が丸いからであるらしい。残念ながらマーカスが思いついた団子と同じで、フグサシの魅力はまるで異国では通じぬだろう。しかしながら毒の話は興味深い。サトウも心もち前のめりになっている風だった。
「毒のある魚をわざわざ食べるだなんて冒険だな。それほど美味しいのかい?あるいは、毒と言ってもあまり苦しまない程度のものなのか」
「毒は毒、当たれば死ぬことだってあるよ!ふぐは美味しいんだけれどもね、藩に……ああ、地域によっては食べることを禁止しているって聞いたこともある。ふぐはね、別名鉄砲って言うんだ」
「死ぬかもしれないと思いつつもやめられない、と聞くと、薬物中毒を疑ってしまうな。君たちは妙なところで思い切りが良い」
肝試しもほどほどにした方が良いだろう、と率直な感想を述べるも、マーカスは自分も似たようなものだと気づいて苦笑した。異国での商売という大きな勝負に出、何度失敗してもやめられない自分の姿は、見ず知らずの他人からすれば狂気に駆られていると感じられるだろう。
「君たちの心意気はわかったけれども、フグサシの説明をするには手間がかかりそうだ。まだ魚の方が、特徴的な形であれば伝わるかもしれない」
「説明が必要になると、商品としては売り出しにくいか。使えばわかる、というものでもないものなあ。ううん、ふぐの形が変わったものかはわからないけれども、面白い見た目かもしれないね。よし、一つ描いてみよう」
一人で語って一人で終わり、そして次へと進んでゆく伊賀七の切り替わりの速さは尊敬に値する。自分がうだうだと悩んでいたのが馬鹿馬鹿しい。ともかく行動する、それが自分の持ち味ではなかっただろうか?伊賀七が描く矢鱈と大きなふぐの絵を横目にちら、と隠し刀の方を見遣って、マーカスはおやと驚きを溢した。
「どうした、何か考え事かい?発案してくれたのは君だろう」
「いや、最初から特に案はなかった」
こんこん、と額を曲げた指で叩く隠し刀の目の前に広がるのは丸切りの白だった。サボっているわけではなく、本人が至って深刻に悩んでいることは見て取れる。今の今までマーカスは、隠し刀のことを万事苦もなくやり果せる器用な人物だ、とどことなく神聖視しつつあった。しかし蓋を開けてみればどうだろう、自分と同じく悩む一人間に過ぎない。彼にも苦手なことはあるのだ。そして、出来物でさえ悩むお題であれば、自分が悩むのも当然と言えよう。
「身近なもので、けれども他所の国では見られないものを考えているのだが、どれもありふれたように感じられてしまってな。諭吉なら、私よりも気の利いた答えを出せるかもしれない」
「君が言うなら、間違いないだろうね。ふう、それじゃあ明日にでも聞いてみるとしよう」
隠し刀は、この場にいる誰よりも諭吉に詳しいだろう。言うなれば、隠し刀の目に映る日本の日常には諭吉の影があるのだ。ひょっとすると、諭吉を通じてこの謎めいた友人の人間味をまたひとつ垣間見ることができるかもしれない。二重のお楽しみに、マーカスの気分はいよいよ盛り上がっていた。
「諭吉なら、」
不甲斐ない、とぼやいていた隠し刀がふ、と縁側を見やる。釣られて目を向けるも、開け放たれた雨戸の向こうは無人のまま、風が吹き抜けるばかりである。だが、友人には異なる風景が写っていたらしく、突如として筆は白紙の上を踊った。滑らかな筆致で、迷いがない。フグを描き上げた伊賀七もサトウも皆が固唾を飲んで見つめる中、隠し刀は一枚の絵を仕上げて見せた。
「これは……猫、かな」
「三毛猫だ。以前に聞いたのだが、そちらの国では三毛猫というのは存在しないのだろう?」
かろうじて猫と判別されるもやもやとした形は、確かに三色風の色分けが墨の濃淡で表現されていた。猫、それは母国でも愛されるありふれた存在である。だからこそ、マーカスにとっては盲点だった。三毛猫自体も浮世絵などでちらほらと描かれていたかもしれないが、猫そのものが貴重だという目で見たことは恐らくない。わかりやすく、だが珍しい。正に自分が求めている要素の一つだ。
「ミケ。ミケ、良いじゃないか!今日は豊作だな。ここに来て良かったよ」
「助けになれたならば良かった」
良い時間を過ごせた、と参加者たちが微笑む。そうと決まれば行動だ!今度は良い茶菓子を持ってこよう。その時にはもちろん、試作品を携えて。絵の束を抱えると、マーカスは足取りも軽く長屋を出た。
客人たちが去り、ひとときの賑わいを失った長屋は全身で虚を訴えるかのように伽藍としていた。四方八方から押し包まれる感情をやり流しながら、隠し刀は昼に観た幻想を心に浮かべた。この国でしか観ることの叶わぬ事物。外つ国を知らぬ人間がうんと唸って考えようにも、ありふれた景色はありふれたままだった。特別なものと言われてしまうと、それこそ盆と正月や祭りといった非日常がうっすらと頭に浮かぶ。
だが、日常の中で異国ならではの風景は、と言われればどれも似たり寄ったりだ。ありふれた景色が、この地平の先では得難い珍事となる。目に映るものひとつひとつに尋ねてもわからぬ隠し刀が思い浮かんだ特別な光景は、諭吉が佇む長屋の様子だった。彼といれば大概のものが特別に見えてくるのだから、つくづく自分という人間は単純と言えよう。
炉端に座って茶を飲んで、本を読み、話に花を咲かせて犬猫を可愛がる。異国情緒を探す隠し刀の頭に最後に思い浮かんだのは、縁側でなかなか懐かぬ三毛猫を膝に乗せることに成功した諭吉の姿だった。あれは大輪の花が咲くよりも賑やかで可愛らしい姿で、写真を撮影しなかったことがつくづく悔やまれる。隠し刀の依頼は受けても一向に靡かない三毛猫は、以降も諭吉ただ一人だけを慕っていた。
「こんばんは。お邪魔しますよ」
「おかえり、諭吉」
心の中で名を呼べば、現が応えて労う。果報だな、と隠し刀は三毛猫がとっとと諭吉の足元に滑り込むのを眺めた。三毛猫と、諭吉。どちらもこの国特有のもので、ありふれた日常だった。
「どうしました?何か面白いことでもありましたか」
「幸せだな、と思ったのさ」
何せ、他では見れぬ光景を独り占めできるのだから。怪訝そうに眉を寄せる諭吉の頬を手の甲で摩り、隠し刀はにんまりと笑った。
〆.