月を食む 人の心は変幻自在で移ろいやすく、今日花の可憐さに目を細めたらば翌日は懐の寂しさを嘆き、はたまた子の成長に目を見張る。世間そのものが変化に富んでいる中で、その一つ一つに感応しているとも言えるだろう。季節の移ろいに、事実以上の想いを見出すに至った隠し刀もまた、そうした俗世の眼差しを解するようになっていた。なべてそれは情人の福沢諭吉や、この歳になってようやく得た友人諸氏のお陰である。『人』の心は、人が知っている。
故に自分もようやっと『人』になったものだと心密かに達成感を覚えるなどしていたのだが、実はまだまだであったらしい。横浜の写真館に、依頼された写真を届けついでに馴染みの飯塚伊賀七を訪ねた隠し刀は、真っ黒な紙を前にうんうん唸る友人の姿に首を傾げた。
「ううん、やっぱり夜は難しいなあ。月だけじゃ、光量が足りないのか。しかし龕灯(がんどう)じゃあ到底足りないだろうし……夕焼けで勘弁してもらうしかないか」
「夜、か。なるほど、これは夜を映した写真だったんだな」
「わあ!」
道理で真っ黒なはずだ、と隣に並んでしげしげと眺めれば、周囲のものに目もくれず夢中になっていた友人が飛び上がる。良い加減慣れても良さそうなものだが、こと習慣というものは簡単には変えられないらしい。ずれた眼鏡を丁寧に戻すと、伊賀七はうんうんと深く頷いた。
「驚いたなあ。そう、そうなんだよ。実は、夜の月を撮影して欲しいという依頼があってね。しかし何度やってみても、夜の景色は上手く撮影することができないんだ。昼の光に負けないくらい、大きな……それこそ花火のような明かりがずっと点いていれば、撮影できる見込みはあるけれども、完璧に再現することは現在の技術では難しいだろうね。おっと、また喋り過ぎてしまった。ごめんよ、何か僕に用かい?」
「用事と言えば、友人の様子を見ることだったから構わない。しかし、月ならばいつでも観られるだろう。それこそ、米国に渡ってでも観られるはずだ」
この天と地が続く限り、太陽と月はどんな場所であれいつであれ、恐らく同じものが掲げられているはずだ。時刻を把握するために空を観察することが多いため、隠し刀にとっては馴染みの存在である。しかし印象を表現した絵とは異なり、事物をそのまま映す写真に残そうとする意図はどうにも理解できない。素直にその旨を伝えれば、伊賀七は肩をすくめた。
「君の考えは科学的で、僕も賛成だよ。月はどこでも観ることができる。けれど、そう考えられない人もこの世にはいるんだ。『故郷から観る月の姿を旅先でも観て思い出したい』、というのが依頼でね。依頼した人には、特別な思い入れがあるのかもしれないな。ほら、お月見ってあるだろう?あの気分は僕もわかる気がするよ」
「お月見?」
なんと、この世には月をわざわざ観る催しがあるらしい。故郷から観た月、の何が特別なのか理解できぬ隠し刀は、もはや完全に置いてけ堀だった。全く、人は何に心を動かされるものか、奥が深くて追いかけきれない。いっそ全部捨て去った方が楽だと理性が甘言を囁く。だが、情人と共に過ごす世界を失うことは、もはや考えられなかった。大陸に渡りつつも根底の変わらぬ片割れが知ったらば、雑念が多いと失笑したことだろう。
「秋には、お団子をお供えして、月を眺めながら飲んだり食べたりするんだよ。遅くまで起きる理由としてこじつけているだけかもしれないけれど、ぼうっと月を観るのはたまには良いかもしれないね」
「つまり、本当にただ月を観るだけ、なのか」
「そうだよ。だから、誰にでも楽しめるという寸法さ」
他に観るとしたら流れ星かな、と伊賀七は至極真面目に返す。至って単純な行為と知って、隠し刀は眉間に皺を寄せた。これは『可愛い』よりも簡潔である分遥かに理解が難しい。諭吉と観れば違うかと言えば、彼とは度々夜道を共にし、長屋の縁側で月明かりの下酒を酌み交わしたこともある。さりとて月に何か思うところはちらともない。再び長考に入った伊賀七の手元に広がる黒々とした星ひとつない闇夜は、己の虚を映しているかのようで、隠し刀は小声でいとまを告げて去った。
情人はまたぞろ些細なことに頭を悩ませているらしい。諭吉は隣でぼうっと空を眺める男の顔をちらと観やって、病気ではないらしいと判断した。普段であればすぐさまこちらに気づいて微笑みでも返すところだが、全く上の空である。かと言って、自分といる時間に対して飽いたり倦んだりしている風でもない。今日は、馴染みの書店が在庫の虫干しをしたついでに整理も兼ねて安売りをすると聞き、洋書を安く手に入れる好機だと繰り出したものの、楽しいのは自分ばかりのようだ。
「見てください、欧州各国における麦酒の味の比較だそうですよ!きっと私家本でしょうね。これは良いものですよ」
「諭吉のために書かれたような本だな。きっと本も諭吉に読んでもらいたかったんだろう」
流石に話しかければ気づく程度のそぞろではあるらしい。ようやっと見れた笑顔も言葉も本心だろうが、昼の太陽に薄雲がかかるにも似てどこかすっきりとしない。とは言え今を逃せば良本を逃す可能性は高かった。しばし呻吟し、好奇心と思慕を天秤にかけて、諭吉は目先の欲望を手早く済ませることに決めた。もし考え事をしているのであれば、多少まとまったところで話した方が問題も解決しやすかろう。というのは殆ど言い訳だったが、教育論集を見つけた諭吉の頭ではすぐさま憂が棚の上に置かれた。
懐と入念に相談し、店主と駆け引きしようと息巻いたあたりで様子を伺うと、隠し刀は何やら図版を広げて繁々と眺めていた。もちろん洋書で、多少自分が手解きしたと言えども、こうも熱心に読み耽るほど隠し刀は通暁してはいないはずである。何もわからずとも見たいと思わせる――素晴らしいではないか?諭吉は、未知のものに示す男の素直な好奇心を愛していた。彼にその気持ちがなければ、二人の縁が深く交わることはなかっただろう。
さておき気がかりなのは本の内容である。表紙に書かれた題名は、『Elements of chemistry』。著者はロバート・ケインとジョン・ウィリアム・ドレイパー。どちらも初めて見るが、幅広く最新の科学について書かれた本であるらしいことは推察される。自分も科学には深い興味があるものだから、諭吉は大胆にもぎゅっと身を寄せて隣から中身を覗き込んだ。
「ん?諭吉、買い物は済んだのか」
「まだ途中ですよ」
そっと相手の頬が寄せられ、胸が高鳴る。我ながらわかりやすいものだ。はた目には仲良く一冊の本を分け合って読んでいるように見えるかもしれないが、親しすぎる仲にとっては危うい距離感だった。ここが往来でなければ、情人にしなだれかかっていただろう。隠し刀の胸板はがっしりとして、成人男性としてもかなり立派な我が身を預けるのに丁度良いのだ。猫が人の懐に入りたがるという気持ちもよくわかる。温かで自分にぴったりの場所は世界中のどこよりも居心地が良い。
隠し刀が熱心に見ていたページには、ぼやぼやとした白黒の絵が刷られており、かすれた穴だらけの黒塗りの背景に、ぽっかりと丸い円が大きく描かれている。円の中には水泡のようにぽつぽつとした大小の円が淡く浮き上がり、円の左端に刷かれた爪のような墨の孤が強く印象に残った。表題は『the Moon』、それも添えられた説明によれば写真であるらしい。
「月の写真ですって?信じられない、どうやって撮影したんでしょう」
「諭吉程読めるわけではないが、方法については書かれていていないようだ。夜に撮影する方法が書いてあれば、伊賀七に教えてやれたのに」
「なるほど、伊賀七さんですか。……うん、残念ですが、ここには撮影方法までは書かれていませんね」
「やはりそうか」
苦笑しつつも、隠し刀の表情はやはり晴れない。そんなにも思い入れのある依頼だったのだろうか。隠し刀の指先がつーっ、と虚像の月をなぞる。ただ写真を眺めているだけにも拘わらず、妙に艶やかな仕草だ。自然、情人の指が己の身を這う感覚を思い起こし、諭吉は微かに頬を赤らめた。
「人はどうして月を観るのだろう」
わからない、と男は小さく呟いて中空に目をやる。真っ白な昼の月が、ぼんやりと青空に浮かんでいた。どうということもない当たり前の風景で、不鮮明な写真ほどには感動もない。不可解さを見て取ったのだろう、隠し刀は伊賀七とのやり取りをかいつまんで説明してくれた。要するに、彼は月見を理解できぬ己に欠落を感じているらしい。
真面目だ。生真面目すぎる。思えば先日は『可愛い』にいたく頭を悩ませていた。このままでは愛だとか生命だとか、高尚な禅問答の領域にさしかかってしまいそうで恐ろしい。なんとか方向性を引き戻してやろうと、諭吉は腹に力をこめた。
「それじゃあ、今夜はお月見をしましょう。形から入るのも良いものですよ」
解らなくても良いではないか。自分の気持ちを解らないままでいる朴念仁の癖に、何を深く悩むことがあろう。第一、月はいつまで経っても年を取らずに天にある。命の短い営みで押し切ると、隠し刀はぱたんと本を閉じた。俗世の勝利だった。
期待した通り、今夜も月は紺青の空に淡く輝いていた。雲は千切れて遮りもせず、敢えて灯を置かずとも十分なくらいに縁側は明るい。宴をするべく膳を並べながら、隠し刀は月を見上げて首を振った。月は未だに月のままだ。
洋書を買う折に、せっせと掘り出し物を探り当てる諭吉の顔が輝いていく様に胸打たれ、満遍なく観ることのできる立場を噛みしめたところまでは順調だったはずだ。ちょっかいを出したいものの、折角の機会を台無しにしたくはないという理由で空を見上げたのが、躓きの始まりである。月だ。伊賀七の元を去って以来、余り考えないように努めていた月が、正面からじっとこちらを見守っていた。
幼い頃から変わりなく、ただ活用方法だけを覚えた存在が、今では化け物染みて見えるのだから不思議である。見れば見るほど惑うばかりだ。逢瀬中に他のものに注意をそらしてしまった報いは散々で、西洋の知識で多少は理解を深められるかと抱いた朧な期待は否定され、意図せずして放置した情人の機嫌も損ねてしまって惨憺たる有様である。諭吉はあからさまに口にはしないものの、面白くなかったのは間違いない。
元々、今日は黒麦酒を出すという英国人が切り盛りする居酒屋に行く予定だった。そこの二階が間貸しをしているという何とも乙な趣向で、隠し刀はあわよくばと朝からふわふわと意気込んでいたのである。甘味処ではところてんを食べたいところをぐっと堪えて白玉の餡子添えを選び、汁粉を冷まそうと息を吹く諭吉を笑顔で見守りもした。さりげなく店の話をし、時折腕に触れるなどして意を伝えたつもりが、自分の行動一つで全て台無しである。そもそも自分の誘いかけが通じていたかも定かではない。
人付き合いの上手い長州藩士や坂本龍馬に、たまには直接ではなく情緒を持って誘うべしと説かれ、あれこれ考え抜くも、自分にはまだまだ早かったらしい。その点、諭吉は暗示やさりげない強請りが絶妙に上手く、断ることは至極困難だ。相手が納得してくれたとて、好機を逃した己が憎たらしくなってしまう。事前にあれこれ想像を巡らせるものではない。
無論、月見酒のために二人で菜を買ったり酒を選んだりするのは楽しい時間だった。何と言うことのない日常は、さながら二人が起き臥しを共にしているかのように錯覚させる。人は、変わらずにはいられない。だからこそ、余すところなく今を欲するのだろう。
「ああ、綺麗な月ですね」
複数の酒杯を並べた盆を持った諭吉が、昼と異なり感慨深げに空を見上げる。昼間は何ら特別感を抱いていないように感じられたものの、やはり彼にも感じる心はあったらしい。並んで座り、清酒を猪口に注ぐ。とっとっとっと、ととっくりが鳴らす音はこちらの喉から出る音にそっくりだった。武骨な黒い猪口に、澄んだ清酒がきらりと照りを与える。受け取ったそれを素直に口に運ぼうとすると、諭吉がつい、と手で制した。
「今日はお月見ですよ」
言うや否や諭吉は左手で自分の猪口を捧げ持ち、中空に差し出した。ついで右手は自然にこちらを招く。吸い寄せられるままに身を寄せれば、猪口の中でゆらゆらと月が揺らめいていた。
「月を捕まえたんだな」
月をまとった雫は、盗人の口へと流れ込む。ただの遊びと知りつつも、隠し刀も自分の猪口で月を盗んだ。
「昔の人は、湖や川に船を浮かべて月を楽しんだとも聞きます。僕に用立てられるのはこれくらいですが、湖は飲み干せませんから」
「どうかな?酒の湖だったら、諭吉は泳いでいきそうだ」
「あなたは僕を何だと思っているんです」
ぷい、と明後日の方を向く仕草に思わずくすくすと笑みが零れる。
「すまない。月を取ってくるから、許してほしい」
今度はギヤマンのグラスにウヰスキーを注ぐ。琥珀色の湖に浮かんだ月は淡く、不確かな写真の姿を思わせる。情人の唇にグラスの縁を当てれば瞬く間に蕩け、渡そうとした手の上から諭吉の手が添えられた。逃げられない。ちら、と上目遣いに強請られるままグラスを傾けるも、どっどと渦巻く血流が激しく騒いで喧しい。最後の一滴まで、永遠とも思われるほどの時間が飲み干された頃にはもう、隠し刀の理性ははち切れそうだった。
「ご馳走様です」
きら、と光が目を貫く。瞬きを繰り返すと、隠し刀は次の一杯を探し始めた諭吉の頬に手を添えた。
「月が綺麗だ」
「ええ、」
諭吉の戸惑う瞳の中で、月が揺れる。なるほどこれは楽しむ価値がある。酒に映る月を愛でるくらいなのだ、間違ってはいるまい。虜にした月を貪ると、しっとりと濡れた感触が柔らかく応えた。
この『月』を、もし手元に残せるものならば残したい。あるいは全部食べ尽くそうか。ようよう離れるも未練がましく、隠し刀は飲み足りないと不平を漏らす諭吉の頬を突いた。
「これから先、月を観る度に思い出しそうだ」
「ふふ」
麦酒の瓶を開けて、諭吉が肩を揺らす。なんとか機嫌を直してもらえたらしい。
「それじゃ、僕も月を観なくてはなりませんね」
後で、じっくりと。注がれる眼差しの熱さに頭が煮えてしまいそうだ。黙って静かに頷くと、隠し刀は麦酒の泡を流し込んだ。
〆.