幸なるかな、愚かな人よ 最初はクリスマスだった。次に母の日が来てバレンタインデーが来て、父の日というなんとも忘れられがちなものを経てハロウィンがやって来た。日本のカレンダーでは直接書かれることはまだまだ少ないものの、じわじわと広まった(あるいはメディアなどの思惑に乗って広められた)習慣は、お花見よろしくお祭り騒ぎをする格好の理由として大流行りを迎えている。街中に出れば、芋栗南瓜くらいしかなかった秋の風景に、仮装衣装が並び、西洋風の怪物や魔女、お化けといった飾り物が目を楽しませてくれる。
秋と言えば何といっても紅葉で、その静けさと味わい深さを愛していた福沢諭吉にしてみれば、取り立てて魅力的なイベントではない。寧ろ、大学で教鞭を奮う立場にとっては聊か困りものでもあった。校門前には南瓜頭を被った不審者が守衛に呼び止められ、学生証の提示を求められている。ブラスバンド部が骸骨が描かれた全身タイツを着て、ハロウィンにちなんだ映画音楽を演奏し、それに合わせて黒猫の格好をしたチアリーダーがぴょんぴょん跳ねる。ここぞとばかりに菓子を売る生協の職員は魔女で、右を向いても左を向いても仮装をした人間が目立った。まともな格好をしている人間が異界に迷い込んだ心地とはまさにこのような状態を指すだろう。
もちろん異界は教室にまで及んでいる。教室に入り、教壇に立った諭吉は、ぐるりと生徒たちを見回して例年通りの口上を述べた。
「後ろの席の人の邪魔になるような衣装は外してください。それと、目立つ格好をした学生から順に当てますから、準備をするように」
当てられると聞いた途端に慌てだし、生徒たちがばたばたと動き始める。笑いあって菓子の交換をしていた殺人鬼たちもすっかり大人しくなり、ある程度は大人しい、落ち着きを持った空気が舞い戻った。
「では今日は部分均衡モデルについてから始めます。君たちの今日の行動が、どんな経済効果をもたらすのか、何故起きたのかを分析していきましょう」
相手が応えてくれるのであれば、こちらも用意はある。わ、と沸いた単純さにふふ、と口元を緩めると、諭吉はホワイトボードに向き合った。
「なんであなたまで、そんな恰好をしているんですか」
一連の講義を終え、ようやく自分の巣である研究室に戻った諭吉は、出迎えてくれた人物を見るなり大いに脱力した。ここでならば日常の中で落ち着いて仕事ができると思っていたのに、その安寧の中核である隠し刀(今生では自分のアシスタントを勤めてくれている)はすっかり俗世にまみれていた。
「事務局にいた頃、この格好をすると学生が言うことを聞いてくれやすかったんだ。今日は午前中、あちらを手伝っていたものだから……すまない。お前が好まないならば着替えてこよう」
「確かに、学生には受けるでしょうね」
隠し刀の扮装は狼男であるらしい。元々男性らしいがっちりとした体格をしていることもあり、普段のスーツではなく横縞のTシャツ(流石に裸にはならなかった)は彼の肉体美を余すところなく引き出していた。表情こそ乏しいものの、頭の上に飾った狼の耳を象ったカチューシャは愛らしく、おまけに牙まで装着しているらしい。生真面目さのそこここから茶目っ気を感じ取れる、良い仮装と言えるだろう。学生の何割かは、食べられても良いと思っても不思議ではない。そこまで想像を巡らせると、諭吉は何とも言えぬ気持ちの悪さを覚えて懐を探った。今は無性に煙草を吸いたい気分だった。
「諭吉、トリックオアトリートだ」
「え?」
ぱ、と前に差し出されたのは、チョコレートの丸い包だった。しかも自分が気に入っているコーヒー味で、絶妙なタイミングに諭吉は流されるまま受け取り口に放り込んだ。甘い。生クリームの量が多いためか、なめらかで口の中ですぐに蕩けてゆく。わざわざ学生たちのために準備したのだろうか?仮装に加えて菓子まで準備しているとは、実に行き届いたアシスタントだ。福沢ゼミの学生たちは、さぞかし喜んだに違いない。
「そのチョコレートは諭吉専用だ。学生には生協にもらったお裾分けを配った」
「……お気遣いいただき、ありがとうございます」
気分が悪くなった端から原因が拭われ、雲が取り払われる。これだからこの男は油断がならない。どこまで自分の心を読んでいるのか、知りたいような知りたくないような、チョコレートを口の中で転がしながら諭吉は悩める眉間を指で揉んだ。疲れに甘さがよく染みる。
「しかし、菓子をもらうのはお門違いではありませんか?僕は悪戯をするつもりでは」
否、すれば良かったと気づいて諭吉は唇を噛んだ。彼が仮装している時点で、この機に乗じるべきだった!折角の機会を不意にした己が呪わしい。ハナから防衛にかかった隠し刀の方が矢張り一枚上手らしかった。
「うん。だから先に訊いたんだ。トリックオアトリートだぞ、諭吉」
「なるほど」
もちろん諭吉は菓子など持っていない。隠し刀の意図を読み取り、浮き上がる心のままに相手を引き寄せると、諭吉はちゅ、と軽く口づけた。
「これはお菓子に入りますか?」
「もう少し確かめないと、味がよくわからないな」
「良いですよ」
どうぞ、と言いながら冷静に今日のスケジュールを振り返る。講義やゼミはもうなく、懸念点はゼミ生が突然来る可能性くらいか。否、それも情人は確り追い払ってくれただろう。何しろ今日はお祭りの日、外で騒ぐ方が楽しいに違いない。
分厚い舌を口中に迎え入れて、諭吉は祭りの波に身を委ねた。
〆.