お揃い 寒さが少しずつ肌身に染みるように、道具にもまた季節の変化は訪れる。障子はたわみが取れてスッと背筋を正し、外に置いた箒は朝に触れると思わず取り落してしまいそうな程に冷たくなる。空気が乾燥しているのだな、と己の手袋を見た福沢諭吉もまた冬支度に想いを馳せていた。衣服にこだわりはないので、せいぜい綿入れや分厚い外套を用意するだけで済むのだが、こと手袋に関してはそうはいかない。
常用している木綿の白手袋は季節構わず洗って使いまわせば良いが、冬場に愛用する革手袋は話が別だ。乾いた皮膚のように艶を失い、深く入った皺は今にも割れてしまいそうである。一度壊れてしまった革は死んでいるので、最早傷を癒して元に戻る術を持たない。世話をするのは死骸を引き取った持ち主の役割だ。
「ヴァセリンを塗りましょうかね」
先日、情人である隠し刀が分けてくれた英国の軟膏を思い出し、ついで初めて使った時の心地を思い出して頬がぽっと赤く染まる。これから会いにいく相手との情事であるため無理からぬ連想とはいえ、恥じらいがないわけではない。あれは色々な意味で興味深く、後を引いたと情欲がぽんぽんと芋蔓式に蘇る。真っ白な軟膏は驚くほどに滑らかで、一番の用途は傷などを癒し、保湿することだ。実際、あかぎれができた際に塗ってみればするりと馴染んで治りが早かった。故に初めて使用した際には無茶な行いであったにも関わらず、何もかもが本来の体の機能であるかのように円滑に進んだのだ。
「だめ、だめだ。しっかりしないと」
今日は情人の、それこそ手袋を見繕うために横浜に行くのである。往来で赤面し、欲をたぎらせている場合ではない。自分ばかりが舞い上がってどうする、と頬をぱんぱん軽く叩くと、諭吉は洋品店の前で佇む隠し刀に軽く手を振った。
「お待たせしました」
ひそり、と自分にだけ呼ぶことを許された情人の名前を続けると、男の表情が緩む。と、言っても表情の変化に乏しい彼から春の日差しのような暖かさを浴びることができるのは諭吉だけだろう。終生自分だけであって欲しい。
「いや、ちょうど今来たところだ」
手袋の残念なところは、寒さから自分を守ってくれるが、外界の変化を感じ取れなくなる点だろう。今男の手に触れたらば、きっと芯から冷えているに違いない。申し訳なさを感じるものの、相手の心遣いをありがたく受け取って諭吉は店の中へと相手を誘った。洋風建築の扉を開けると、ちりりんと軽やかな鈴の音が鳴り響いた。
「ごめんください」
「いらっしゃい。今日は何が入り用かな。冬物を仕入れたばかりだから、色々揃えがあるぞ」
パッと表情を明るくして出迎えてくれたのはマーカス・サミュエルだ。普段は卸売商人として忙しく飛び回っている青年実業家は、購入者の反応を見るためにと小売店も営んでいるのである。ここで気に入ってもらった品を大口輸入することもあり、ただの実験ではなく実益も兼ねているらしい。生き馬から目を抜くような商売の世界を渡り歩いてきたらしい、如才のなさだった。
「冬物、とは限りませんが……手袋はありますか?できれば、僕が身につけているものと似たようなものがあれば嬉しいのですが」
「白の革手袋か。うん、いくつか在庫にあったはずだ。確認してこよう。その間、好きに店を見て回ってくれ。他にも気に入るものがあるかもしれないからな」
「よろしくお願いします」
似たようなもの、と聞いて隠し刀がそわそわとした様子を見せる。彼としてみれば思いもよらぬ注文だったのだろう。彼には単に買い物に付き合って欲しい、と頼んだだけである。
「手袋なんて、別にわざわざ新しいものをあつらえなくとも構わないんだ。それよりも、化学実験に必要な道具を探してみてはどうだ?マーカスのことだ、きっと目新しいものを仕入れているぞ」
「手袋が破れるような真似をする人には必要ですよ。あなたの手は手袋の代わりになりません」
もどかしさから自分の右手袋を脱ぐと、諭吉は相手の手に直に触れた。予想に違わず冷たく、カサついている。よく働いた人間らしい、ごつごつした手だ。節くれ立つ指の一本一本に、その広く分厚い手のひらにヴァセリンを塗ってやりたい。花に水をやるように潤いを与える情景を想像し、諭吉はうっとりとする思いだった。
「あれはたまたま火薬がついて」
抗弁しかけた隠し刀は、懸命にもそれきり貝のように口を閉じた。予想に違わず、危ないことをしていたらしい。火傷の痕が見られないのは、運が良かったからか、手当が上手かったのか、そのどちらもだろう。火薬に限らず物騒なことをする人間であることは百も承知だが、諭吉は止めるように強いることはできないでいる。止むに止まれぬ理由は頷けないにせよ、それが彼の生き方なのだ。時に人は苦いと理解しても尚、好んで口にすることがある。
「ね、必要でしょう」
「諭吉には勝てないな」
苦笑する情人の目に宿る輝きは慈愛に満ちていた。
マーカスの店には毎度おやと思わされる出会いがある。例えば油紙よりも軽い洋傘や色鉛筆(鉛筆はジュール・ブリュネにもらったが、色付きがあるとは知らなかった)、玩具の気球といったものは、隠し刀だけでなく多くの日本人を驚かせ、楽しませた。中には希少性が高く、到底手が届く値段ではなかったが、それでも知ることで世界が広がる思いになる。実際、飯塚伊賀七は定期的にこの店を訪れて己の知識を確かめ、新たな着想を得ている。
実用品だけではない。元々小間物屋を営んでいたというだけあり、マーカスは化粧品や衣類、装飾品も数多く扱っていた。今日は基督教の祭りが近いとかで、それにちなんだ飾り物が散見される。宗教的な重要性は不明(第一信じることは禁じられている)であるものの、祭り気分は賑やかで無害である。絵葉書に描かれた、七福神の恵比寿が真っ赤な服を着込んだような老爺をしげしげと眺めつつ、隠し刀は品物を物色する諭吉をチラリと見遣った。
マーカスの店に行きたいと情人に強請られ、なるほど新作が入ったのかと短絡的に考えた自分は本当に浅はかだった。まさか自分の手袋が破けたまま会ったあの日のことを覚えているとは思いもよらず、更にはこうして新品をあつらえようと手配してくれるとは、彼がいかに気を揉んだかが分かろうというものだ。迂闊としか言いようがない。ただでさえ情人は隠し刀の過去の生業や、今現在も行っている手段を好んでいない。頑健な平和思想の持ち主で、実現しようとする意思と行動力を兼ね備えている。隠し刀は自分の生き方に対して恥じるものはないものの、後ろ暗さを明確に感じるのは無理からぬことと言えよう。
手袋なんて道具の一つ、なんらこだわりもない。必要ならばいくらでも自分で買うし、場合によっては死体から頂戴することだって考えられる。にも関わらず諭吉が労を取ったらば、こだわらざるをえないではないか。捨てられないものが増えてしまう、と冷めた思考を首を振ってかき消すと、隠し刀はマーカスの呼びかけに応えた。
薄い紙箱をいくつか机の上に積み重ねたマーカスは、隠し刀と諭吉がやって来るのに合わせて箱の一つを開いて中身を取り出して見せた。少し黄色がかった、柔らかな色合いの白手袋である。
「君の手は、日本人にしては大きいからな。多分、僕と同じものでも合うだろう。色は白で良いかい?少し象牙のような色合いだけど、山羊の皮だからかなり柔らかいはずだ。もっと温かいものが良いならば、羊皮の手袋もあるぞ」
「すごいな。まるでその……人肌のようだ」
マーカスが持ち込んだ手袋は形こそそっけないものの、滑り込ませた指の端から心地よい波が迎えてくれる。冷たくなければ、生き物を撫でているかと錯覚してしまいそうだ。大きさは十分で、試しに何度か握ってみたが自在に指を動かすことができる。やや薄手でありながらも確りと温かい。細かい作業を外で行う際にも重宝するだろう。
「本当ですか?」
恐る恐る、といった様子で諭吉の手が触れる。手袋をしながらも相手の手の感触が生々しく伝わるのは、隠し刀にとって初めての経験だった。それほど山羊革が薄いのだろう。簡単に破れてしまわないのか、と質問を重ねれば、マーカスは自信を持って首を振った。
「手入れさえすれば何十年だって使えるとも。乾いたらヴァセリンを塗ってやれば良い。ただ、水には弱いから、濡らすのは駄目だぞ」
生きていないものは水に弱いのだ、と笑えぬ冗談を言ってマーカスは可愛らしくない値段を提示した。
「出せて半額だな」
「良いものは高いですね」
誘った手前、諭吉はひどく残念がりながらも現実を受け入れているようだった。流石に遥々海の向こうから運んできたものを半額に値切るのは心苦しい。代わりに他にないか、と尋ねれば魔法のように箱から商品が取り出される。
「手が届きやすいのは、牛革、次に豚革だな。軽さや薄さを取るなら、豚の方がお勧めだ。頑丈さでは牛の方が強いし、長年使っても問題ない。もちろん、その分硬いけれどもね。福沢君が使っているのは……失礼、少し見せてもらうよ」
「どうぞ」
諭吉が両手を露わにして手袋を渡すと、マーカスは拡大鏡を取り出して検分した。恐らくは手相見よろしく革の目でも観ているのだろう。縫い目まで確認すると、商人は丁寧に持ち主に返した。
「福沢君の手袋は牛革だね。恐らく米国製だろう。君たちは運が良い」
「と、言うと?」
わかりきったやり取りながらも反応すると、茶目っ気のある青年は箱の山の下の方から一つを引っ張り出した。
「ちょうど似たようなものがあるんだ。ただ、少し染めにむらがあってね……その分、お値段もお手頃というわけさ」
「なるほどな」
「……はあ。あなたが商売人だと言うことをすっかり忘れていましたよ」
こんな話のやり取りをすれば、ちょっと魅力的な値段ですぐによろめいて財布の紐が緩んでしまう。心底嬉しそうな顔をしたマーカスは、懐に優しい値段を告げた。最初に最高級品とその値段を聞かされた手前、明らかに耳を傾けるに値する数字である。念の為、と自分を抑えつつ手袋を嵌める。元は大柄な牛だったことを感じさせる、張りのある手触りは、山羊革とは比べものにもならない。自分が持っていたものよりも十分上等で、何より諭吉の持つものと揃いというのは大いに心をくすぐられた。
情人同士で揃いのものを持つ習慣があるとは高杉晋作に聞いたことがあったが、自分が持つことはついぞ考えてはいなかった。自分は趣味がないが、諭吉には明確な好みがあり、また互いに無闇に物を増やさないよう努めている。お互い、いつまでも一所に構えて暮らす未来を描いていない証拠と言えるかもしれない。悲哀を帯びずに淡々と受け入れられるのは、目にみえる物に依らずとも自分たちは繋がっているという確信を抱けるようになったためだ。とは言え、揃いの物を持てるというならば諸手を挙げて受け入れたい。両手に革手袋を嵌め、問題ないことを確認すると、隠し刀はうんと頷いた。
「これを貰おう。汚れないように、箱もつけてくれ」
「もちろん。お買い上げ、ありがとうございます」
上機嫌で箱を渡すマーカスと対照的に、諭吉はむむ、と眉間に皺を寄せていた。
「まさか、仕舞い込む気ではありませんよね」
「いや。諭吉と出かける時専用にしようと思う」
正直なところ、普段通りに使っていればいずれ手袋とその場の目的のどちらかを選ばねばならない時が来る。ならば比較的安全と解る時にだけ利用したい。実務用としては後でマーカスに、新旧問わず丈夫で同じ大きさの革手袋を安く譲ってくれるよう頼むつもりだった。説明を受けた諭吉は反論しなかったが、眉間の皺は店を出ても尚解けずにいる。何かを言いたいようで、口を開いてはむうと唸る。二進も三進も行かない情人の口が開くたび、冷たい空気に白い雲が浮かんだ。
多分、自分にはわからぬ、正しいが正しくない人の心に惑っているのだろう。諭吉は聡明だが、理性と感情に丁寧に折り合いをつけようとするきらいがある。慇懃無礼に切って捨てられない情を感じ取って、隠し刀は大事な存在が風邪をひかぬよう、自分の襟巻きで包んでやった。首筋が冷たい空気に触れて肌が泡立つのは一瞬のこと、もこもこに包まれた諭吉を後ろからぎゅうと抱き締めれば、一際大きな白い雲が浮かび上がった。
「……少しでも、あなたが危ない目を避けてくれるのではないか、と期待した僕が愚かでした。大切にしていただけるのは嬉しいですが、難しいですね」
「ありがとう」
自分の身を心配し、自分の痛みを慮って憂える優しさがこの世に存在することがどれほど嬉しいか伝えられたらば、と思う。小さくちぎった言葉を降り積もらせても尚足らず、舌はいつだってもつれるばかりだ。もう一度ぎゅう、と抱きしめると、隠し刀は諭吉の前に自分の手を広げて見せた。
「以前の私は、手が無くなれば不便になると思っていた」
不便だ。何をなすにも足手纏いとなり、到底目的を叶えられまい。だが、なくなったらなくなったで、道具はそれなりの使いようがあるだろう。最善の結果であれば問題ない、それが隠し刀という道具の理屈なのだ。なくなったものに対して未練もない。
「今は、ただ惜しい」
諭吉に触れようと思ってもその手はもうなく、触れた記憶をいつまでも思い返して口惜しくなってしまう。失われたものは二度と戻って来ず、喪失感を永劫抱えたままになりそうで恐ろしい。何より、誰あろう諭吉が悲しむことは容易に想像される。拙い言葉を駆使して訥々と想いを並べ立てるも、三途の川で積み上げる石のように積んだ端から崩れそうでまとまらない。彼の本心とは遠からず、しかし恐らくは人でなし故不完全だろう。雲を掴もうと白手袋を彷徨わせていると、不意にもう一つの白手袋が飛び出してむんずと掴まれた。
「無くさないでください」
「全力で善処する……痛いぞ、諭吉」
「あなたが可愛げのないことを言うからです」
ぎゅうぎゅうと手を握る力は強く、万力で締め上げられるかのようだ。とは言え、その場限りの嘘をついたところで無意味である。情人には真剣に接しているからこそ、空手形を出す真似はしたくなかった。言葉を返せず手を握り返すと、ほんの少しだけ諭吉の力が和らいだ。
「約束しましたね。全力ですよ」
「ああ。約束しよう」
ほら、と誘われるままに隣に並んで手を繋ぎ直す。左右に並んだ手はそっくりで、人が見たらばお揃いだと解るやもしれない。否、お揃いにしているのだと解って欲しい。子供のように繋いだ手を振る。どちらからでもなく笑う顔もきっとお揃いだ――それも、幸せでいっぱいで。
〆.