強風で窓ガラスがガタガタと揺れる部屋の中心で、サカズキは目を白黒させるしかなかった。
「んまぁ〜〜ごめんねぇ先生!あたしも手伝うから!ハイこれバケツ!」
日頃は騒音に目くじらをたてるばかりの大家も、この状況では心強く親切極まりない。ありがとうございます、と100円均一の小さなちりとりを脇に置き、サカズキは雨水をバケツで掻き出した。
数日前から今年度最大級と噂された台風が直撃したのは週末だった。命を守る行動を、という指示のもと学校でも危険物は体育館に仕舞い、連絡網とハザードマップを一枚にまとめたプリントを配布したのが記憶に新しい。金土日の部活動は中止とあって、生徒も教員も足速に帰宅した。かくいうサカズキも戸締りは校長に任せ通常より2時間早く職員室から出たし、台風需要で人で溢れたスーパーで水とインスタントを買い溜めして、帰宅後は窓に養生テープまで貼った。やるなら徹底的にと雨の予感濃い曇り空の下、ベランダの掃除もして我ながら準備バッチリじゃなと腕組みしていたのだ。
それでこの有様である。借アパートの自室は三階であるにも関わらず浸水していた。ちゃぷ、と強風の重い風音と雨音に混じる異音に目を覚ましたのが深夜5時、電気をつければフローリングは浅瀬のプールと化していたのだ。原因は屋上からの桟がサカズキのベランダを通っていた事、そして丁度ここで屋上の堆積物が詰まってしまったこと。幸い自室とはいえ物が少なく、床下収納もなかったのが幸いだった。急ぎ大家に電話して今に至るまで排水作業に追われている。ふと目に入った時計は朝8時を差していて、空が暗いままだとここまで時間感覚が狂うかとため息がでた。結局30分後、掃いても掃いても水位が変わらないことに業を煮やした大家が力技で桟を取り外し、浸水は収まった。結局その日は台風が過ぎるまで大屋の家に移動し、夕刻まで寝直すこととなった。
とはいえ、フローリングはサカズキだけの問題ではない。目を覚ましてすぐ、大屋は二階に水漏れしていないかの点検と床板の張り替えの為、一時立退をサカズキに要求した。話を聞くと、親戚がビジネスホテルを経営しているので工事期間そこに住んで欲しいとのことだ。勿論宿泊費は不要だったので、サカズキは有難くその選択を受け入れた。そうして着替、指導要領、教材にPCを愛車に積み、台風直撃から半日後、1ヶ月間のビジネスホテル生活が幕を開けた。
結論から言えば快適だ。学校から近く、自宅よりわずかに狭いが毎日清潔なシーツの敷かれたベッドがあるので余ある。近年ホテルに居住する社会人も一定数いるのも一理あるなとサカズキは朝食バイキングをつつく日々だ。元より自炊するタイプではないのでそこも性に合っていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「じゃ、お先に失礼するよぉ〜」
言うなりピュンッと光の速さで定時退勤するボルサリーノを横目にプリント整理を続けていると、ドンドンと校舎が壊れる音の後、生徒の怒号と悲鳴が走る。日常的な生徒の暴走だがいかんせん校舎の修繕費は無限ではないため、やれやれとサカズキは席を立った。
「サカズキ先生〜!」
「どいつらじゃあ!」
「一年の麦わらと二年のクロコダイルが...!」
結局この日の退勤は20時を超えた。
「あんのアホども...砂嵐でどこまで飛べるかなんぞどうでんいいし、やるにしてももっと広い場所でよかったじゃろうが...」
中庭で砂嵐を起こせば屋上まで登れる説を実証していたと大きなたんこぶをこさえて二人は説明した。おおよそ麦わらの提案に売り喧嘩に買い喧嘩でクロコダイルも協力することになったのだろう。お陰で中庭とそれに面した各教室は砂まみれ、主犯二人と手隙の教員でヒイヒイ言いながら掃除していたら日が暮れた。2人を保護者に引き渡した後、サカズキは帰路に付いている。この体では砂まみれになると愛車は学校に置いてきた。歩いてもそう遠くないのが幸いだった。体も口の中も砂混じりでとにかく風呂が浴びたい。いつもより大股でちゃかちゃかと進めば想像より早くホテルへ着いた。あとは鍵を受け取り熱いシャワーを、とフロントにズカズカ近づく。と、右肩にドン、と衝撃を受けた。
「んあ?」
なんじゃいと顔を向けると、ぶつかったのは見知った男。その向かいに知らん女。
「ありえない!帰る!」
「違うんだって、ねーちゃん。」
「他の女のキスマークつけてよく言えるわね!?」
すぐ近くのエレベーターから降りてきたらしい2人は服に乱れがあって、状況はいやでも見てとれた。
「いやいや、本命じゃないのよ」
「ならなんで手出したの?馬鹿にしてるの?今晩口説いてきたのは嘘だってことでしょ!」
「いや、その子もあんたも本命じゃないってこt」
バキン!
女のエナメルのバッグが男の頬に直撃して、男の首はガラス細工のように砕けて落ちた。死ね!と一喝して女は出て行く。いいスイングじゃな、と他人事のよう観察して、サカズキは砕けた破片を摘みながら言った。
「わしもそれはあり得ん思うぞ、クザン。」
「あらら珍客。一杯奢るから見なかった事にしてくんない?」
ぱきぱきと冷気を纏わせながら原型に戻っていく同僚に、サカズキは白い目を向けた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「未成年じゃなかろうな。」
「さすがにヤバいだろ。アンタの中で俺どんだけ期待値低いのよ。」
湯上がりのラフな格好のままチェーンの居酒屋で大男2人が箸を進めている。あの後クザンがフロントに詫びをいれている時間でざっとシャワーを浴びて飲みに外に出た。21時前で店はごった返し場末といった感じだが、それが風味となって酩酊に浸かれるというものだ。
「小綺麗にして、いい子じゃ思うたが?」
「あー、前にガープさんと行ったキャバの子よ。向こうが店外で会おうって言うからさぁ。」
まさか俺のこと本指じゃなくて本命だって思わないじゃない、と一年学年主任のクザンは梅酒をついとあおる。
「その気がないなら線引きせぇ。」
「え〜だって溜まるもんは溜まるじゃん。」
「そろそろ身を固めたらどうじゃ。見合いでも何でもお前ならよりどりみどりじゃろうが。」
アジフライに歯を立てながらサカズキは言う。別にお世辞でもなく、クザンはよくモテるのだ。少し悩んだふうにう〜んと呟いて、男は言う。
「結婚は好きな人としたいじゃん。」
「うわ....」
「らしくない反応で煽んないでくれます!?」
もうすぐ50代の男が口に出すとまぁまぁキツいぞと連続攻撃するとスン...と無感情な顔になったクザンにビールを凍らされた。姑息な手はやめんか。
「あんたは再婚しないの?」
小さな器のモツ煮を突きながら問うクザンの声色には意趣返しと心配が混じっている。サカズキは15年前妻に先立たれて以来独り身だ。
「もう一人暮らしに慣れたからのぉ。自炊はせんが。」
サカズキはレバニラ炒めに醤油をかけて、その後七味をもっさりと振った。出たよ、と嫌そうな目でクザンは自分の小鉢をサカズキから遠ざける。
「男一匹じゃとそう物も溢れん。まぁ突然死しても処分は楽じゃろうて。」
「アンタさぁ、笑えねーよ。」
あ!今くしゃみするなよ!と七味を警戒しつつ唐揚げにレモンを搾って、あ!と思い出したかのようにクザンが顔を上げた。
「何であのホテルいたの?シャワー浴びるだけだった?」
「今あそこに住んどる。この前ん台風の雨でフローリングがイカれた。」
ベランダに雨が貯まって...と詳細を説明するとかわいそ〜と雑に返されたので、サカズキはクザンの頼んだ明太卵焼きに躊躇なく七味を振りかけた。おいバカ!と喚くクザンの残している唐揚げをついでに素早く己が口に放った。
「こんにゃろ、嫌がらせが20年前と変わってねぇぞ」
「変えちょらんからのぉ。」
このマグマこどおじさんがぁ...と七味から逃れた卵焼きの端っこをついついとクザンが切る。お前も舌がガキのままじゃろうが...と嫌味垂れようとサカズキが口を開けると。
「ウチ来なよ。」
クザンに先を越された。
「は?」
「気はあわねぇけど、20年来の同僚が現役で孤独死なんて俺はやだよ。」
「お前、いい相手ができるかもしれんじゃろ。」
「そういうことは出来たら考えればいいだろ。」
「家に女も呼びにくいじゃろ。」
「俺は家に遊びの子は上げねぇ主義なの。だから大丈夫。」
しかし、と口籠るサカズキに反して、クザンはいつもの飄々とした口調のまま続ける。
「このご時世、老衰で孤独死なんて意外に難しいぜ。将来施設に入って共同生活送る練習にもなるんじゃねぇの?俺もそろそろ一人暮らしが板についちまうと独身貴族まっしぐらだし、お互い助けると思ってよ。」
あ、家賃は折半な。とクザンは最後にやってきた焼鳥を一本取る。その砂肝はわしのじゃぞ、と手を伸ばすとひょいと避けられた。にいっと生意気な笑顔の同僚は嫌というほど見覚えがある。サカズキは日頃老獪ぶるこの後輩の、年下らしい一面を気に入っていた。
「オッケーするならこれあげる。」
深夜23時。居酒屋から駅までの通りにある不動産屋は閉まっていたが、そこには大男が2人、街灯の下張り出されたルームシェア用の物件を眺めていた。