くつひもと迷子 そりゃあ、キバナにだって不得意なものの一つはある。別の言い方をすれば、そのたった一つしかないのだけれど、柔和に見えて妙に完璧主義者な彼にとって、それは誰にも知られたくない欠点であった。だから厳重に、慎重に、秘密にしていたのだけれど。
「なあ、キバナ」
着替えが終わり、荷物を背負ったところで呼び止められる。なあに、と疲労の残るくちもとを微笑ませて振り返れば、ダンデがやや下の方へ視線を落としながら、「それ、直したほうがいいんじゃないか」と言った。
「それって?」
「スニーカーのひも」
ぎくり、として足を引いても隠せやしない。キバナが履いている限定モデルのスニーカーは、コレクター垂涎の品で、色使いも鮮やかでスタイリッシュなものだ。けれどその中心を編み上げるシューレース、──くつひもの蝶々結びが、縦方向に曲がっていた。
「せっかくかっこいいスニーカーなんだから、ちゃんとしたほうがいいぜ」
お気に入りのものを「かっこいい」と褒めてもらったことに心を躍らせる余裕もなく、キバナは「あー、まあ、あとでね」と歯切れ悪く返事をした。
「今直したらいいだろ」
「いいんだ、大丈夫」
「ふうん」
ダンデは少し目を細め、やがて興味を失ったように背を向けた。着替えを再開したその背中に、ほっと息をついたのも束の間、ダンデは再び振り返った。
その瞳は、きれいな三日月の曲線を描いている。まるで、おもしろいものでも見つけたかのような表情で、ダンデは言う。
「キミ、蝶々結び、苦手なんだろ」
おれが直してあげるよ。いつでも直してあげる。いたずらっぽく笑ってキバナに近づき、その足元で膝をついた。
それ以来、キバナのくつひもは、そっぽを向いたことがない。
キバナは何でもできる男だ。キッチンに立てば華やかな料理が作れるし、身につけるものはどれもセンスがよく、ふとした時のはなうたですら半音も外さない。そんな彼だったが、蝶々結びだけはだめだった。何度か練習したこともあるが、どうにもうまくいかない。ネットの検索欄に「蝶々結び きれい やりかた」という履歴を残しただけで終わった。
だから、「おれさまの蝶々結びはこういうものだ」ということにした。これのせいでスニーカーの見栄えが少々おかしくとも、それがファッションなのだと開き直りさえした。ジムのユニフォームと合わせるくつは、マジックテープの特注品にした。「ドラゴン用耐火グローブをしたままでも脱ぎ履きしやすい」というもっともらしい理由を吹聴して歩いた。周りはそれで納得した。
けれど唯一、ダンデにだけは見破られたのだ。
「あのさ、ダンデ」
ダンデの背後から、キバナが呼びかける。この男にしては珍しい、ちょっぴり弱々しい声色が何を求めているのか、ダンデはもう知っている。ロッカーの扉を閉めて振り返ると、彼は既にベンチへ座り、ダンデをおずおずと見上げていた。
「くつひも、結んでくれる?」
「いいぜ」
何度聞いたか分からないお願いに、何度返したか分からない返事をする。
キバナは律儀な男だったので、ダンデの答えが決まりきっていたとしても必ず「結んでくれるか」と問いかける。「結んで」と言われたことは、一度もなかった。この男には、そういうところがある。
ダンデは膝をついて、丁寧にひもを結ぶ。くるりと巻いて、輪をつくって、通す。こうして見ていれば簡単そうなのに、キバナの指先はちっとも言うことを聞かない。彼の靴箱の中には、結び目が曲がったくつで溢れている。夜毎、それをほどいては結んでいるけれど、ダンデみたいに上手くできたことは一度もない。
「できたぜ」
右足の上で、きれいな蝶々結びが出来上がっている。満足そうにそれを確かめたダンデは、意気揚々ともう一方にとりかかる。キバナは、その左巻きのつむじに「なあ」と呼びかけた。
「いつもやってくれて、ありがとな」
「どうした、やけにかしこまって」ひもを、くるりと巻く。
「なんだか申し訳ないなって。おまえに膝をつかせて、ひもなんか結ばせてさ」
「……いいんだ、おれがやりたいだけだから」輪をつくって、通す。
「おれさま、ちゃんと一人で結べるようになるよ」
「……」両端を引っ張って、結び目を固くする。
「だからさ、もう大丈夫」
ダンデは、左足もきちんと結べたのを確かめてから、ゆっくりと顔を上げた。その澄んだ金色が見つめているのは、誰でもできることができない男なのだと思うと、キバナは少し頬が熱くなった。
ちょっと泣きたいような気持ちになって、目を逸らす。冗談めかして「ダンデがいないところで靴紐がほどけたら、どうしたらいいか分かんないし」と言った。ダンデは黙っている。
そろそろ行くね、と言いかけたところで、ダンデが唐突に「キミの、」と口を開いた。思わず目を向けると、彼はいつの間にか俯いていた。
「キミのくつひもが、もし、どこか遠くでほどけても」
ひと呼吸ぶんの沈黙。やがてダンデは言う。小さく、つぶやくように。
「おれが結んであげる。いつだって、どこへだって、キミのところへ駆けつけて、おれがきれいに結んであげる」
この時、キバナは気がついた。俯くダンデの耳の先が、ほんのわずかに赤らんでいることを。
「おれが、そうしたい。そうさせてほしい」
まるで意気地のない声だった。今目の前にいるのは、煤けた頬を乱暴に拭う英雄ではなく、長年をともに過ごしてきた良き友人でもない。額に汗を滲ませながら、キバナの「唯一」を請う、ひとりの青年だった。
そうしてキバナはようやく、「蝶々結びができない」という己の欠けた部分が、ダンデというひとの形をしていることを知る。恥ずべきものだと思っていた空洞に、この男がぴったりとはまりこんでいる。まるでパズルのピースみたいに。
それに気がついたとたん、たちまち世界が変わってゆく。この唯一の「欠け」が、とてもいとおしくなってくる。簡単なことができなくったって、それでもいいじゃないか、と思えてくる。だって、ダンデがいるから、大丈夫。
なにか熱いものが両目から溢れかけたので、慌てて「駆けつけるったって、おまえ、道に迷うでしょ」と言うと、ダンデはようやく笑顔を見せた。そうして照れくさそうにはにかみながら、
「そしたら、キミが迎えにきてくれ。キミはくつひもを結ぶのは下手だけど、道案内はうまいだろ」
ダンデは迷子の常習犯だった。それはきっとダンデの「欠け」なのだ。
その空いた部分は、ぴったり自分の形をしているといい。キバナはそう思った。
(くつひもと迷子/2022.01.15)