掌中之珠掌中之珠
誰かが俺の名を呼んで肩を揺らす、その声は遠くに聞こえるーー何度も繰り返して呼ぶものだから重い瞼を開いた。
「魏嬰」
真っ白な世界が見える、そして真白な男の姿が見える。
「藍湛」
「すまないが起きて欲しい」
人の温もりが残る布団から引きずり出され魏嬰は寒さで体を震わせた。
「俺・・・まだ寝たい、あと寒い」
今何時だ、藍湛が身支度を終えてるから卯の刻か?
「火急な案件が入って私は出なくてはいけない」
「そうか・・・俺にかまわないで行ってくればいいだろう」
藍湛は首を振って俺に話す、そうだった忘れていた今日は藍先生の所に行かなければいけなかった。
「そうだったな、今から霊泉に連れてってくれるのか」
ダルイ身体を起こして魏嬰は寝台に足を出して座る、乱れた寝間着から肌が露出していた白い肌に痛々しい噛み跡、手首には縛られた跡と体中には赤い印が数えきれないほど残っていた。
「君を冷泉に連れ行く時間がない、本当にすまない」
魏嬰の着替え用の藍氏の白い羽織を持ってただ静かに藍湛は謝罪の言葉を続けた。
「おいこれで何度目だ三回以上同じ事繰り返している。文句を言われるのは俺なんだぞ後冷ややかな視線に耐えるのも」
魏嬰が乱れた髪をさらにぐしゃぐしゃにしながら抗議を訴えてがその手を掴まれ動きを術で封じられ白い羽織に着替えを終わらせた後静かに抱きしめた。
「こんなことで俺は許さないからな」
抵抗しようとするが力では敵わない、そして俺はこの男に昨晩散々抱かれたせいで体力がほとんど尽きている。
「許さなくていい、今はこうして私の傍にいてくれさえいれば」
「俺は・・・」
ここに連れて来られ閉じ込められてからずっとこうだ、夜は女の様に抱かれ昼間いない間は静室に一人で過ごすか藍先生の話を聞かされ雅正集の写しなど行う、他の藍氏の門下達には白い目冷たい目と陰口・醜聞・・・耳障りすぎる毎日こちらに関しては俺自身仕方がない事だと甘んじて受けている。
「私は君とただ一緒にいたいだけで」
散々近寄るなと来るなって拒絶してたのはあんただろう、何を今さら・・・しかもまたそんな悲しい顔しやがる、俺が悪者じゃねーか。
「最近島遠出の依頼受けてくるのは。ほら、なんとかして俺とあんたを引き離したいみたいだな藍先生、いや藍氏の人間達は」
「魏嬰」
無理やり引き離そうとするがむなしいだけだ、以前の俺だったら簡単に逃げ出せたのに腕の中でうつむいたまま呟いた、こいつが聞きたくない言葉を。
「藍忘機、含光君・・・藍湛、あんたの手で終わらせてくれ、疲れたんだよ、楽にしてくれ・・俺をこ・・」
ドンと力強く寝台に突き飛ばされ覆いかぶさってきた俺は目を瞑る、また被害者面してる藍湛の顔なんてみたくない。
「魏嬰私を見て」
「その先の言葉の続きを聞きたくないのならここから追い出せばいい、俺を視界に入れなければいい忘れればいいだけだあんたの叔父上が言ってるんだろ」
『藍湛、俺を見てくれよ』
俺がお前に言った言葉、その時あんたは見なかっただろだから仕返しだと俺は固く目を閉じた。
「・・・魏嬰私を」
トントンと扉を叩く音で藍湛の気配がガラリと変わった。
「忘機時間だよ。魏公子の支度は終わったのかい」
「はい、今終わりました」
魏嬰は呆れた、本当俺以外には真面目で綺麗な含光君を演じるんだなと、寝台から起き上がると藍湛がもう一度俺の身支度を整える。
「魏嬰行こうか今日は兄上と叔父上の所へ向かってくれ」
「分かったよ、ほらいつもの拘束早くしろよ」
両手首をくっつけて藍湛の前に差し出したのだが紐を取り出し軽く置いただけで静室の扉を開く。
「おい、決まり事だろ」
「今日は私が忘機の代わりに拘束します。帰りが遅くなりますからね、丸一日両手を封じられると困るでしょう」
部屋に入ってきた藍曦臣が魏嬰の両手首を静かに拘束して念を込めた、ピリピリとわずかに使える仙気が封じられた。
「こんな真似しなくても今の俺には抵抗する手段などないんですけどね」
「それを知っているのは私達兄弟と叔父上だけなんだから他の者達には示しを見せておかないといけない」
どうして他の者に話さないのだろうか、俺を金家又は江家引き渡すこともせずどういう訳か藍家が全責任を持つという事になった。
「さて二人とも行こうか」
くいと腕を引かれる俺は頷いて兄弟の後に続いて廊下を歩く、近い場所に藍啓二の部屋はあるのだが、俺はとある一室まで歩いていく時折門下達とすれ違い嫌な言葉が今日も耳に入る。
「あの体にある跡見ろよ、含光君から罰をうけたんだな」
「毎日大変だな含光君も本当迷惑な人間だ、何故引き渡さないんだ」
「含光君の御慈悲だろ」
「いや、夷陵老祖を庇ったのは含光君だろ」
「含光君が夷陵老祖に術をかけられ・・・」
魏無羨はすれ違った門下を下から睨みつけた。
「君達口を動かす暇があるのなら鍛錬にいってきたらどうですか」
藍曦臣が静かに笑う、笑っているが言葉は冷たく棘も感じられる、さて門下の様子は、小さい悲鳴をあげ頭を下げてそそくさと逃げて行った。
『この後が情事の跡って知ったらあいつらどんな顔するんだろうな、澄ました顔してやることは獣と同じだ』
「忘機気をつけていってきなさい」
「はい」
藍曦臣の声で我に戻り顔を上げる兄弟の顔を交互に見て魏嬰は無自覚に藍湛の袖を掴んでいた。
「魏嬰」
「あ・・・怪我しないように・・気をつけて」
「うん」
掴んでいる手を優しく解きその手で魏嬰の頬を撫でた。
「行ってくる」
二人で藍湛の姿が見えなくなるまで見送り藍啓二が待つ部屋に向かう。
「忘機の見送りは済んだようだな二人とも」
「はい、では後はお願いします叔父上。魏公子戒めを解くよ私は、午の刻にここへ戻ってくるから」
「はい、沢蕪君お願いします」
腕の拘束を解かれ俺は藍啓二と午の刻まで二人きりになる。
座学時代と変わらない書き写しと俺が殺した人達の向けての弔いの経を書き続けるきっと俺の命が尽きるまでこれが続くのだろう。
「藍先生にお渡ししたい物があります」
筆を動かすのを止めないで俺は静かに話しかけた。
「それが書き終わったら出しなさい」
珍しいこともある、言葉を発するなと言われるかと思ったがお咎めなしだと・・・おそらく藍湛がここにいないからであろう。
筆を置き書き終えた物を手渡すと藍啓二は満足したのか箱にしまう、ゴホンとひとつ咳ばらいをした後魏無羨に言う。
「それで、私に渡したい物とは何だ」
御自慢の髭を撫でながらも警戒心は解かない藍啓二を静かに観察しながら魏嬰は一度頭を下げた。
「これです」
袖から数十枚の紙を取り出し机に置く、藍湛が沢蕪君と会話をしている間に忍び込ませておいたものだ。
「ふむ・・・どれどれ、貴様これは」
紙を持つ手が少し震えているのが分かる、驚きなのか怒りかどちらでもあるだろう。
「はい、私が開発した鬼道の術と法具の草案です。乱葬崗に残してきたものとほぼ同じと思います・・・変な輩に奪われた場合悪用するかと思いますのでその対策に使えるかと」
これは本当だ、俺の草案は未完成の物もある、薬と同じ良い方に使う人もいれば逆も然り。
「これを貴様一人で考えたのか、あの時言っていた戯言を具現化するとは何を間違えてこうなってしまったのか」
魏無羨は後ろに下がり頭を深く下げた。
「その件に関しては私が目を覚まし含光君の傷が塞がった時お話しました」
「頭を上げろ」
額を畳みにつけ喉が熱くなるのを我慢して振り絞る様に嘆願した。
「いいえ、藍先生含光君のいない今お願いしたい事があります」
藍啓二は魏嬰の前まで歩み座り顔を上げるようその肩に触れた時違和感を感じながら静かに語りかけた。
「言ってみろ、後少し確かめたい事がある」
ー午の刻ー
藍曦臣が迎えに来た、魏無羨は再び腕を拘束され部屋から出ていく、二人を座ったまま見送り静かに戸が閉められた。
「厄介者がいなくなるのは良い事なのだが・・・忘機が納得するだろうか」
隣を歩く沢蕪君が声をかけてきた。
「今日は叔父上に嫌味事言われなかったみたいですね」
「はい、でも礼則編また間違えてしまいました」
また間違えた、どこを違えたのが藍湛は教えてくれなかった先生も同じで自分で気づけというだけだった。
「しっかりと見ながら書いているのだろう」
無言で頷く、見ているしっかしと一字一句見ているのに、話をしている間に静室の前に着いてしまった。
「じゃあ部屋に入ったら拘束を解く、そして私が出たら外から結界を引くので以前の様に暴れないでおくれよ、あの子が悲しむ」
「はい」
静かに扉が閉められ部屋の中が静寂に包まれ魏嬰は閉じられた扉にそっと指先を近づけるバチッと火花が飛んで息を吐いた。
「藍湛より物騒な結界だな」
部屋の主が戻ってくるまでやる事がない、ここに置いてある書物はほとんど読んでしまった、外に出た時何か買ってきてくれと頼んだものは堅苦しい本ばかりで冗談で春画買って来てよと言ったらその晩最悪な夜になった。
「仕方がないから寝るか」
着替えはまぁ別にしなくてもいいなとごろりと寝台に寝転がって思い出す、ここで目覚めた時の俺を・・・。
目を開く白い天井白い部屋そして暖かいような寒いような、俺はここを知っているそうだ、ここは・・と意識がはっきりした時飛び跳ねて起きた。
「なんで俺は雲深不知処にいるんだ。確か俺は・・陰虎符は・陳情はどこだ」
寝台から降りようとしたが力が入らないのか崩れ落ちた、歯を食いしばり寝台に腕を置き無理やり立ち上がって外へ出ようとふらふらと歩き扉に手を置くが開かない。
「どうして開かないんだ、確かここから外へ出れたはずだ」
掠れた声で扉を両手で拳を作り叩く、何度も何度も叩くがびくともしない。
「ちくしょう、結界が張ってある・・・今の俺じゃこれを破るのは無理だ・・・いや駄目だここから出て戻らないと」
バンバンと大きな音が響き渡る、この場所で大きな声や音は家訓で禁止されてる騒いでいれば誰かが怒鳴りにくる、それが好機だ。
「出せ、俺をここから出しやがえ!!!ここで暴れてもいいのか姑蘇藍氏!!」
扉に血の跡がついても血が床に落ちようがかまわない、助けないとあの場所に残っているあの人達をあの子供助けないと・・・・。
「頼むから俺はどうなってもいいから、あの人たちをあの子を助けてくれよ」
藁にも縋るかのような泣いてる子供の様な声で呟くと再び扉を叩く、バンという音と同時にバキッと嫌な音がした。
もう一度腕を大きく振り上げた時その腕を背後から掴まれた。
「・・・やめなさい」
「含光君」
青白い顔の藍忘機の腕を振り払おうと思った時血の匂いを感じた。
「あんた怪我してるのか」
「それは君の方だ、骨にひびが入ったのではないのか」
自分の手から血が滴り落ちるている扉にも無数の手形や殴った痕跡も残っていてずきずきと痛みを感じるようになった。
「その手を離せ・・・後何故俺はここにいる、どの位間眠っていた・・・後乱葬崗の人達は」
ぐらりと背後の藍湛が俺にのしかかる壁に手をついて支えようと思うったのだがそのまま崩れ落ちた。
「おい、何の冗談だ含光君・・・含光君?藍湛!」
緩んだ腕を解いて身体を反転させた時血の気が引いた、なんだこいつの背中の血は・・・魏嬰は周囲を見回す誰か呼ばないと、だが今周囲に音がもれない聞こえない結界が張ってある。
「藍湛、起きてくれ」 小声で語りかけ静かに肩を揺らす、羽織から血が滲んできてクラクラする。
「忘機入るよ。傷薬と丹薬を・・・忘機、それに魏公子」
藍曦臣が静室に足を踏み入れた刹那顔を硬直させたがすぐ扉の外にいる誰かと会話したと戸を閉じた。
「何があった」
「あ・・」
静かに震えながら藍湛を支える両手が血に染まっているのに気づく周囲を見回し扉の血痕後を見て息を吐いた。
「ここから出ようとしたんだね」
「はい。そんなことより藍湛を寝台に・・・怪我を診ないと夜狩りの帰りですか?藍湛が手負いになるなんて・・・」
「これは夜狩りの怪我ではないよ魏公子」
意識がない弟を軽々と持ち上げうつぶせにして寝台へ寝かせた、魏嬰も重い腰を上げふらつく足で寝台の前に立った。
「まずは魏公子の手の怪我を診よう、その後忘機の怪我の手当てを手伝ってくれないか」
魏嬰は「はい」と答え大きく頷いた。
両手に包帯を巻かれた魏嬰は藍曦臣の指示通り藍湛の背中の傷の手当てを手伝う、そしてその傷跡を見て眉を顰めた。
『この背中の傷跡良く見ると・・・戒鞭の跡だ、一つ‥二つ・・三十三だと』
「気づいたみたいだね魏公子」
我に返り恐る恐る暗い声の藍曦臣の方に顔を向け、静かに頷いた。
「この子が目覚めるのは明日になりそうだから魏公子がここに来た、いや連れて来られた時から話そう」
沢蕪君とその後遅れて入ってきた藍啓二が藍湛と俺の今の状況を刻々と話してくれた、どうしてこんな事にと口走ったそれを貴様が言うのかと怒鳴られた。
「叔父上、忘機が起きてしまいます」
寝台で苦しい息で眠る藍湛を三人が見つめる。
「これからどうするか」
「俺に看病させてください」
このままにしておけない俺が原因なのだからここから出してもらうのが一番良い考えなのかもしれない。
「何を寝ぼけた事を貴様を金氏か江氏に差し出して罰を受けるがいい」
「罰は受けます、でもその前に藍湛に・・・何かしてやりたい」
「叔父上私からもお願いします。今の状況で魏公子がいなくなったら忘機がどのような行動をとるかわかりません」
藍曦臣の言っている事は確かだと、しかし夷陵老祖を囲っている言い訳が思いつかない、藍氏は討伐には不参加なのだから権利がない。
「藍先生私に考えがあります、これな含光君の名誉も回復するかと」
魏嬰は目を閉じ藍啓二に拱手しゆっくりと落ち着いた声色で話す。
「魏公子何か良い手でも?」
藍曦臣が心配そうに魏嬰に声をかける。
「含光君は夷陵老祖の術にかけられてかどわかされた・・・今二人を引き離すと彼の身も心も俺と同じようにどす黒く染まってしまうと。それを解決するには俺を罰することだけ・・・含光君本人が直接手を下す事だけだと」
藍啓二は怒鳴り散らそうかと思ったが落ち着く為呼吸を整え、藍曦臣を見た後藍忘機の血が滲みだした背中を見つめた。
『まだやり直せるのか、それならば』
「分かった」
「叔父上・・・」
二人の説得に成功した次は俺の身体の事を伝えなくてはいけない。
「お二人には先にお伝えしておきたい事があります、藍湛には目が覚めた時に俺からいっておきますので・・・」
魏嬰は、自分の金丹がない事を伝えると、二人は顔を青くしそして頷く。
「この事は他言無用だ、分ったな曦臣。後もう少し詳しく話してもらうぞ魏嬰」
「はい」
「分りました叔父上、しかしこの事を忘機が知ったら悲しむだろうね」