「っちゃ〜……」
ずきずきと、ぱかりと開いた切れ目から、鼓動に合わせて燃えるような感覚が押し寄せてくる。
しくじった。
油断、していたつもりはなかったのだけど。単純に今回のターゲットが雇っていた用心棒が、想像を遥かに越えて強かっただけだ。こんなのは、だいぶ念入りに行ったつもりの事前調査でもかけらもでてこなかった。まあそんな時のためにいるのが自分なわけで、お役目通りになんとか倒せたのはよかったが、トドメを刺す引き換えに一撃食らってしまった。その結果が、上着を脱がされてむき出しになった右上腕からだらだらと流れる血である。
「……モクマさん」
補足しておくが、命に関わるようなものではない。やっかいな組織の親玉にはお縄についてもらったし、必要な情報も抜けたし、ミッションは成功といって差し支えなく、あとはビル屋上のヘリポートで部下の迎えを待つだけなのだけれど……、
ドアを一枚隔てた向こうから、びょうびょうと夜風の吹き付ける音がする。
ちいさな電気がかすかについただけの、ほとんど真っ暗の世界だった。非常階段を登り切った踊り場に跪いて、座り込んだモクマの腕を圧迫しつつ、うつむくチェズレイの表情は見えない。
「……なあに?」
だけどきっと、心配させてしまった。二人で組んでだいぶ経つけれど、なにげにここまで割と怪我なく頑張ってきたのだ。ひさびさの失血にくらりと回る視界を抑えつけて、つとめて明るく返すと、相棒はちいさな声でもって――、
「A型になってみる気はありませんか?」
「ぶはっっっ」
淡々とそんなことを問うてきたので、思わず吹き出してしまった。
が、冗談を言っているつもりはないらしい、チェズレイは大まじめにガーゼで傷を押さえながら続ける。
「いざというとき私はあなたに血も差し上げられないのだと思ったら……、不便だなと」
「不便かあ〜……ちゅうかその口ぶり、やろうと思えば変えられるんだ……?」
「そうですね。まあ……やろうと思えば」
「ふ、不穏な笑み〜……」
なんとか覗き込んだ顔の、唇があやしげに吊り上っていて苦笑い。茶化すように言いながら内心ほっとする。……よかった。まだ笑うくらいの余裕はあるようだ。
思い出すのは数分前。傷を受けた瞬間の、見えたチェズレイの表情たるや。仮面の詐欺師が聞いて呆れる、ひどい狼狽ぶりだった。
(……だが、さきに不義理をしたのはおれの方だ)
「……すまん、心配させちまったね」
こんなところまで芸術品みたいにきれいなつむじと撥ねた毛を見下ろしながら言うと、ゆっくりと首が振られる。
「いえ……、まァ、血液型の変更は冗談としても、失血ならば他に幾らでも手はありますし……」
「え~……それ、掘り下げた方がいい?」
「フフフ。まあ、その時になればわかりますよ。……ん、さすがですね、あれだけ正面から喰らったふりをして私を驚かせておいて、そう傷は深くもないようだ」
「フリしたつもりはないんだが……、まあ、良かった。止まりそう?」
もう麻痺してしまったのか、痛みもほとんど感じない。「ええ」と頷かれてほっとする。
このままヘリが着くまでに止まってくれれば、セーフハウスで処置を受けるだけでなんとかなるだろう。病院の厄介になることはできればしたくない。
チェズレイはいまだ俯いたまま、モクマの腕を押さえて、筋肉の発達したそこに残る血の跡を見つめながら、ふ、と笑って続ける。
「……あなたの瞬発力には、深く感謝していますよ。
知っての通り、私は律儀なんです。約束を守らせるためならなんでもします。あなたを、なにがあっても、他人に殺させてなるものか……」
微笑をかすかに乗せた、夜に滲んで消えてしまいそうな、静かな声だった。
「……っ」
だけど、その中に、燃えるような激情が渦巻いているのをモクマは見る。怒り、喜び、決意に祈り。そんなものをすっかり手のひらの中にしまい込んで、チェズレイはただ、モクマの血を止めようと力を込めている。
同調して、心が、震える。熱をはらむこの腕の鼓動なんかより、ずっと大きく、痛く、苦しく。この律義者の胸の中で暴れる感情を思って。それをもたらしてしまったことへの、申し訳なさに。
でも……、さまざまの奔流ののち、さいごに心に残ったのは……、
空いた手を伸ばして、金の髪をひと房握る。
「はは。頼もしいこった。でも、そうさな、できたら血液型はこのままがいいかも」
「……おや。なぜです?」
どうやらようやっと血は止まったようだ。てきばきと大判の救急絆創膏を貼り付けて、包帯を巻いたチェズレイが顔を上げる。怪訝そうな瞳。
「ほら、血液型で性格がわかるっちゅうの、そういう占い、あるじゃない」
「それは眉唾ですよ、モクマさん。まァ、確かに臓器移植を受けたりすると性格が変わる……なんて話は聞きますが」
「でしょ? おじさんさ、せっかく自分探ししてる所だから。一からやり直しはきついし……」
目を見て、まっすぐに。
いま伝えるべきは、伝えたいのは、謝罪じゃない。それはもちろん、次回への教訓として生かすけれど。それよりも、この溢れんばかりの、たくさん出て行った血液の代わりにこの心を満たしているーー、
……この子への、愛おしさを。
「お前が好きって言ってくれたのは、『俺』だからさ。悪いところは直していきたいし、もっと鍛えてお前さんを心配させるような目にも遭わんようにしたいが……にしても、まるごと捨てちまうにゃ勿体ない」
投げやりに、するつもりはないんだよ。
おれはたしかに守り手だが、でも、おまえと生きるためのこの身体を、心を、いまは大事に思っているよ。それが、おれの幸せでもあるよ。
……だから、大丈夫。
チェズレイのように、うまい言い回しができるわけでも、頭が切れるわけでも、心を読めるわけでもないけれど。
その代わり、愚直に、素直な気持ちを。ゆっくりと言葉に編み上げれば……、
「……フ、フ、フフフフフ……」
「あ、あれ、昂らせちゃった……?」
一瞬、ぽかんと惚けたあとで。ようやく両手が自由になったチェズレイは、衛生用の手袋を脱ぎ捨てると、顔を押さえて笑い出して……、
え、スイッチ入れちゃった? とちょっと焦ったその瞬間。むしろばつんとブレーカーが落ちたよう、笑い声も何もひたりと止めて……、
はあ。ため息の後に、手のひらが離れて、こちらを見る。掴んでいたのかすこし乱れた前髪の下、暗い世界にそれでもまるで輝くみたいなすみれ色の瞳は、三日月のようにやわらかに細められていた。眉を下げて、少し困ったような色を添えて。
「……死にたがりだったニンジャさんからは、考えられないセリフですねェ……」
「へへへ。お前さんといるとポジティブになれていいねえ〜」
「ーーええ。結構です。これからもポジティブに、どうぞ生き汚くいてください」
言うなり、ほら、もうすっかり血、止まりましたよ。ぽんと腕を叩いて、血まみれの上着を差し出される。
おりよく鳴った無線に立ち上がって応答する横顔は、声は、もうすっかり元通り、なんてことない風を装っているけれど、心底ホッとしていることを知っている。
扉が開く。いつのまにやら近づいていたヘリの轟音、突風がぱたぱた、首巻きと相棒の金のしっぽをはためかせる。
追いかけて歩いていくと、鼓動に合わせて腕が痛む。だけど、生きているからこその痛みだ。
「どうぞ、生き汚くーーね」
生き汚い。なんていい言葉だろう。これからも、泥水啜っても、危ない目に遭っても、己たちの幸せのため、何がなんでも生き抜いて、同じ道をふたりで走り切ってやる。
(ーーこの子を、置いていってなんてやるものか)
そんな、強欲な気持ちを胸の中心にのっけて。闇夜に消えるふたりの道行を、まんまるの月だけが静かにみつめていた。
おしまい