ちゃんとしたホテルには服をしまうためのクローゼットが小部屋として独立していている……、ということは、モクマが相棒と旅に出てからあたらしく知ったことのひとつだった。
もうとっぷりと夜も更けた時間、こんな高層階じゃ窓の外からの光は期待できなくて、部屋に明かりを灯すのはところどころに置かれたお洒落で色も形もまちまちな照明器具のみ。
おしゃれなホテルは間接照明がすきで、天井に蛍光灯がなかったりする。これも学び。
「おや」
「あっ」
……そして、学びがここにまたひとつ。クローゼットの部屋に吸い込まれていった長いみつあみから飛び出たひくい声に、ソファに転がっていたモクマは飛び上がって駆け出した。
ぱたぱた、スリッパがフローリングを叩く軽い音。まちまちの光がつくる影絵を踏みながら辿り着くと、相棒は待ち兼ねたとばかりに振り返った。
「モクマさァん……あなた……」
「あちゃあ……ばれたか……」
その部屋だけは、格好良さよりも機能性を重視されて、天井にライトがはまっていた。上から白い光を浴び、もはや神々しくすらあるその美貌は、残念ながら予想通りに柳眉を逆立ててお怒りのご様子。すべらかで高級そうな見た目の紺のパジャマからこぼれた指が後ろ手にトントンと、かるく寄りかかったつくりつけの台のへりをたたく。
長期の旅行にも耐えうる大きなかばんをがばりと開いても、ふたつが十分に置ける広いスペースだった。クローゼットだけでこれだけあるのだから、この部屋の広さは想像に難くないだろう。
とはいえ今、ぺこぺこのお腹を晒しているのはひとつきり。チェズレイの凝った意匠のキャリーケースは清楚に口を閉じて床にしゃんと立っていて、年季の入ったモクマのほうのだらしなさが際立っている。ふたつを見比べてはあ、とため息。
「寝る前に支度を整えておくこと、といつも言っているでしょう」
「あはは……寝る前にはやろうと思ってたんだが」
「どうだか。寝支度だっていつもギリギリになってするくせに……それで私の睡眠時間が減ったり、朝ばたつくのを見るのは嫌ですよ」
「……ちがいない。今すぐやります!」
ぐうの音も出ない正論だった。
昨日の夜にぶじミッションは完了、今日はもろもろ後始末に明け暮れて、チェックアウトは明日の十時、そこから車を飛ばして空港に向かって、離陸の時間は十三時。元々持ち物のすくないモクマなら、朝起きてからでも間に合うだろうが……、
踵を返して、ぱたぱた。それなりに長い滞在生活であちこちに散らばったあれこれを掴んでいく。
学んだこと。やることをきちんとこなした余裕のある人生というのは……かなり、悪くない。
それから……、
「……あれ、見ててくれるの?」
腕いっぱいに服やらなんやらを抱えて戻ってきたモクマは目を丸める。天井のスポットライトがかわらず美しいひとを照らしていたからだ。「ええ、出来の悪い生徒を監督するのも仕事のうちです」と微笑んで頷かれて、つい頬の筋肉がとろけてしまったら「だらしない顔をするのは完了してからです」と笑みが固くなったので背がびしりと伸びる。
「はいっ!」
もういち往復で、きっとお使いは事足りる。
ぱたぱた、スリッパが広い部屋の上を縦横無尽に駆け回る。
苦手な片付けだけれど、どうしたって足取りは軽くなってしまう。
叱ってくれて、甘えられるパートナーの居る人生の、なんと優しく心強いことか。これも、知らなかったこと。……もちろん、甘え過ぎはだめだけれども。
「……おれね」
ランドリーサービスに頼んだまま放っておいた服のビニールを破って、鞄に詰めていく。下着はなんとなく恥ずかしくてコインランドリーで自分で洗っているけれど、そのせいでただボックスに積まれていたから、そっちは畳むところから。
くるくる丸めて小さくしながら、自分の髪の毛でできたつんつんの影を見下ろして口を開く。
斜め後ろのひとにじっと待たれているのが気まずくて、合間を埋めなきゃ、とかではない。
この優しい相棒に、この胸でゆれる感情を聞いてほしいというわがままだ。
「ずっと寝るのが怖かった。朝なんか来なけりゃいいのにって思ってた。あの生まれたての日差しを浴びるたび、また生き延びてしまった事実を突きつけられるようで、恐ろしくて。だから毎晩、酒を浴びるように飲んで、気を失ってた」
「なるほど。それが染み付いて支度が遅いと?」飛んでくる返答はあんまり優しくなくて苦笑い。
「や、それはただの怠慢で……も少し聞いてよ」
手は止めずに。ケースのカバーのファスナーを開けて薄いプラスチック製の仕切りを取り出し、一緒にしまわれていた手のひらふたつ分くらいの浅いポーチの底に十字にかませながら並べていく。
下着の収納具として、取り出しやすいからとチェズレイが渡してくれた物だった。あまりうまく活用できているとは言えないが……、これからする例え話には、最適なものに思えた。
「……世界にはさ、こういう区画があって、ひとには誰しもひとつ、自分の居場所がある」
出来た格子の一ますに、まるめた布を埋める。次々とつめこみながら、「だけど」と挟んで、
「里を追放されたあの日に、俺のマス目は消えたと思った。……というか、あっちゃいかん、かな」
そうたくさん替えを持ち歩いているわけではない。あっという間に空白は埋まって、太くて固い指が、つつ、と、枠を作るプラスチックのふちをなぞる。
本当に行きたいのは、この枠の外だった。消えてなくなってしまいたかった。あの世で謝罪したかった。だけどそれも許されなくて。
「俺にとって、旅立ちっていうのは幕切れと同義だった。道も縁も、ぶつりと断ち落とすような。思えば、不義理もたくさんしたな。ここに空きがあるよと、示してくれる優しい声もあったのに。赦されるのが怖かったし、甘えて罪を忘れてしまいそうな自分の弱さが恐ろしかった。でも、結局自分のことばっかりだ。下衆だよ、本当に……」
だらだらと先延ばしにしていたものも、手を動かしてしまえば、意外とはやく終わるものだ。明日朝使う分のアメニティ類だけ残して、旅立ちの準備はすっかり完了した。まだ余裕のあるケースの中には、明日お土産を買って詰めよう。ルークたちに送るぶんと、構成員たちのぶん。
後悔は今だってこの胸の中でじくじくと膿んでいる。罪だって消えるはずもない。
だけど。ぱちんとロックをかけながら、きらきら光を反射する銀の身体を見つめて、心を正しくうつしだす言の葉の組み合わせを探す。
「だけど今は……なんだろうな、夜が終わって朝が来るのも、旅に出るのも、区切りじゃないんだよな。ぜんぶ、俺の中ではひと続きの、長い道の途中っちゅうか……。
安住の地に住まうだけが幸福じゃない。道は、ないならば作っていけばいい。あのます目からははみだした俺だけど、お前と並んで歩く旅路が、お前と迎える数限りない朝が、どうにも、楽しみでならなくって……」
帰る場所があるだけが、人生ではなかった。
そんな生き方があるなんて、知らなかった。
知らないことだらけだ。きっと彼の隣にある限り、これからもモクマの凝り固まった固定観念は壊されて、あらたな扉が開かれていくのだろう。
そこまでひと息に語って、はたと気づいて照れくさそうに頭を掻く。
「……って、これは準備が遅い言い訳には全然なっとらんな。とにかくさ、これからはちゃんと頑張りますので今後ともよろしく、っちゅうことで……、って、なんて顔してるの」
……あんまり締まらなかったけど、考えていたことは言えた気がするので満足してくるりと反転して、ぎょ、と目を丸める。
だって、先ほどから相槌すら打ってくれなかったチェズレイは、おそろしいほどの真顔だった。指摘されて気づいたのか、瞬きのあとに「いえ」と取り繕うような咳払いがはさまって、節目がちの瞳がふらふらと口にあてた手の辺りをさまよう。
つねにポーカーフェイスを崩さぬ彼の、まるで仮面を取り落としたようなその表情。その意味にたどり着くよりも先に、声が重なる。早口だった。
「それで旅立ちの準備は終わりですか?」
「え、うん。風呂も入ったし……、あっ、でも、書類仕事がいくつか残ってるかな」
「……。それは飛行機の中でもいいのでは?」
「まあ、そうっちゃそうだが……、でもほら、先に片付けちゃう方が余裕ができて気持ちいいってお前さんに習ったし!」
いいところを見せたくて胸を叩いて言うけれど、なぜか相棒の声はどんどん低くなっていく。
「……勤勉なのは結構ですが、明日からまた新天地です。忙しくなりますよ。ゆっくりできるのは今日までなのですから……」
「や~、それは大丈夫だよ、おじさん忙しいくらいのが好きだから……、イテッ!?」
しまいにはぶに、と、鼻を容赦なくつままれて悲鳴が上がった。
え、え。混乱する目の前に相棒の白い手と、その向こうに拗ねたようにつりあがった眉。「鈍いですねェ、本当に寝てしまいますよ」といらだたしげな声が響いたと思ったら、くるりと踵を返して歩いていってしまった。
去り際に、「あなたばかりが教えられているなどと思わない方がいい」と捨て台詞を残しながら。
……? ……。
「あっ!」
主役を失って寂しげにひかるスポットライトの下で、モクマは遅れて大声を上げる。
繋がった、繋がった!
チェズレイが準備をはやくと急かしていた理由。生来の几帳面さは、そりゃもちろんあるだろう。
だけど、今夜は仕事もおわり、ゆっくり過ごせる最後の夜。チェズレイがあんまりふつうに見えるからお誘いを躊躇っていたけれど、ちがうのだ、待っていたのだ! モクマに残りの仕事がなくなって、チェックアウトのぎりぎりまで恋人同士の甘い時間を憂いなく過ごせるようになるのを。
それに、最後の言葉。チェズレイにモクマが教えた触れ合いを、彼も求めてくれていて。そしてたぶん、モクマの語った言葉が、待っているだけじゃ我慢できなくなるくらいに心に響いてくれたと、そういうことで……!
一瞬で、頭の中が沸騰する。慌てて壁のスイッチを押して電気を消して、だだっぴろいフローリングの道をスリッパ鳴らして駆け寄る。
「待って待って、チェズレイさん、寝ないで! どうか守り手にベッドまでエスコートさせて~!」
我が道をゆくふたりの規格外の旅路はまだまだ続き、朝が来るのだってもう怖くはない。
だけど……、今日ばかりは熱い夜は常より長く続きそうで、どちらもすこしだけおあずけだ。
つやつやのパジャマを掬い上げて、三つ編みを空に泳がせながらふたりでベッドの海に飛び込む。作法もムードも何もないはじまりに、だけど相棒は躊躇いなく首に腕を回して歓迎してくれた。
わたしもあなたと歩む旅路が愛しくて仕方ない、と、唇から、吐息から、伝わってくるような熱烈な口づけを交わしあって。
急ぎすぎて消し忘れた間接照明だけが、朝まで息をひそめてふたりを見つめていた。
おしまい