【君さえいれば】「魏無羨…この顔を忘れたとは言わせない」
忘れたよ!と言ったら激高するだろうかと頭の隅で考える。
魏無羨は後ろにいる複数人の弟子を一度見た。
仇討ちに来たこの顔も知らない男と一戦交えた時を想定する。
姑蘇の弟子なのだから、とばっちりでケガをする事はないはずだ。
だとしても無駄な戦いは避けた方が無難である。
今は引率している子どもたちを無事に姑蘇へ導くのが最優先事項だ。
「俺、黙ってたんだけど…夷陵老祖の真似してただけなんだ。本当は莫玄羽っていう名前で、含光君を追っかけてるただの男好き。今夜はお前が相手してくれるっていうなら、夷陵老祖ごっこに付き合ってやってもいいぞ。どうする?」
ぱちん、ぱちん、と数回片目を閉じて笑ってやると、相手はヒィと後ずさる。このまま引くわけにいかないと躍起になっているのか、魏無羨を指さしてなおも噛みついてくる。
「う、嘘をつくな!随便を抜いたと聞いて…」
剣が自らを封じ、ただ一人の者にしか鞘を抜く事を許さないという随便の話はそこそこ有名だ。
「ああ。あれは金光瑤の嘘だ。俺以外でも鞘から抜けるやつはいるぞ。誰でも抜けるわけじゃないっていうだけ」
「へ…?」
金光瑤は既にこの世では完全なる悪人で、いくつもの数えきれない嘘と卑怯を繰り返した人物であるというのが今の常識だ。あながち嘘じゃなさそうだと思えたのか、男はぱちくりと目をしばたたかせる 。
「江氏の宗主に試しに抜いてもらったら、あっさりこの剣を抜いてたぞ。聞いてみろ」
「あの恐ろしい宗主相手に聞けるわけないだろう!」
江澄の話をしたら楽しくなってきてしまった。
「ふーん。あ、じゃあ剣じゃなくて、別のもの抜いてみる?俺の」
少年たちは首を傾げる。大人になりつつある藍景儀と藍思追だけが顔を赤くした。男は一層顔を青くし、ヒクヒクと眉を痙攣させる。
「気色悪いことを!どうしてそうなる!」
「嫁さんいる?いないならちょっとくらい男に寄り道したっていいんじゃないか?」
藍忘機以外の人間と関係を持つなど到底ありえない事だが、揶揄うのが楽しくなってきてしまった。
仇討ちにくるような暇人だ。恐らく彼女や嫁などいないだろうと推測し、卑猥な言葉で責めてみる。案の定顔を赤くしたり青くしたりとしている。
魏無羨の口は止まらない。
調子に乗ってきた先輩の様子に、藍思追はため息を吐く。
「嫁がいてもいなくても、ぉ、お、お前など論外だ!」
「失礼します」
魏無羨の後ろで静かに様子を見守っていた藍思追が手を合わせ、頭を下げる。
この場にはまだ夜狩に出始めたばかりの自分より背の低い弟子が多くいるのだ。
このままだととんでもない知識が彼らの頭に入ってしまう。その前にこの話を終わらせなければならない。藍思追は使命感を感じた。
「こちらは莫玄羽殿。私達の客人です。これはまぎれもない真実。あなたは死んだ人間がこの世に蘇り、そして体を自在に操っているのだと本気で信じているのですか。彼は莫家で長い間豚小屋のような場所で痴れ者と虐げられ、ツラい過去をお持ちです。私たちは彼を保護する事を取り決めています。これ以上彼を傷つけ、侮辱する行動は控えていただきたい」
男は姑蘇藍氏の座学に出た経験があった。姑蘇藍氏の弟子は家訓を忠実に守り、嘘をつくことができない事を思い出す。
年下の少年にここまで言われ、怒りでカッと血がのぼる。しかしここで歯向かう度胸は無かった。もし何者にも屈しない強い気骨があれば、近くに含光君がいない隙を狙ったりはしない。
十数年前、殲滅戦の時に失った己の片腕と魏無羨の顔を交互に見る。藍思追の話を信じた男は行き場のない殺意をどうすればいいのかわからなくなってしまった。その場で膝をつき、嗚咽をもらし始めた。
「思追…」
少し広くなった藍思追の背中と藍忘機が重なる。
(守ってもらう側になる機会が増えたな)
魏無羨はなんだかくすぐったく感じた。
「ありがとう思追。早く行こう。夕刻までに帰るって藍湛と約束したんだ」
監督として、子どもたちを姑蘇藍氏へと連れ帰る義務がある。面倒事からはさっさと離れるのが得策だ。
少年たちはチラチラと何度か後ろを振り向いている。姑蘇藍氏にとって魏無羨は既に身内同然の存在で、仇討ちに来た男を警戒していた。しかしシクシクと泣き始める様子を見て可哀そうに思えてしまったようだ。
魏無羨とて片腕の無い姿に何も感じないわけではない。
だからと言って今の魏無羨にできることなど何もない。
心の隅に黒いもやを抱え、歩を進めていた。しばらく歩くと、見覚えのある光が見えた。
「藍湛!」
青く光る剣のきっさきをとらえた魏無羨はめいっぱいに腕を伸ばした。
少年らも嬉しそうに含光君!と気づいた者から呼び上げる。
魏無羨は音もなく着地する藍忘機の傍に真っ先に行き、彼の手をつかむ。
「どうしたんだ藍湛。何かあったのか?」
「昼までに帰らなかった場合は迎えに行くと約束をした」
「夕刻までにって約束じゃなかったっけ?」
「魏先輩、約束破りは家訓で禁じられていますよ」
藍啓仁の前でなければ、魏無羨だけは家訓を破っていいという暗黙の了解が広まりつつある。
少年の一人が微笑みながら言ったのをきっかけに、くすくすという優しい笑いが伝染する。
思っていたよりも太陽の日差しが強くなってきていた。暑い中、疲れたまま歩かせるよりも瞑想で霊力を蓄えてから御剣で移動した方が良さそうだと判断する。
「よし、じゃあ御剣で帰るとするか。って言っても、お前らは午前中のやっかいな凶屍とやりあったせいで霊力が切れてる。ちょうど柔らかい芝生があるし、瞑想でもして休息をとろう」
藍忘機もいるので二人乗りもできる。
子どもたちは指示に従い、平たい場所に座って目を閉じた。
魏無羨は監督として、全員がしっかり瞑想出来ているかを確かめる。
藍忘機も瞑想する事にしたようだ。一度目が合った。自然と魏無羨の胸がジクリと動く。この瞬間、以心伝心した。二人が毎夜している何かしらのことがしたくなってしまったが、さすがに瞑想をしている彼らをおいてしっぽり草陰に隠れてヤるわけにもいかない。声を出さず口元だけを動かした。
『あ と で な』
うん、と頷く夫の頭をわしゃわしゃとかき混ぜたい衝動を抑える。
温かい空気が流れていた。
先ほどの夷陵老祖仇討ちの件など簡単に忘れてしまえそうだ。魏無羨が目元を和ませたその時。
「婚約してすぐ同居だなんてありえない!しかも、料理も洗濯も、すべて私がしないといけないなんて!」
「わかります」
「すべて母親がやってくれてたものね」
そんな心の叫びを隠さず訴える年頃の女人の会話が耳に入る。
魏無羨は唐突にこれを議題に論じたくなった。
今のは藍忘機にも届いていたはずなので、そのまま聞いてみる。
「含光君、お前はどう思う」
遠く離れた女人たちを眺めながら聞いてみる。
「納得出来ないのなら婚約などせず別居を続ければ良い」
解決してしまった。しかしもう少し論じたい。よほど気が高ぶっているのか、女人は弾丸のようにイヤよイヤよとあらゆる理由を付け加え、主張を続けている。
魏無羨は淡々と観察した。
「服装から察するに、さほど裕福でもないが、貧乏でもない。家僕がいるような家柄じゃないのは確実だな。三人は姉妹と…友達ってところか。話からして、未来の旦那様と一緒に住む気はあるみたいだ。だけど今まで洗濯も掃除も母親がしてくれていたから、同居をしたくない気持ちは強い、と。結婚したら家事を担うのがすごく面倒で、嫌なんだな」
思追が恐る恐る口を開く。
「あの、でも、女性が家事を務め、男性が家計を支えるのが一般的です。あの女人は、夫に家計も家事も任せたいという風に言っているように聞こえます」
真面目に瞑想に励んでいると思ったら、実は女人の話に耳を傾けていたようだ。思追だけではなく、他の弟子達も同様に片目を薄くあけて興味を示している。
「俺は女の子の意見に賛成だな。見た目がそこそこ良くて、家計も家事もしなくて良い相手がいるなら迷わずそっちを選んだ方が幸せだ」
弟子のひとりが魏無羨のあっけらかんとした適当な意見に眉を寄せる。そんな相手簡単に見つかるわけ…と言いかけて「あ。」と口を開けて気づく。含光君を見上げた。魏無羨の希望を叶えられる人が目の前に存在している。そこそこな見た目どころではなく、極上の美貌を持った男が。
「家計も家事も任せられる男を見つければいいんだ。含光君みたいな男をさ。な、藍湛。お前もそう思うだろ?」
「うん」
どことなく含光君が誇らしげに胸を張っているように見えた子どもたちだった。
「ま、含光君のような男はめったにいない。あの子が婚約した男のために料理も掃除もしたくないと思ってるのは明白だ。それらをする価値もない男なんだろ。なら、婚約者とは別れて家事をしてもいいと思えるような相手に巡りあえばいい」
「どういう相手ですか?」
藍景儀がすかさず聞いてきた。
「そうだな。あの見た目だと…可愛いとは思うが…裕福な家系の男と結婚するのは難しいかもな」
魏無羨は頭の中で「クジャク男だって、はじめは派手で完璧な女の子を希望してたくらいだしな」と考える。
どんなに中身が優れた女人がいたとしても、見栄っ張りな金持ちは大抵見た目だったり自分の地位が上がったりする人間を選びがちである事を経験から知っていた。
「片腕の無い男とか、合うんじゃないか」
「それって…」
藍景儀は先ほどの仇討ちに来た男を思い出す。
「腕が不自由だと、何かと生活に不便が出る。そんな時、ちょっと可愛い女の子が自分の嫁さんになって、ついでに家事を毎日してくれたらどう思う?」
「ありがたい気持ちが湧いてくると思います」
今度は藍思追が素早く答える。
「だろう。感謝されれば、家事にもやりがいが出るってもんだろ。で、だ。俺は今からあの子たちと話してくるから、含光君とここでしっかり瞑想してろよ」
しかし藍忘機はピッタリと魏無羨についていった。
少年らは小石を蹴る含光君と、女人とわきあいあいと楽しそうにする姿を見た時は何をやっているのだろうと不思議に思っていた。
瞑想で十分に霊力をためて御剣で空を飛んだ時、やっぱり仇討ちに来た男の様子が気になった。さりげなく元来た道を見てみると、そこには「家事なんて嫌!」と主張していた女人と、仇討ち男が話をしているのが見えた。
「魏先輩、もしかして」
藍思追だけではない。その場にいた全員が理解した。あの時、楽し気に女人と話していたが、それはあの男と引き合わせるためのものだったのだ。仇討ちに来た男にこんな幸運を運ぶなんて、なんて心が広いんだと尊敬の眼差しを向ける。
そして魏無羨の次の一言で一斉に固まる。
「やっぱ女の子って、金持ちが好きなんだよなぁ」
魏無羨はあの短い時間で男の服装や持ち物でどれだけの身分か把握していたのだ。
その後の姑蘇への帰り道。
頬で心地いい風を感じながら、美しい夫の輪郭を見つめ、聞いてみた。
「藍湛。俺、少しくらいは洗濯とか料理とかした方がいい?」
「必要ない」
「ほんと?」
「傍にいてくれさえすればいい」
「そっか!」
胸にたくさんの甘さを感じ、魏無羨はぎゅっと藍忘機の背中に抱きついたのだった。
FIN.