手の平の上「やっぱりプロヒーローって儲かるのかな」
先程拝借してきた黒い革の財布の中身を淡々と確認しながら僕は独り言ちた。
現金は少ない。クレジットカードが二枚、免許証が三枚、それに保険証とキャッシュカード。ポイントカードなんて一枚もない。
スマホ、手帳、パスケース、服、腕時計……もハイブランドのものではない。合理的な彼らしい至ってシンプルな所持品たち。後はキャッシュカードとクレジットカードからいくらくすねられるか、だ。だがそれは僕の仕事じゃないから稼ぎの一部しかもらえない。
ちょっとわりに合わなかったかなあ、と僕は狭い押入に寝転がった。
表沙汰には決して出せないようなものしか運ばれて来ない薄暗い倉庫の奥、かつて宿直室として使われていたらしい四畳半、の押入が今の僕の寝床だ。湿っぽいし酒臭いしヤニ臭いけど雨風が凌げて布団があるだけだいぶマシだろう。元宿直室に誰かがいる時は暖房もつく。ここに勝手に住み着いている僕を追い出さないでいてくれるばかりか、仕事をくれたりごはんを奢ってくれたりお金をくれる時もある。優良物件だ。
勿論見返りは求められる。押入の中に伸びてきた手が僕の足を無遠慮に撫で上げてきて、やけに甘い匂いのする息を荒げた男が僕を見下ろしてニヤニヤ笑っていた。
「こっち来いよ」
「さっきしてきたばっかりだから気分じゃないんですけど、」
そんなこと言ってもはいそうですかと聞き入れてもらえるはずもなく、腕を掴まれて宿直室の薄い布団の上に転がされる。ザラザラしてて酒の臭いが染み込んでて気分は悪くなる一方だ。
あーあ。
せめて今日くらいは、あの真っ黒いヒーローに抱かれた感触を覚えておきたかったのに。
きっと潜入捜査だ。
ギリギリ法に触れるか触れないか曖昧なグレーゾーンのバーに現れたその人は、確かに潜入捜査には向いているだろう。メディアには一切出ないアングラ系ヒーロー。イレイザーヘッド。
けど僕はよく知っている。少し変装したくらいじゃ僕の目は誤魔化せない。
滅多に会えない相手を前にして僕の胸は高鳴っていた。潜入調査に入ったプロヒーローを騙してやろう。耳を覆いたくなるような身の上話をして同情させ、媚薬と睡眠薬を飲ませてホテルに連れ込む。いつもやってる、簡単なお仕事。
彼はいとも簡単に引っ掛かってくれた。ヒーローはやっぱり優しい。そして、騙されやすい。
けど、ただ僕が笑っていられたのはそこまでだった。
何度も何度も耳元で呼ばれた名前。
あやすように撫でる指先。
その度に快感が全身をじくりと犯した。
あんな感覚初めてだった。
愛されていると勘違いしてしまいそうなくらい優しく触れてくるのに、情熱的に求めてくる。
誰だって、僕を買っていくような男たちは自分本意に僕の身体を使うだけだった。痛くても苦しくても、対価を得ている分それが当たり前だと思っていた。
イヤダと言ってもやめてもらえず、
キモチイイと嘘を吐いてやり過ごして。
誰も僕のことなんて見てなかった。
そこに僕なんて必要なかった。
それなのに、あの男はまっすぐ僕を見つめていた。
(ああ、本当に嫌だな、)
脂ぎった手でまさぐられる身体に、感情をシャットアウトする。空っぽになった僕は何も感じない。後はただ、身体の上の嵐が過ぎ去るのを待つだけだ。瞼の裏に別の男を思い描くのも違う気がして、ただただ広がる暗闇を想像する。
だってあの人は、こんな場所とは無縁の──。
「うげっ、」
酷い声、だなんて呑気に考えていたら覆い被さっていた男の身体が浮き上がって畳の上に吹っ飛んで行った。散乱していた空き缶が転がりビニール袋が舞い上がる。
仰向けで気を失っている男を手早く拘束していく侵入者にのろのろと視線を移しながら起き上がったところで、僕は言葉を失った。呆けている場合じゃなく速攻で逃げるべきだった。
この人が僕を逃がしてくれるとは思えなかったけど。
「さっきはどうも、」
眠たそうな声。当たり前だ。遅効性の睡眠薬を盛ったんだ。今そうやって起きていられることのほうが信じ難い。例え起きられたとしても、金も服もスマホも全て奪って来た。今頃は安さだけが売りのラブホの一室で茫然と天井を仰いでいるはずで、こんなところにいるはずが無い。
そもそも、どうしてこの場所が。
「全部想定済みなんだよ。おまえは俺を嵌めたつもりだろうが、嵌められたのはおまえのほうだった、それだけのことだよ」
事務所に所属せず単独で動くことが多いから薬への耐性は一通りつけてある。事前に投薬もしてきたから睡眠薬はほとんど効いていない。
所持品の一部はベッドの下に隠しておいたから困ることなんてひとつも無かった。
おまえが持って行ったスマホには発信機がつけられている。おまえが仲良くしている連中の尻尾を掴みたかったからね。この倉庫に置かれている箱の中身も、随分と調べ甲斐がありそうだ。
「スマホの位置情報も電源も切っておいた、」
「残念ながらもっと原始的な方法で発信機を仕込んであるんだよ」
彼がかざして見せたスマホには地図が表示されており、この倉庫の上で赤い丸が点滅していた。押入の中のスマホの位置を示しているのだろう。
「本当に貴方の手の内だったってことですか、イレイザーヘッド」
「残念ながら」
「参りました。どうせ見逃してくれないんでしょう。好きにしてください」
「ああ。好きにさせてもらうよ」
布団の上に土足で上がり、僕の前にしゃがみ込んだ彼に首筋を撫でられて思わず生唾を飲む。どうしてそう、まっすぐ他人の目を覗き込んでくるんだ。貴方みたいな人が、僕なんかをその眼に映しちゃいけないのに。
「僕を嵌めたんなら、さっきのも全部、演技、だったって言うんですか」
「さあ。さっきのって言うのは、何のことだ?」
口元にだけ笑みを浮かべる男の真意が読めない。騙し騙されるのが当たり前の世界で生きてきて、他人に期待するのはとっくの昔に諦めたはずなのに。優しく触れてくる指先を信じてしまったのは何故なんだろう。その温もりが心地良いと感じてしまったのは、
「おまえを抱いた時のこと、か」
「もう、答えなくて、良い──ッ」
汚れた敷布団の上に押し倒され、僕の上に覆い被さってくる人を見上げたら胸がツキリと痛んだ。理由は分からない。
でもここでは抱かれたくなかった。こんな場所は、彼には似合わない。
それに、
こんな僕は、ヒーローには不釣り合いだ。
けれど彼は僕の首をゆるゆると撫でただけで呆気なく離れて行った。
いや、違う。
慌てて起き上がり自分の首に手をやると、細い金属がぐるりと首を一周していた。繋ぎ目が見つからない。引っ張っても外れない。僕は今更ながら彼を睨み上げたけど、余裕を見せる彼はこどもにでもするように僕の頭をポンポンと撫でてきた。僕がその手を払い除けても気にした様子も無い。
「似合うよ。それでどこに行っても居場所が分かる」
「は……?何、言ってるんですか。外してくださいっ」
「好きにして良いって言ったろ。今日からうちにおいで」
「ハッ、慈善事業のつもりですか。ちなみにさっき話した身の上話は全部創作です、デタラメですよ。だから僕に同情しえ、う──?」
唐突にぐらりと視界が揺れた。舌がもつれる。抗えない程の強烈な眠気に襲われていると自覚した時にはもう、目を開けていることすら困難になっていた。
「そろそろ薬が効いてきたか」
「く、すり……?のんだ、おぼえ、」
「経口摂取だけが薬じゃないだろ」
そう言って笑う彼はよっぽどそこらの悪党より厄介そうに見えた。なのに意識が遠退いて倒れていく僕を抱き留めた腕は優しくて温かい気がして。
「なん、れ、こんな、こ、と」
「目が覚めたら分かるまで教えてやるよ」
ほら。
やっぱり厄介だ。
僕のことを逃がすつもりなんか一切無い。
それどころか、きっと。
僕のほうが離れられなくなってしまう。
それから二人は
いつまでもいつまでも
幸せに暮らしましたとさ
めでたしめでたし
で、物語が締め括られてしまう。
それも良いかなんて思える僕はもう、
ぜんぶがぜんぶ、
この人の手の平の上なんだ。