バス停 そのバス停は、緩やかに蛇行を繰り返す山道の途中にぽつんと存在していた。簡素な木枠の四方に波形のトタン板を張り付けただけの頼りない小屋が立っていたが、バス停の標識が無ければそれが停留所だとは気付かないほど荒廃している。バス停の錆びて穴の開いた標柱も欠けたコンクリートの土台も頼りなげだが、一番頼りないのはそこに書かれた時刻表だろう。十時台と十四時台、たった二本の便しか記されていないその時刻表を信じられないといったていでふたりの男がまじまじと見つめていた。
「二時間以上あるな……」
「……そう、ですね」
困惑したふたりの頬で木漏れ日がゆらゆらと揺れている。おかしい。宿で見た時刻表には六本の便が記載されていた。始発の八時台に十分間に合うよう宿を出てきたというのにこれは一体どういうことだろう。時刻表には消されたような跡もなく、裏側を覗いてみても何も案内はない。小屋の中も確認してみたが貼り紙ひとつとて存在しなかった。
「宿に電話して確認してみるか……っと、圏外か」
六月には相応しくない真っ黒な格好をした男──相澤が、取り出したスマホを確認して嘆息する。それを聞いて一回り小柄な隣りの男──緑谷も焦ったようにスマホを出して「嗚呼」と小さく声を上げた。つばの小さな登山帽の下で彼の眉毛がハの字を描く。
「僕のも圏外です。宿では電波が入ったのに、ここは入らないんですね」
「宿まで一旦戻るか?」
そう言いながらも相澤の口調はさほど乗り気ではなかった。宿からバス停までの行程を思い浮かべれば仕方の無いことだろう。距離はそこまでないのだが崖にへばりつくように設置された急な階段を登り降りする必要があるからだ。その階段がこれまたひどく錆び付いていて一歩進む度にギシギシ軋んだ音を立てたし、ところどころに穴も開いていた。更には踏板しかなく下の景色が見える構造で、緑谷が引っ付き虫と化しおっかなびっくり進んでいたので彼に再びここを通らせるのは酷なことに思えた。それにここは日陰でまだ良いが階段のある崖には遮蔽物が無くもろに直射日光を浴びることになる。自分は平気だが連れ合いにはあまり無理はさせたくないという思惑が相澤の口調には如実に表れていた。
「……できれば遠慮したいんですが、」
相澤の口ぶりを察したのだろう緑谷も、太陽のほうを仰ぎ見て目を細めながらそう言った。その首筋には汗の玉が光っている。山の上で平地より多少は気温が低いもののこの時期のまとわりつくような湿気は変わらない。宿に着く頃にはふたりとも汗だくになっていることだろう。
「あの、とりあえず時間までここで待ってみませんか?誰か通るかもしれませんし、」
その提案に、おや、と相澤は引っかかりを感じた。この子にしてはあまり合理的な判断だとは思えなかったからだ。停留所の時刻表が間違っているとは思えないし、誰かが通りかかる可能性もほとんどゼロと言って良いだろう。このあたりに宿は一軒しかないし、オフシーズンの今、宿泊客は彼ら一組だけだったのだから。それに、このままバスが来なかった場合乗るべき電車に間に合わず午後の研修に遅れてしまう。
「三日間の視察の、フリータイムに抜け出したの、やっぱり強行過ぎましたかね」
傷跡の残る頬を掻きながら照れ臭そうに笑っている緑谷だが、あまり悠長にしていられる状況ではない。実は彼らふたりは今研修施設の視察プログラムに参加している真っ最中だった。その行程はかなりの過密スケジュールだったが三日目の午前だけ何故かぽっかりと予定が空けられていた。理由はおそらく二日目の夜に設定された懇親会のためだろう。その懇親会が任意参加で宿泊先も各自手配だったのを良いことにさっさと二人分欠席で申し込んだ相澤がふたりでこっそり抜け出そうかと緑谷を誘ったのだった。真面目な緑谷のことだから断られるだろうと予想していたのだが、相澤が『駆け落ち』という言葉を遣ったことをいたく気に入ったらしい緑谷はふたつ返事で承諾してしまった。
それからふたりは顔をつき合わせこそこそと駆け落ち先を探し始めた。そうして見つけたのが紅葉シーズン以外はほとんど人の来ない山合いの、一軒きりしかない古びた旅館だった。麓に温泉街があるのでそちらが利用されることがほとんどで、この時代に電話でしか予約ができないというのもまた客足を遠ざけているらしかった。それが駆け落ちの舞台にはうってつけだと思われた。
二日目の解散の合図とともにふたりで会場を飛び出し、出発直前の電車にギリギリ滑り込むことに成功する。息を切らしながらふたりは顔を見合わせてイタズラが成功したこどものように笑った。たった十九時間の逃亡劇のはじまりだった。
不思議な解放感と高揚感に包まれていた。宿は古くて階段もミシミシ言ったけれど、部屋の露天風呂は石造りで雰囲気があったし、下を流れる川には蛍も飛んでいた。二組並べて敷かれた布団はついぞ片方使われないままで──。
「緑谷」
「はい」
「俺が宿まで行って聞いてくるから緑谷はここで座って待、」
「いやです」
言い終わる前にぴしゃりと拒絶され、思わず相澤は隣りに立つ緑谷を不躾に眺めてしまった。俯いた頬が少し膨らんでいるように見える。
「一緒じゃなきゃいやです」
ざあ、と強い風が吹いた。時刻表を睨んだままの緑色の瞳がゆらゆら揺れている。その横顔が涙を堪えている時の顔に見えて、相澤はその手を柔らかく握り込んだ。
「ひとまず座ろうか」
いやですとはっきり言ったくせに手を握った途端緑谷が狼狽える。相澤は有無を言わさず彼の手を引いて、今にも崩れそうな待合所に引っ張り込んだ。
中は風が通らない分外より蒸すようだった。古い木の匂いが立ち込めている。先ほど泊まった旅館の名前が書かれた青色のベンチがひとつあり、それから対面に診療所で見かけるようなくるくる回る椅子が並べて置かれていた。誰かが手作りしたような花柄の丸いクッションが座面にくくりつけられていたが、それらは一様に色褪せ黒ずんでしまっている。
相澤は緑谷をベンチへと引っ張っていき、一番まともなクッションの上へと座らせた。それから少しクッションを寄せて緑谷へと寄り添うように腰を下ろす。離していた手をまた握り込むと、相澤の肩によく馴染んだ重みが乗っかった。緑谷の頭だ。その重みを甘んじて受け止めた相澤は空いているほうの手で帽子の上から彼の頭をぽんぽんと撫でた。小動物のようなか細い声がその喉から上がる。
繋いだ手はあっという間に汗で湿っぽくなった。
「せんせい」
掠れ気味の甘えた呼び方は昨夜聞いたものと同じ色をしていた。昨日はいつも以上にたくさん聞いた気がする、と相澤は思った。解放感と高揚感と、それから駆け落ちという言葉が持つ背徳感が緑谷を積極的にさせていた。まだ、もっと、もう少しだけ、と、まるで眠るのを怖がるこどものようにいつまでも求め続けた昨晩の声といまの音が相澤の中で繋がる。
「帰りたくなくなったのか」
ぎゅっと強く手を握り返した緑谷の、それが肯定のように思われた。
相澤はゆっくりと足元に視線を落とした。地面には乾いた土が土間のように広がっており小屋の中だけは雑草の繁茂を許していない。しかし葛だけは何本もそのつたを伸ばし、そのひとつはふたりが座るベンチの足に絡みついていた。
「旅館で先生に見せた時刻表は、……紅葉のシーズンだけ走っている運行表で、」
「なるほど」
「分かっていて、見せました。すみません。おわりになるのが惜しくて」
素直に白状してしまうところが緑谷らしい。相澤は地面から天井へと視線を移し、短く溜め息をついた。トタン板の隅には主の居ないクモの巣があって、引っかかった枯れ葉が一枚くるくると回っていた。
「参ったな、どう責任取ってくれんだ」
その枯れ葉をぼんやり眺めながらぼそりと呟かれた相澤の科白に緑谷は過敏なほど身体を震わせた。
「ッ、僕が旅館に戻って聞、」
慌てて相澤のほうを仰ぎ見た緑谷の動きがピタリと止まる。見開かれた瞳からとうとう涙がひと粒ぽろりと落ちた。昨日呆れるほど重ねた唇なのに、ちっとも飽きる気配がないなと相澤は頭の片隅で考えていた。
「俺まで帰りたくなくなっちまっただろ」
互いの唇の間に零れた言葉は性急に重ねられた舌の上に甘く溶けてゆく。つばの小さな登山帽が青いベンチの上にぱたりと音を立てて落ちた。