色彩の少女 あぁ、誰かと思ったら狡噛か。いや、今日は部屋を片付けていてな。父さんが遺したものとか、おばあさんから送られたものとか。ほら、これは青柳がくれた誕生日祝いのキャンドルで、こっちはあの人がくれた犬のリード。自分では持っているものは少ないと思っていたんだが違ったな。こうやってみると、案外田舎に蔵でも持ってたんじゃないかってくらい段ボール箱があるよ。
この箱は……あぁ、監視官時代のものだ。中を見せろって? 何嫉妬してるんだよ、この中身もプレゼントじゃないか、貰いすぎだって? そりゃあ出世頭だったからな、ものを貰うことは多かったんだよ。でもこの段ボール箱の中身はちょっと違うかもしれない。これをくれた人は、これまでとは違うから。綺麗な油絵だろう? くれたのは当時女子高生の引きこもりの女の子で、何というか、逸話みたいなものがあるんだ。気になるか? じゃあ話をしよう。俺がまだシビュラを信じてた頃に、シビュラが振り回した一人の女の子について。
私が管理官のお嬢さんのお相手をですか? 俺がそう尋ねたのは、お前が執行官堕ちしてすぐの頃だった。相手は公安局のもっと上、厚生省のお偉いさんでね、聞けば一人娘がシビュラの判定を無視して家にこもって朝から晩まで絵を描いているという。俺に目をかけているからどうにかしてくれないかってな。そんなの、お前はともかく学校で児童心理もやったことのない俺に思春期の女の子とどう接すれば良いのか分かるはずがないのに、無茶を言ってくれるよ。でも、結局行くしかなくて、俺は綺麗なタワーマンションの色があふれる一室に仕事終わりに赴くことになったんだ。その一室にいたのがこの絵をくれた子だよ。綺麗な絵だろう? これがなんの絵かはあぁ、また後で話すから。
帰ってくれませんか。俺に彼女がそう言ったのは会ってすぐのことだった。可哀想なくらい俯いていてね、髪なんてぼさぼさで、着飾った女を見慣れていると驚くくらいだった。その彼女は自分の部屋にスケッチブックや布を張った板を大量に持っていて、あたりは鉛筆と油絵具の匂いがしていた。女の子らしいものは全然置いてなかった。例えばハートのクッションとか。そこに来るまでに俺は彼女の経歴を洗っていたから、彼女がそう言うのは分かる気がした。名前は伏せておこう。プライバシーは誰にだってある。彼女は幼い頃から絵が上手くてね。小学生の頃に受ける初めてのシビュラ判定の結果を楽しみに待っていた。でも駄目だったんだ。シビュラは彼女が絵を描くことをよしとしなかった。彼女は混乱した。それまでは褒められるばかりだったからな。学校の先生からも、友だちからも。けれどシビュラはそれを嘘だと言った。だから何もかも信じられなくなって引きこもった。父親の管理官は混乱して家族にあたる彼女にスケッチブックや油絵具を買い与えて、娘を押さえ込んでいた。でも、もうそろそろ最終考査だった。いつまでも引きこもっちゃいられない。外に出て働かなきゃならない。そこで、俺の登場ってわけだ。
結論から言うと、彼女は絵を描き続けた。俺は管理官に言われて訪ね続けたけれど、彼女は絵を描くのをやめなかった。俺に興味を持たず絵を描き続けた。何枚も、何枚も。でも彼女には出展するところがない。シビュラシステムは彼女を拒否していたからな。だから俺は提案したんだ。それじゃあ俺の名前で出してみないかって。実は俺はこれでも芸術の適性も出ていてね、学生時代は美術部に誘われるかってくらいだったんだぜ。でもそんなのには耳を傾けなかったけれど。
彼女とはいろんなところに行った。仕事の合間を縫って、綺麗な景色をたくさん見た。彼女は息を白くしてスケッチをしていた。それはやがて大きな絵になった。それを見る管理官は嬉しそうだったよ。一応は、彼女は今回絵を出展したら、他に出るだろう適性の職業に就く約束だったから。
そして彼女の絵は大賞を取った。長年、佳作しか出ていなかった大きな賞の。もちろんそれは俺の名前であって、彼女のものではなかったけれど。けれどこれで交渉できるんじゃないかって思った。そう、シビュラシステムにもバグがあるんじゃないかって考えたんだ。もう一度検査したら、彼女は立派な画家になるんじゃないかって。だから俺は彼女を連れて厚生省を訪れた。彼女は父親に会うのが嫌だって言うから、デバイスでお金を渡してそこら辺をぷらぷらしてもらうことにした。交渉ごとは得意だったから、彼女の再検査が決まって、俺は天にも昇る心地だった。あの調子でいけば、彼女が画家になることは決まったも同然だったからな。シビュラ公認の芸術家が選んだのは引きこもりの女子高生ってのが最高だろう?
でも、俺が交渉ごとの結果を手に厚生省のビルを出た時、デバイスの音がなって唐之杜から連絡があった。厚生省の近くで男が刃物を持って暴れているって。俺は恐ろしくなって、足を急がせた。するとそこにはたくさんの人々が血を流して倒れていて、それには彼女も含まれていた。赤い血の中で、大切そうに近所でやっていた展覧会のパンフレットと、本屋に並んでいるスケッチの本を持って、力をなくして倒れていたんだ。人々に囲まれた男は自分の絵を奪われたと言っていた。シビュラシステムが自分に適性を出さなかったのは間違いだって、人生を滅茶苦茶にされたって。後になって分かったんだが、その男も判定の結果公認芸術家にはなれなかった人間の一人だった。
最終的に、彼女はシビュラシステムの公認芸術家となって死んだ。葬儀には名だたる画家芸術家たちがやって来てお悔やみを述べた。彼女を殺した男は俺が執行した。
シビュラが彼女を絵から遠ざけたのは、あの日のためだったんじゃないかって俺はたまに思ったよ。家にいれば安全だったから。そう、家にいれば安全だったんだ。
なんだ、そんな顔をして。大丈夫だよ、俺はもう乗り越えたから。これが彼女が最後に描いた絵。大賞を取った絵は厚生省に飾られているんだが、ご両親は俺にも何か持っていてくれと言ってね、最後に一緒に景色を見に、奥多摩に行った時のものなんだ。今日はこれを飾ろうと思ってな。小さいけれど写真より緻密だろう? こら、なんでそんなふうに抱きつくんだ。苦しいじゃないか。大丈夫、俺はもう乗り越えたって言っただろう。物事は不可逆だ。彼女は生き返らない。けれど、こうやって絵は残った。俺が死んだって残るんだ。芸術とはそういうものじゃないか。
シビュラシステムを恨むことはあるよ。でも、こんなふうに、シビュラシステムにしたがっていればと思うこともある。けれど彼女はそれを望まないんだろうな。ほら、出来た。このあたりに飾ればいいだろう。綺麗だろう? こら、くっつくなって、もう少し、絵を見ていたいんだ。少しだけすれ違った、小さな女の子の人生を。