残された写真 父親のセーフハウスの一つが新しく見つかったとの情報を得たのは、偶然にも東京に出向いていた時のことだった。その時、花城は任務中にも関わらず、俺に向かって「行って来なさい」と言った。俺はその時少し驚いた。そう、その言葉は俺だけではなく、狡噛にも差し出された言葉だったからだ。
「でも今日一日だけよ。今日中に公安局が用意したホテルに戻ること。分かったわね?」
私は須郷と行くわ。花城はそう言って、すっきりとした耳たぶに付けられた赤いイヤリングを揺らした。俺はすぐには何も言えず、ただすまない、としか言葉が出なかった。
「何言ってるの。公安に先を越される前に行ってきて。いい情報があったら持ち帰ってね」
ピンク色の艶のある唇が曲がる。俺はそれに敵わないなと肩をすくめ、狡噛と、父の、征陸智己が残した部屋に行くことにしたのだった。それは梅雨も近い、そろそろ汗ばむ季節の昼間のことだった。太陽がてっぺんに上って、頭が熱っていたことを今も覚えている。
「狡噛はそっちの段ボールを、俺はクローゼットの中身を見る」
セーフハウスは廃棄区画の一角のビル街の一室にあった。その部屋は長年老婆が管理していたものらしく、終生父の名前が出ることはなかったそうだ。しかしその老婆も死に、管理者が息子になったことで征陸智己の名がようやく出たのだという。用意周到な人だと思う。もしかしたら彼はまだ、ここ以外にも部屋を持っているのかもしれない。秘密の多い人だったから、それでも不思議ではない。彼が亡くなった後、どこにもはまらない鍵がいくつか見つかり、それはまだ俺の手の中にあったから。
クローゼットの中身は、捜査中だったと思われる陰惨な事件たちの資料などだった。念のため公安局のサーバーをクラッキングして解決したかどうか調べる。霜月には怒られるだろうが、雛河ならばどうにかしてくれるだろう。
調査した結果、どれも迷宮入りばかりだった。ここは父にとって、難事件を解決するための記憶の宮殿みたいなものだったのだろう。しかしシビュラシステム移行時のどたばたで、どれも封印されてしまっていたが。
「ギノ、面白いものがあるぜ」
クローゼットの中に貼られた新聞記事や写真、資料なんかに埋もれていると、狡噛の声が聞こえた。彼の声は少しかすれていた。煙草の匂いがするから、そのせいかもしれない。そろそろ禁煙させなきゃいけないなと思いはするものの、上手い言葉は出て来なかった。彼と口喧嘩で勝てたことはないのだから当たり前かもしれない。
「お前の幼稚園の時の作文。ぼくのおとうさんってやつ。読んでやろうか?」
「ニヤニヤ笑うな。そういうのは残しておいていい。事件に関わるものがないか探せ」
「あの人が大切にとっておいたものなのに?」
その言葉に、俺は何も言えなくなる。ぼくのおとうさんは刑事です。悪いことをした人をつかまえています。おとうさんがいるおかげであんしんしてくらせるのです。まさおかのぶちか。
狡噛から受け取った原稿用紙に書かれていたのはそんな単純なものだった。そしてそこには父と母と並んで撮った幼稚園での写真が添えられていた。あの人も結構危なっかしいところがある。子どもの名前や自分たち家族の写真をセーフハウスに残しておくなんて、敵が突破して来たらどうするつもりだったのか。いや、それは最近死んだ老婆によって、彼女が永遠に閉ざした口が息子によって開かれるまで分からなかったのだが。
「あの人は完璧な父親じゃなかったが、ギノを愛してたんだな。すごく、心から」
狡噛が静かに言った。確かにあの人はきちんとした父親じゃなかった。けれど俺にとってはただ一人の父親で、欠くことの出来ない人だった。そんな人も、俺を守って死んでしまったのだけれども。俺は左腕をさする。しばらく感じていなかった幻肢痛で、指先まで痺れている気がした。そんなものは錯覚だというのに。
「分かってるさ、分かってる、分かってる……」
つぶやく俺に狡噛が寄り添う。俺は彼に寄りかかって、煙草の残り香をかぎながら、彼に禁煙を迫るのは後少し先でもいい、と思った。それくらい、俺にとって彼は大切で、彼の匂いは俺を落ち着かせてくれたからだ。
「どうしたんだギノ、そんなにくっついて」
寄りかかる俺が珍しかったのか、狡噛が不思議そうに言った。俺はそれにどう返すか悩んで、結局こう答えた。
「恋人同士が寄り添うのは不思議なことか?」
その拙い言葉に狡噛が笑う。俺も笑う。写真の中の父も、母も笑っている。もちろん彼らに囲まれた幼い俺も。
狡噛が俺を抱きしめる。まだ夕方にもならない。狭苦しいビル街の一室の窓からは、昼過ぎの日差しが差し込んで来ている。まだ戻るには時間がある。だったら父が過ごした部屋で、恋人と過ごしたかった。父を感じ、恋人を感じたかった。俺たちは父が寝たのだろうソファに座って、ゆっくりと手のひらを絡める。今はそれだけで良かった、今はただ触れ合うだけで全てがわかる気がした。そんな夏が始まる前の季節のことだった。