ネオンと炭酸水 揺らぐ浮遊感の中で目が覚めた。照明が落とされた真っ白な天井から目をそらし、辺りを見回すと、眠り入る前と同じ景色が丑三つ時をいくらか過ぎた暗がりの中広がっているのが分かる。
そこは自室と比べたら、ずいぶんと殺風景な部屋だった。黴の生えたような古い文庫本や新書、図録などがそこかしこに積み上げられ、今時手に入れるのも難しい旧式のレコードプレーヤーなんかに、縁が朽ちかけた、銀のスパンコールのドレスを着た、黒人の女たちが笑う紙製のジャケットが立てかけられている。トレーニング用の器具には昨日散々楽しんだ時の黒のワイシャツがかかっていて、あぁ、クリーニング用のドローンを使うのを忘れたな、と俺はぼんやりと思った。
隣に眠る狡噛はまだ眠っている。それはとても珍しいことだった。彼は俺よりも昼寝をする分を差し引いても睡眠時間が短いだけでなく眠りがかなり浅く、いつもならこんなふうに隣で身じろぎを一つでもすれば、すぐに目を覚ましてしまうからだ。
けれど今夜の彼は目を覚まさなかった。昨日はしゃいで交じり合ったから? それとも昨今の激務続きで疲れているのだろうか? 狡噛は滅多に弱音を吐かない。二人きりになった時も、セックスの最中って人間の一番プライベートな時間にも、彼はいつだって行動課の特別捜査官であることを忘れなかった。多分、彼の心はまだ戦場にいるのだろう。いつ急襲があってもいいように、いつ自分の命が狙われても構わないように。いくら日本に帰って来たといっても、一度経験したことは早々忘れられない。
だというのに、今日はどうして目を覚まさないのだろう。俺は段々といたずら心が働き始めて、どこまですれば彼が起きるのか実験したくなった。そして被っていた薄手のタオルケットをはぎ(エアコンが効きすぎて、夏だというのに少し寒かったのだ)、体を起こしてスプリングが心地よいキングサイズのベッドに座り、ひんやりとした床に素足を下ろした。
狡噛はそれでもまだ目を覚まさない。俺は足音を極力立てないように開いたままの扉をすり抜け、キッチンへ向かい廊下を歩いた。その部屋に入ってまず目にとまったのは、色も大きさもてんでばらばらの花々だった。足元の丸いセンサーライトの灯りだけでも、彼が俺の知らないうちに出島のマーケットで買い求めた、そう、昨夜のディナーのために買い求めた花であることが分かる。それらはシェイカーやビールの空瓶、トマトペーストの空き缶などに挿されており、品種はざっと言うと、ラベンダーやタチアオイ、アガパンサス、ダリアやジニアだった。その脇には銀の灰皿があり、そこには吸い殻が山のように積み上げられてある。昨日手料理を振る舞われた時も思ったが、まるで花の香りを楽しむことを知らない、狡噛らしい振る舞いだと笑ってしまったのを覚えている。
(そういえば喉が乾いたな……)
緊張が解けたら水が飲みたくなったのか、俺はキッチンに伏せられたままの、まるで恋人の目の色を薄くしたような色のガラスコップを手に取り、冷蔵庫に向かった。そしてまず冷凍庫を開けると製氷器から氷を取って、コップに五つほど大きなものを入れる。そこに冷やしたレモン入りの炭酸水を注ぐと、しゅわしゅわと水泡がたって美しかった。狡噛は花を愛でることはまだよく分からないようだったが、食事を楽しむことは覚えて来たようだった。現金なやつだ。
俺はそんなことを思つつ、炭酸水を飲みながらカーテンが引かれたままの窓から、今も明るい出島の風景を見つめる。毒々しいネオンの連なり、車が鳴らすクラクションの音、異国の文字が並ぶ光る看板。それがもっと見たくて窓に近づくと、疲れた顔をした自分が映った。最近、厳しい仕事が続いていたからだろうか? それとも歳をとったから? そういえば父も仕事の後はこんな顔をしていた。強い人だったが、仲間たちに疲れを隠さない人でもあった。年寄りくさい振る舞いをして、勘弁してくれよとよく言っていたっけ。彼は自分たち若い人間をまとめ上げ、みなと同じ働きかそれ以上をこなしていたのだから、あの口ぶりも仕方がなかったのかもしれない。今さらそんなことを思っても父はもういないし、敬い、労ってやることもできないのだけれど。
俺は乱れた髪を窓ガラスに移しながら整える。指で黒髪をすいて、頬に撫でつけて。セックスの後シャワーも浴びずに寝たから、汗くさい気もする。今のうちに浴びるか? さすがに水音で狡噛も起きてしまうだろうか? だったら安らいでいる彼に申し訳ない。俺はそう思って、水浴びは取りやめにすることにした。
俺はしばらく窓から出島の風景を見つめていた。高度に開発されたビル街と、移民たちが住むスラムのような移民街が混在する都市。計画されて移民を閉じ込めている地区。紛争地から海を越えてやって来た人々が、必死に生きる場所。東京に行くのを目指して、順番待ちをする人々の目は誰も輝きに満ちていたが、色相を気にして出島に留まる人たちも多かった。そして狡噛はそんな、ここでしか生きられない人々を誰よりも愛していたのだった。俺はそんな彼が好きだった。計画されて作られたものではなく、無造作に生まれたものを愛する彼が好きだった。こんなこと、誰にも言ったことはないけれど。
その時、懐かしい煙草の香りが強まった。汗をかいた炭酸水のグラスを手にしたまま振り返ると、みし、みしと床が鳴る音がする。そして薄く開いたままの扉から現れたのはやはり狡噛だった。起きてすぐ煙草が欲しくなったのか、寝室に置いてあった灰皿を手にスピネルを吸っている。口から吹き出される白い煙が、彼のしっかりとしたあごを覆い匂いをつける。そういえばこの部屋はドローンが管理して清潔だったから気が付かなかったけれど、彼の匂いは煙草の匂いと同価なのだった。汗の香りに混じったそれは、なんともいえない思い出をまとっていた。いつかはこの匂いに苦しんだこともあった。けれど今は、俺にとっては精神安定のためのメンタルケア薬剤のようなものだ。彼が側にいるとすぐに分かるその匂いは、不在もすぐに悟らせて、狡噛が海外に逃亡する前に最後にしたキスも、今と同じ香りをただよわせていたけれど、今はもう違う。不在を知らせても、彼は俺の元に戻って来る。
「目が覚めたのか? ギノ。美味そうだな。俺にも水をくれよ」
狡噛はまた白い煙を吐きながらこともなげに言った。俺が父のことや彼のこと、過去のことや現在のことを考えていたのが馬鹿らしくなってしまうくらい、それは昼間に見せる表情と変わらなかった。いや、そもそも狡噛は自由な男で、プライベートも仕事も地続きになっているところがあったから、俺の気も知らないで、こんなふうに振る舞うのだろう。いや、彼の不在を懐かしみ、少しさびしく思ったのは、俺の勝手なのだけれども。
「自分で入れろ」
俺は少し腹が立って、狡噛にそう言い放つ。すると彼はまた煙草をふかし、俺に近づいて来たと思うと腰をかがめ、俺のコップから炭酸水を飲んだ。水だと思っていたのか舌の刺激に最初は少し驚いた顔をしたが、それでもじきに手を添えて美味そうに飲み始める。俺はそれが馬鹿らしく、けれど可愛らしく思えて、そのままにしておいた。
「炭酸水か。レモンが効いてて美味いな」
全て飲み干してしまうと、狡噛はそう言って笑った。短くなった煙草から、銀の灰皿にほろりと灰が落ちる。俺はそんな様子を眺めて、二人とも汗くさいなと、抱きしめた時と同じくらい側にいる彼を見つめて思った。昨日の記憶がよみがえり、身体の芯が熱くなる。俺はそれを悟られないようにコップをテーブルの上に置いて、じっと恋人を見つめた。
「シャワーを浴びようか?」
だからそんな言葉が、勝手に口から出たのかもしれない。狡噛は目を丸くする。多分彼が今考えているのは、それは二人で入るかってことだろう。俺は別にどっちでもいいけれど、いつだってお前の考えばかり尊重してやるわけじゃない。狡噛が気だるい時に遠回しに誘うのだって、俺の勝手じゃないか。
「なぁ、ギノ、それって……」
狡噛が近づいて来る。思えば、コップに添えられた彼の手は熱かった。あんな空調が効いた部屋にいても、彼は熱を持っていた。そして自分もそれは変わらないのだろう。
俺たちは視線を合わせて静かに手を握り合う。炭酸水の入っていたガラスコップはもう氷だけになって汗をかいて、何も持たない俺たちのようだった。それもいつか流れて消えるだろう。そしてきれいに洗われて、また水道水の水滴を縁につけるのだろう。俺たちがこれからシャワールームで全て流してしまうように、けれどそこできっとまた触れ合って汗をかいてしまうように。