さざなみの夢 夏の日の夕暮れ時のことだ。
俺は狡噛とともに、フェンスで囲まれた海辺の内側を歩いていた。高濃度汚染水で満たされた海に入ることは死すら意味するから、プールと間違えて子どもたちが入らぬよう、黄色地にどくろのマークが入った注意書きが一定間隔で、多くの国の言語を添えて掲げられている。そのフェンスには有刺鉄線も付いていて、好奇心で誰も入らぬよう強く海辺近くの歩道を歩く者にメッセージを寄越していた。
だというのに俺たちはさざなみが寄る海辺を歩き、道路脇でプラスチックのボトルに入れられて売られている、カンパリオレンジを飲んでいた。それはハーブのリキュールがきいて美味いカクテルだった。蜂蜜を隠し味にひと匙垂らしたと店主は言っていたから、少し甘味が勝っていたけれども。
「事件が解決して良かったな」
狡噛はカクテルを歩きつつ飲み、革靴で砂を踏んだ。ともすれば足が沈んでしまいそうな感覚は見知らぬものでもあり、懐かしくもある気がして、俺は砂場で遊んだ幼い頃のことを思い出していた。
「結局薬物の過剰摂取だったがな」
俺は甘いカンパリオレンジで喉を潤し、狡噛にそう返した。
俺たちが今日担当したのは、海辺で身体中から血を流して絶命していた男の事件だった。当初殺人の線も考えられたとはいえ、公安局の領分に踏み込んだのは彼が入国者の福祉を担当している、保健センターの職員だったからだ。被害者の名前は省略しておくが、彼は保健センターで薬物依存の患者のセラピーを担うセラピストだった。けれど暴いてみればそこは薬物の取り引きの温床であり、被害者、いや薬物中毒の男もそれに染まっていたのだ。そのことから、俺たちはまずセラピーに参加していた患者たちを被疑者に選んだ。だが結局は被害者が致死量以上のドラッグを摂取し、ハイになってフェンスを無理矢理越え汚染水に触れて死んだだけで、捜査線上に浮かんだ容疑者が犯人になることはなかった。
「それでも中毒者が犯人じゃなくて良かった。ドラッグは悪だが更生の余地はあるし、うまくいけば施設送りも免れるだろう。売人はさすがに無理だろうが、東京行きも夢のままじゃ終わらないかもしれない」
「そう上手くいくものかな」
狡噛の楽観的な台詞に、俺は少し不安げな声を漏らしてしまった。出島に住む入国者はみな、東京での豊かな暮らしを望んでいると言ってもいい。その道がドラッグで絶たれなかったことを彼は喜んでいるのだろうが、それでもそう上手くいくとは思えなかった。一度薬に手を出してしまえば、ケア薬剤ですら過剰に取れば、ユーストレス欠乏症になる。俺の母のように。それよりも強い薬物に依存すれば、もっと悪い結果が待っているのは分かりきっていた。
「もう一杯行くか?」
狡噛が尋ねる。俺はため息をつきながらそれに頷き、フェンス越しに酒屋の店主にもう二つ、今度はビールを、と叫んだ。すぐにハイネケンの緑のビールが砂浜に落ちる。狡噛がチップを加味した代金をフェンスの下にくぐらせて、店主はそれを受け取る。俺はそんな光景を見ながら、左手で瓶ビールをすくい、キャップを外した。
「ほら、狡噛」
俺たちは乾杯をする。事件の解決に、浮かばれなかった薬物依存症患者だったセラピストの自死者に。他人を助けることで、自分も助かろうとした男に。
けれど薬でハイになっていたとはいえ、あのセラピストはなぜ海に入るなんてことを選んだのだろう。人は自然と海に惹かれてしまうものなのだろうか? 母なる海、生命が生まれた場所、そこに帰りたいと人は思ってしまうものなのだろうか? さざなみに胎動を感じてしまうのだろうか? 俺は自然と足を海に向ける。段々と砂浜が湿り気を帯びる。けれどまだ海は遠い。ドローンの警告音がする。これ以上進むと危険です、すぐに陸に戻ってください、何か悩みはありますか、保健センターに繋ぎましょうか。
ドローンはまるでセラピストのように俺に語りかける。今回死んだ男は、この呼びかけも無視して血まみれで海へと進んだ。それは本能だったのだろうか? それともどうしようもない人生にエンドマークをつけるためだったのだろうか? この国を目指して粗末な船でやって来たはずのボートピープルが祖国に帰りたいと思うように、そんな感情を抱いてしまったのだろうか?
「……ギノ、それ以上行くな」
ぐっと腕を掴まれる。俺は思わずビール瓶を落として振り返る。そこには真剣な顔をした狡噛がいた。俺は何も言えなくなる。言葉が見つからない。狡噛は何を言おうとしているのだろう? まさか俺が海に惹かれているとでも思ったのか? 太陽が落ちる海は確かに美しい。空と海との境界線がなくなり、光に包まれる様は美しい。けれどそれだけだ、俺にとっての海とは、出島に来るまで身近なものではなかったし、思い入れがあるものでもなかった。
「はは、俺は自殺はしないさ」
その言葉はどこか空虚だった。けれどそう言わなければ、狡噛が手を離してくれないような気がした。落ちた瓶ビールからはアルコールの匂いが漂っている。彼の口からも同じ匂いがする。いつも煙草を咥えている唇からは、今日ばかりはアルコールの匂いがしている。
「縁起でもないことを言うなよ」
彼はやけに真剣だった。狡噛はこういう時、俺がふとした瞬間に奈落の底を見てしまう時、俺を引き上げてくれる。東京の公安局の新しい監視官は、お互いをザイルパートナーと称していた。お互いがお互いを引き上げる役目をあの二人は担っていた。けれど俺は、狡噛に引き上げられてばかりだ。初めて出会った時に、地獄から掬い上げられたように。
「大丈夫さ、お前が側にいるから。もうどこにも行かないんだろう?」
俺は自分がずるいことを言っているのを分かって、彼に尋ねた。彼は頷いて、俺をじっと見つめた。その視線に嘘がないことは分かっている。けれどまた槙島のような存在が出て来たら、きっと狡噛は再び同じ決断をするだろうことは分かりきっていた。
俺たちは海辺を歩く。砂浜を戻り、海を管理するドローンにフェンスを開けさせ、砂の入った革靴で歩きながら、じゃり、じゃりと歩く。手を繋いで、薄闇の中で、光が沈んでゆく中でただ歩く。帰るべき場所に向かって、今は一時的にあるべき場所とされるところに戻って、きっと多分今日も抱き合うのだろうと思いながら、ただただ休むべき場所に向かって歩く。