愛しき草原 狡噛の部屋にゆくと、見たこともない量の靴が散らばっていた。いや、これは散らばっているというか、靴箱を開いて放り出した、と言った方が正しいかもしれない。スニーカー、ブーツ、ローファーに正装用の革靴、それらが玄関を埋め尽くしているのだ。俺はまず何事かと思った。誰かが泥棒に入ったかと思った。けれど金になりそうな置物は取られていなかったことから、犯人は存在しないように思えた。いや、犯人の目的は金目のものではなかったのかもしれない。俺たちが一般人より持っているものといったら一番に情報だ。ということは、これはデバイスを狙った犯行かもしれない。だがそれにしても、靴箱を漁るなんて間抜けな泥棒だが。
「狡噛、いるのか」
俺は一応玄関で靴を脱ぎ、義手の手袋を外しながら廊下に上がった。扉を開け、リビングに入るとそこに雑然とだが丁寧に積んであった古本やレコードも散らばっていた。レコードプレーヤーの周りには出島では珍しくもないロシア民謡のレコードが積んであって、そこだけが整然としていた。ということは、犯人はこれらが目的ではなかったのだろうか。いや、さっき俺はこの惨状を作った人間の目的は情報だと言ったじゃないか。
その時、キッチンで何やら食器を落とす音がした。俺はとっさに腰をかがめ、それでも「狡噛?」と尋ねながら近づく。するとどういうわけなのか、スパイスラックを漁るこの部屋の主人が見つかった。彼はオレガノやカルダモンを手にして、ここにもないな、とつぶやいていた。
「自分の部屋を家探しか?」
俺はため息をつきながら、不可解な行動をとる狡噛に近づく。すると彼はとても残念そうに次のように言った。
「お前と同じ誕生日の作曲家のレコードをマーケットで見つけてな。でもそれをどこに置いたのか思い出せなくてずっと探してるんだが……」
「それでこんなになるまで部屋をぐちゃぐちゃにしたと?」
しかし呆れながらそう言っても、狡噛は真剣な顔を崩さなかった。でもどうしてそんなにレコードにこだわるのだろう。俺と同じ誕生日の作曲家ってあたりが、ご機嫌取りを思い起こさせる。というのも、ここ数日間、俺たちは少々険悪だったからだ。
始まりは言葉尻を捉えた喧嘩だった気がするが、確かなことは覚えてはいない。とにかく俺たちは喧嘩をして、俺はその仲直りのためにこの部屋にやって来たのだった。いや、俺は悪くはないけれど。
「チェーホフの夫人の甥で、ソ連の間諜だった作曲家だよ。レフ・クニッペル。日本でも何度かドラマの主題歌になったポーリュシカ・ポーレっていうやつで、それは一般的に社会主義的リアリズムとしても有名で……」
相変わらず、狡噛は何を言っているのか分からない。社会主義的リアリズム? なんだそれは。俺の無知を笑いたいのか。せっかく仲直りをしようとやって来たのに、お前の作曲家のチョイスはどこかおかしい。いや、社会主義的リアリズムが悪いのじゃない。それを知らないだろう俺に滔々と語る狡噛が気に入らないのだ。それにチェーホフだったら俺も知っていた。お前に本を貸されて読んだからだ。仲直りしたいのなら思い入れのあるものをプレゼントすればいいのに、どうしてそんな変なところでこだわるのだ。
「どうしたんだ? 仲直りをしに俺の部屋に来てくれたんじゃないのか? あ、そうだ、もう一度レコードの山を崩してみよう」
狡噛が俺の表情を笑う。俺はそれに耐えきれなくなりそうになって、けれどどうにかこらえて、彼がいそいそとリビングに行くのを見送った。そして勝手に冷蔵庫を開けてハイネケンの瓶ビールを取り出す。横にロシア製のバルチカもあったが無視した。どうせそのレフ・クニッペルって奴の曲を聴きながら飲もうと思ったのだろう。それで俺の機嫌を取ろうと思ったのだろう。
「あ、あったぞギノ。俺も馬鹿だな。レコードの間に挟まってた。ラベルがくっついてたんだ」
俺は部屋の主人に許可も取らずビールを飲みながら、嬉しそうに笑う狡噛を見つめた。見れば彼は汗だくで、必死にレコードを探していたことが分かる。俺はそれに少し心を動かされてしまって、これではいけない、いけないと何度も自分に言い聞かせた。
「早速聞こう、ギノ。手に入れるのは大変だったんだぜ。これはソ連の赤軍合唱団のものじゃなくて、大昔の日本のドラマに使われた女性歌手のやつだからきっと耳に馴染む……」
「狡噛」
俺は早口で言う恋人に近づき、ビールを飲み干す。まだ酔いは回って来ないが、酔っ払っているような気がしないでもなかった。
「他に言うことは?」
遠回しに俺の機嫌を取ろうとしたことは、まぁ嬉しくないわけはない。だが、直接的な言葉が欲しい時もある。喧嘩がどちらから始まったにせよ、こんなふうに機嫌を取るくらいなら、直接的な言葉が欲しい時もあるのだ。狡噛が目を泳がせる。青い瞳、深い海の色、夕暮れが終わった夜の色。その瞳が俺にゆっくりと視線を合わせる。そしてふっくらとした唇が俺の名前を呼ぶ。
「ギノ、悪かった。何が悪かったかは忘れちまったが、とにかく悪かったよ」
俺はいいんだ、とか、俺も悪かった、とか、いろいろな言葉を頭によぎらせたけれど、結局最後はレコードを持った彼のシャツを引っ張ってキスをしていた。煙草の味がする。狡噛が驚いた顔をする。それが心地よく、気分がよく、俺はいつもよりずっと熱心にキスをした。じきに狡噛もそれに応じる。唇を噛むようなキスをして、俺たちはゆっくりと離れる。狡噛がソファに座る。その側にはレコードプレーヤーが置いてある。
「俺も悪かったよ、狡噛」
俺はそう言いながら狡噛の隣に、少しだけ距離をあけて座る。すると笑った彼が強引に近づいてきて、もう一度キスを仕掛けてきた。手に持っていたはずのレコードは、狡噛いわくソ連の社会主義的リアリズムとしても有名らしいレコードはローテーブルの上に置かれる。もうごたくはどうでもいいのかもしれない。俺は彼に謝らせたけれど、それ以上にキスで解決を願ったのはこちら側だったから。
「なぁ、ギノ。喧嘩の後の……」
狡噛が何を言いたいのかは分かっていたから、俺はそれをまたキスで封じた。そして彼にビールを取ってくるように命じて、もう一度だけ慰めるようにキスをした。ことを進めるのはレコードを聞いてからでも間に合う。いや、これは彼が俺と同じことを考えていたらの話だが。
狡噛がキッチンに消えている最中、俺は聴いたこともない、そして理解も出来ないロシア語の歌のレコードをプレーヤーにかけた。彼はきっとロシア製のビールを持ってくるだろう。切ないメロディが流れ出す。重苦しい冬の時代を思わせるメロディが流れ出す。けれどそれも狡噛の声に遮られてしまう。彼はやっぱりバルチカを持っていて、つまみにポテトまで持って来ていた。
狡噛は嬉しそうな顔をしている。他の誰かが見れば仏頂面だろうが、俺には笑顔に見える。恋人の欲目かもしれないけれど。
「なぁ、狡噛」
「ん?」
少し間抜けな顔で狡噛が首をかしげる。
「お前の遠回しな謝り方、今はちょっと気に入ってるかな」
そう言って、俺は狡噛が何も言わないのをいいことにキスをした。ビールの味がしたが、それもやがて狡噛の煙草の味に変わってしまうのだろう。それか、バルチカの味か。どちらにせよ、彼の味に。
俺はそんなことを考えて、狡噛をソファに押し倒した。彼は少し驚いていたけれど、そんなのは知ったことではない。ここ数日俺だっていろいろ考えた。それがこの結論だ。さっきお前も言っただろう? 喧嘩の後はってさ。
キスが深くなる。バルチカを味わうのはまだ先になりそうだ。それまでは煙草の味で我慢するさ。