京園⑦*
「この前ね、隣のクラスの男子が話しかけてきたの、一度も話した事ないのに。でもよく見たらその子、なんか持ってててね、破ったノートみたいなやつなんだけど、私察しがいいからねー、これは連絡先が書いてあるやつね? ってピンときちゃったのよ、きっとうちのクラスの子に届けてほしくてたまたま私に声かけたんだなーって。でもああいうのって、直接渡した方がいいじゃない? 私も真さんに連絡先渡した時、凄く緊張したなぁ……ってなんか思い出しちゃって。だからついお節介しちゃったの。『うちのクラスの子なら呼んできてあげるけど、誰宛なの?』って。そしたらさ、なんかやっぱり余計なお世話だったみたいで『ごめん、やっぱりいい』って帰っちゃったのよね。あーあ、悪い事したなぁ……」
近況報告と世間話の境界はいつも曖昧で話題は転がる石のように時折思わぬ方向に飛び上がる。
テーブルの上に肘をついた彼女が手の上に顎を載せる。思い出し笑いで細めた眸と少し寄った眉根。片手でアイスティーのストローを摘み、わざと音を立てるように撹拌する。反してグラスの結露の雫は音もなくゆっくり落ちていって、紙のコースターに染み込んでいった。
いくつもの感情が同時に湧く。彼女とどうにかして親しい間柄になりたいと考えて近付く輩がいるという事実に対する怒り。今すぐにでもその輩を突き止めて何故彼女に声をかけたのか問い質したいという焦り。どうして彼女は男子生徒に話しかけられたその真意について全く気付いていないのかという戸惑い。そして今、新たに湧いた感情は──安堵と同情だった。
(貴女という人は、なかなかどうして残酷な人だ……)
自分以外の男を気にかけて、自分の行動を省みて申し訳なさそうに微笑む姿を見せられている目の前のこの状況は、直截に言うならば面白くない。
とは思うものの、既に自分の中の怒りと焦りは殆んど消えている。彼女の、分け隔てなく裏表のない善意と優しさは間違いなく素晴らしい。しかしその為に、一体今まで何人の男が涙を呑んで身を引いてきたのだろうか。表出する前に彼女自身の手によって無いものとして扱われた、彼女に想いを寄せる数多の男達の、なけなしの勇気に対して思う、己もまた其方側に転落していたかもしれぬという予感。手を合わせるか十字を切るか、宗派は何でも構わないが、弔ってやりたいようなこの感情は。
憐憫、それ以外に何と喩えればいい。
普段碌に回らぬ舌が独りでに口走りそうになって、なるべく不自然にならぬよう慎重にコーヒーカップの持ち手に指をかける。一口分流し込んだコーヒーは存外まだ熱かった。
「園子さんの優しさは、余計なお世話とかお節介というのではありません。機転が利くとか、如才がない、というんです」
「うーん……そうかな」
「先回りして手助けする事は誰でも出来る事ではありません」
照れ隠しか、アイスティーを一口飲んだ彼女もまた言葉を飲み込んだのかもしれない。
根本的に、優しい人なのだ、と思う。それが意図的なものか無自覚かはこの際差し置いて、自分も相手も一番傷付かない行動を素早く判断して選び取る。社交的で友好的な彼女の体得した処世術ともいえるだろう。
故に。
彼女に助け舟を出させるようなその程度の勇気では、到底選んでもらえる訳がない。
「真さん?」
「はい」
「なんかニコニコしてるから。どうしたの?」
表情に出していたろうか、と咄嗟に頬を触る。指摘されてからでは初めから緩んでいたのか如何かさえ分からないが、少なくとも彼女の目は見抜いていたらしい。
「初めて貴女を知った時からずっと思っていましたが、園子さんは友達思いの優しい人だな、と。改めて思いまして」
目を見て言えば彼女は二三度瞬きして大きく目を見開いた後、隠しきれないというように相好を崩した。えへへ、と小さな笑声がこぼれる。仕草ひとつ取ってみても、素直で真っ直ぐで、屈折も屈託もない。だからこそ何も知らずにいてほしい。声をかけた男子生徒の秘めていたであろう想いなど路傍で萎れた雑草と同等だと、気付かぬまま通過してくれさえすれば。
「な、なぁによ……もう、真さんに言われるとちょっと恥ずかしいんですけど? でも、まぁ、ありがとね」
彼女が両手で包んだグラスの中で、溶けかけた氷が涼やかな音を立てる。人知れず水にかえってゆく名も知らぬ男の恋心も、きっとこんな音がしていたに違いない。
〈了〉