酔月夜久々にフェンリッヒとサシで晩酌をした。何かと忙しなくしているシモベの労をねぎらうという意味もあってシモベの好みそうな酒をいくつか見繕って持って行った。何百年も連れ添った気の置けない関係でもある二人であればすっかり日を跨ぐ頃合いまで飲んだのも必然と言えるだろう。ただ明日は休みだしそれは別に構わない、たまには悪魔らしく心ゆくまで酔いに身を任せるというのも悪くない。
ただ一つだけ誤算があったのは確かである。
「酒に弱かったのだな……フェンリッヒは」
下に目線を向けるとそこにはソファにもたれるヴァルバトーゼに抱き付いて穏やかに眠っているフェンリッヒがいた。先程数回名前を呼んだがまったく反応が無かったので寝ているのは確かだ。時折寝言で閣下と呟いているがどんな夢を見ているのやら。
力ではヴァルバトーゼも負けていないので引き剥がすのは容易ではある、が流石に普段から働き詰めの男が酒に酔って寝ているのを不用意に起こす気はいくら悪魔とはいえ無かった。
「ふふこんなに無防備でいるとは……珍しいな」
胸に頭を預けているフェンリッヒの髪を払って寝顔をじっと眺める。これが数百年を共にした男の寝顔か、普段の常に策謀を張り巡らせている威圧的な雰囲気は欠片もなくただただ穏やかさだけがあった。
「……かっか」
「そう何度も呼ばずともここに居るとも、フェンリッヒ」
日頃のきびきびとした雰囲気はどこへやら、すっかり脱力して寝そべっている姿は狼よりも猫のそれを連想させる。
「ふふふ、たまにはお前とこんな風に過ごすのも悪くはないな」
後ろの窓に目を向けると今夜は偶然にも満月が登っていた。まるでかつての夜の月を連想させるが今の状況と昔のあの時の状況があまりにも違いすぎていて、そのおかしさに吸血鬼は喉を鳴らして笑った。そしてゆるやかな眠気が忍び寄ってきたのを感じたヴァルバトーゼは力を抜くと目を瞑った。
何だか良い夢を見ていた気がする。そう思いながらフェンリッヒは目を覚ました。一瞬ここがどこだか分からなくなったが、昨晩主と酒を飲み交わしたことに思い至る。どうやら情けないことに酒で眠くなり自室にも戻らず寝てしまったらしい。
そういえば主はどこだろうと起き上がろうとしたとき何かをずっと抱き締めていたことに気が付く。何だと腕のなかに目をやるとそこにいたのは今探そうとしていた主だった。
「……え?」
主はフェンリッヒが身じろいだことで一瞬眉をしかめてもぞりと動く。不味いと反射的に思って、起きてくれるなと心の底から願ったが呆気なくヴァルバトーゼの目蓋がゆっくり持ち上げられる。
「ん……?あぁフェンリッヒか、もう朝か?」
眠たげな瞳でそう問うてくる主に対してまだ状況を咀嚼できていないフェンリッヒはしどろもどろに答えるしかなかった。
「は、あ、えっとそうですね……」
「どうした、朝から動揺してるようだが」
「い、いえ何でもありません」
「そうか?なら起きねばな、離してくれ」
「も!申し訳ありません閣下!」
ぱっと腕の拘束を解いてソファから飛び退くように降りるとフェンリッヒは直角に頭を下げた。恐らく酔った拍子の行為であることは想像に難くないがそれにしたってあり得ないことである。いくらなんでも主従の距離感ではないし完全に不敬に値する。とんでもないことをしてしまったと冷や汗が流れ主の顔をまともに見ることができない。
「そこまで謝るほどでは無いぞ、起こさなかった俺にも責はあるしな」
「酒に流された私が全面的に悪いことは前提として、今後もし私が酔っておかしなことをしたら殴ってでも良いので起こしてください!」
「落ち着け、別にこのぐらい構わんぞ」
ヴァルバトーゼの寛大な心がこの時ばかりは重ねてダメージを負わせてくる。今後はよくよく気を付けねばならないと執事は密かに心に誓った。そして酒に負けたことがよっぽど堪えたのかこの日は小言の多い執事がすっかりおとなしくなって過ごしていた珍しい日となった。