桃のタルト 鈴の家は、案外お菓子が多い。
彼女曰く、「スーパーが近いから、ついため込んじゃうの」とのことだ。
ワンルームの狭いキッチンの、収納がないスペースにわざわざお菓子コーナーを作っている本当の理由を、恵は知っていた。スーパーで買う大きなファミリー向けのお菓子は、大体個包装されていて、つまみやすい。
つまり、歌の片手間に食べられるということだ。
嫌なことを思い出してしまって、少しだけ眉間に皺が寄る。はぁ、と溜息をつくことで力を抜いて、気を取り直してお菓子コーナーを覗いた。お菓子コーナーにはビスケットと、マシュマロがある。どちらも封をあけてクリップで閉じているそれを見て、今日で使い切ろうと恵は心に決めた。
歌に熱中しながら、食事代わり食べている鈴の姿が簡単に思い浮かんでしまった。歌に打ち込む彼女が好きだが、それはそれとして食事と睡眠はきっちり取ってほしいのが恋人心である。
ちらりと、部屋の方を見る。部屋の真ん中、淡い赤の布団カバーで包まれたベッドに背中を向け、木製の丸いローテーブルいっぱいに紙を広げていた。ボールペンでなにかを書きつけたかと思えば、スマートフォンをタップしている。音の海へと深くふかく潜っていく彼女を自分に向けることは無理である、とあっさりと恵は諦めた。
鈴の集中加減を見るに、おそらく途中で無理矢理にでも休憩させなければいけない。
自分の胸元より下ぐらいの大きさの冷蔵庫を、かぱりと開ける。
腰と膝を折って中を覗けば、ヨーグルトがあった。朝食を紅茶一杯で終わらせてしまいがちな鈴のために、恵が定期的に買って冷蔵庫に入れているものだ。中身を確認すれば、きちんと減っている。あと1回分といった所だろう。
他に何か、と冷蔵庫を見回せば、クリームチーズが残っている。何回か前に、恵が買って入れて置いたものだ。賞味期限はギリギリ。これも使ってしまおう。
ほかに何かないか、と冷蔵庫を一度閉めて、冷凍庫を確認する。
前回、恵がまるごと入れていた桃が二個、そのまま残っていた。
解凍を面倒くさがったな、鈴さん。顔を上げて、じとりとテーブルに向かう鈴を見る。こちらに気づく様子は、残念ながら、ない。
一食を桃で終わらせなかったことを喜ぶべきか、と桃を手に立ち上がる。包丁で薄く十字の切れ込みを入れながら、いや恋人としてそこで喜びたくないな、と思う。シンクで水に晒しながら皮をむけば、つるりとした実が現れる。このままかぶりつきたくなる衝動を耐え、再び包丁をもつとくし切りに実を落としていく。
しゃく、しゃく。解凍しきらないうちに切っているせいか、涼し気な音がなる。それに口元が緩むのを自覚しながら、種を残してすべてくし切りにした。ちらりと鈴を見れば、変わらず熱中している。種のまわりについた微かな実を、タンタンと子気味の良い音を鳴らして切り落とし、バレないうちにぽいぽいと口へ放り込んだ。
今年最後の桃である。余すことなく味わいたい。
鈴の父は、度々旬の果物を送ってくれた。果物農家というわけではないから、鈴のためにわざわざ買ってくれているのだろう。果物の値段に尻込みをしている金のない大学生からすれば、ありがたい限りだ。もっとも、鈴の父はあくまで『鈴』宛に送っているのだから、それを恵が食べていることに少しだけ罪悪感があった。
桃を一緒に食べるようになったのは、いつからだっけ。
ふと過って、ビスケット片手に思わず鈴の方を見る。うまくいかないのか、後ろのベッドに倒れ込んでいた。そしてしばらくゴロゴロと転がったかと思うと、勢いよく起き上がり再びスマートフォンをタップしだす。スマートフォンから音が流れる。それに合わせて、鈴が小さく声を出す。真剣な顔をしている彼女に、思い浮かんだ疑問なんかすっかり忘れて、恵はキッチンへ向き直った。ビスケットを砕きながら、彼女の声に耳をすませる。距離の関係で、どうしても鈴の声がビスケットを砕く音に負けてしまう。それでも、恵には十分だった。
聞いたことのないリズムのそれは、きっと『ベル』の新曲だろう。
鈴のマネージャー兼親友である弘香からは何も聞いていないが、サプライズにしようとしているのか、それとも伝え忘れているのか。サプライズだったら申し訳ないな、と思う気持ちがないでもないが、後で確認しようと頭の隅にメモをした。
砕いたビスケットに、溶かしたバターを混ぜ合わせる。ほろほろと固まったそれを、型に入れてスプーンで押して固める。
固めながら、ふと思い出したのは知のことだ。中学生も終えようかという年になった知は、『U』で再び『秘密のバラ』を咲かせた。あの、前の城が燃え落ちた時、一緒に燃えた『秘密のバラ』を、再建した城でコツコツと再び咲かせようとしていたのを、恵は知っている。
ーー恵くん。ベルに見せたいから、鈴ちゃんに咲いたって伝えてね。
お茶の時に伝えよう。
再び頭の片隅にメモ。クリームチーズとマシュマロを溶かしたものを混ぜ合わせる。もったりとしていたそれが、とろりとした所で冷蔵庫にしまう。
ベッドの枕元に置かれた時計を確認する。
今からだと、出来上がる頃は少しお茶時を過ぎてしまうが、まぁいいだろう。いや、時間が遅いのを理由に夕飯を食べないと言い出しかねない。出す量は小さめにしよう。
シンクで道具をすべて洗って、キッチンペーパーで拭いてしまう。
本来ならば普通に乾かしたいが、あいにくとそんなスペースはない。もう少し広ければなぁ、と何度目かわからないことを思いながら、すべて片付けた所で冷蔵庫からビスケットの生地とクリームチーズの生地を取り出す。とろ、とろとチーズ生地をビスケット生地に流し込み、三度目の冷蔵庫へ。
チーズ生地が入っていた器を洗い、しまった後、部屋の隅に投げていたカバンを手に取る。シンプルな黒のボディバッグは、誕生日に鈴がくれたもので、恵の愛用品だった。
中から買ったばかりの文庫本を取り出す。テーブルに向かう鈴の横に、拳ひとつあけて座った。彼女は恵の行動に気づく様子はなく、テーブルに向かったままだ。時折、視線が窓の向こうに行くが、無意識なのだろう。恵の方を向くことはない。
彼女の瞳が自分に向かないことが少し寂しい。けれども、それ以上に目を輝かせて音の海にひたる彼女が、恵は好きだった。
自分の視線に彼女が気づく前に、ベッドに背中を預け、ぱらりとページをめくった。
カリカリとボールペンが紙を擦る音。スマートフォンから出る音。それだけの空間で、集中できることを祈った。
結果として、集中しすぎた。
気づけば予定していたお茶の時間をとうに過ぎている。日が落ちていないのが救いだ。
本を閉じて鈴をみれば、テーブルに両肘をついてテーブルに広げたものと睨みあっていた。煮詰まったらしい。試験中の学生よりも必死な顔に、思わず笑ってしまいそうになる。
口を手で隠して、笑いそうなことがバレないようにする。そそくさとキッチンに移動して、お湯を沸かす。鈴のお気に入りの茶葉を出して、冷蔵庫から桃とタルト生地を取り出した。
さて、どう並べるか。
ふと知のバラの話を思い出して、くし切りにした桃をバラの形になるように並べる。なかなかいい具合に出来上がったそれを見ていると、鈴に見てもらいたい気持ちが出てくる。が、彼女のことだ。夕飯が入らなくなる量を食べかねない。自分のスマートフォンで撮って、画像だけ見せよう。
かしゃ、と一枚撮って、包丁を手にする。
普通のショートケーキよりも小さめに、ふたつ。鈴のお気に入りである木製のケーキ皿にのせて、小さめのフォークを添える。マグカップに沸いた湯で紅茶を居れれば、完成である。
自分の分と鈴の分をお盆に並べて運べば、テーブルの神と睨みあっていた鈴が勢いよく顔をあげた。
彼女の実家のフーガを思い出して、こみあげてくる笑いを何とか喉のほうで押しつぶした。
「今、キリいいの?」
「よ、くはないかなぁ。でも煮詰まってるから、ちょっと休憩したい」
「その方がいいよ。はい、今年最後の桃」
「あ、冷凍庫のやつだ」
「冷凍庫にあるのはわかってたんだね」
「恵くん? 今の言葉、棘があったよ……? ヒロちゃんの影響……?」
眉を下げてしょぼしょぼと告げる鈴の言葉をまるっと流して、こと、ことん、とケーキ皿とマグカップをテーブルに置く。恵に流されたことについても、ヒロちゃんに似てきた、としょんもりしていた鈴だが、ケーキを見た途端顔を輝かせるのだから、恵はとうとう思い切り噴き出してしまった。
「ふ、く、んんッ。めし、あがれ」
「恵くん……食い意地が張ってるって思ったでしょう」
「まさか。かわいいとは思ったけど」
「笑いながら言われても説得力ないよ??」
もぅ、と頬をふくらませながら、鈴はフォークを取るとケーキの先端に入れる。しゃく、と音が鳴って、桃が切れる。その後のクリームチーズとタルト生地も綺麗にわかれて、鈴の顔がへにゃりと締まりのない顔になった。
つぷ、とフォークを刺す。おそるおそる口に運んで、もきゅ、と嚙み締めた途端、鈴の顔がいっそう輝いた。
「おいしぃ~~」
とろけるような声、というのはきっと今の彼女の声だろう。
幸せを詰め込んだ顔でタルトを食べながら、「おいしいタルト賞受賞しちゃうよこれ」とオリジナルの賞を授与させている鈴を、恵は頬杖をつきながら見ていた。
「恵くん、食べないの?」
「食べるよ。もう少ししてからね」
今すぐ食べればいいのに、って顔に大きく書いてある鈴に笑いかける。
さすがに、『鈴さんが幸せそうに食べているだけで胸がいっぱいなのに、今食べたら胸やけしちゃう』とは、恥ずかしくて言えなかった。