Give me all your words. 机に向き合い、時間が過ぎていくのを眺めていた。長い一日だったな、と竜胆は振り返る。それによく歩いた。心地よい疲れが身体を浸し、脚のあたりがじんわりと熱を帯びている。
沢山のプレゼントをもらった。
ガールフレンドは彼に『コヨコヨ』のカードを送った。同じゲームに熱中する彼はそのカードの価値をよく理解していた。ショウカ、始めたばっかなのにいいのか!?と目を見開いた彼に、エンリョしないでよ誕生日なんだし、大事に使って、と少女は微笑んだ。
友人は彼にフープタイプの銀のピアスを送った。大人しめを好む彼には派手すぎるようにも見えたが、リンドウきっと似合うって!と太鼓判を押された。次の散策の時にはきっと彼の耳に光っているだろう。
「ツイスターズ」のチャットルームでは、彼宛ての何件ものメッセージが飛び交った。少し年上の先輩はわざわざ”河川擬人化”のキャラクターのおめでとうスタンプを送ってきて、彼を苦笑いさせた。
母は早上がりして食事のリクエストに応えてくれた。「普通のがいいよ」と曖昧なオーダーだったが、煮魚に白和えに野菜の味噌汁といった代わり映えのしない料理が、丁寧に下ごしらえされて食卓に並んだ。テーブルを囲み、「いただきます」と手を合わせて煮魚を口に含んだ彼の顔が綻ぶ。
「……美味しい」
「でしょう?」
尖り過ぎない優しい味付けを好む彼の嗜好を、母はよく理解していた。
それから『自分へのプレゼント』もこっそり買っていた。帰って荷物を片付けるときに、枕の下にそっと差し込んでおいた。自分へのプレゼント—-それは一冊の本だった。
朝10時、ガールフレンド —- 紫陽花は上下がセットになったスカート姿でハチ公前に現れた。「ガット・ネーロ」のブランドカラーである黒がよく似合う。ふっくらとした目元と瑞々しく潤んだ唇。柔らかくて繊細で儚そうでいて、それでいて刺がある。見惚れて棒立ちに突っ立っていた竜胆を上目遣いで覗きながら、彼女は甘いハスキーボイスで「おはよ、何ボーッとしてんの」と呼びかけ現実に引き戻す。
キャットストリートを抜け代々木公園に向かう。明治神宮で戦功をお祈りしてから、代々木公園をひたすら歩いて紫陽花と『ポケコヨ』のレアモンスターを探し回った。秋の入り口を迎えた代々木公園では、ランナーが調子良いテンポで走り抜け、芝生ではしゃぐ子供のそばで母親らしきグループが談笑し、年配の夫婦がベンチで日向ぼっこをしていた。同じくポケコヨで遊んでいるのだろう、スマホを手にふらふらと歩き回る人にぶつからないよう気をつけながら、二人で公園の遊歩道をぐるぐる歩き回った。
たくさんのトンベリをスマホに迎え入れた。召喚獣の捕獲や戦闘の時にはお互いに連携を取り合い、そうでない時は互いの高校生活についてどうだこうだと分かち合う。お昼にはフードトラックでケイジャンチキンを調達し、近くの有名店に足を伸ばして柔らかなチーズケーキを求めた。日なたの下で二人だけのピクニックを楽しんだ。
日が傾くまで本当にあっという間だった。
公園から渋谷駅に戻る長い道をゆっくり辿りながら、紫陽花は公園を挟んだ反対側にかつて在った『新宿』という街のことをぽつぽつと話した。
「あ、ちょっと寄っていい?ポケコヨの攻略本探したい」
通りの向かい側に書店を見つけた紫陽花が竜胆の手を引く。
「攻略本?今更?」
「今更ったって、私が初心者やってたの3年前だし……今の環境わかんない」
「それもそうか」
かつて「スワロウ」と名乗るベテランプレイヤーだった彼女だが、とある事情でアカウントの初期化を受け最初からやり直しになってしまっていた。今は竜胆と一緒に、長い2周目のゲームをのんびり楽しんでいる。
横断歩道を渡り、書店に足を踏み入れる。ゲーム攻略本のコーナーへ向かう途中で、ふと竜胆は鮮やかな一冊に目を引かれ、足を止めた。眩しい青空と、空中に舞い上がる風船の写真。Another —-『穴沢基威』の写真付き作品集だった。
「……アナザーさん」
放心したように呟く竜胆の声を受け、振り返った紫陽花が「げ」と顔を引きつらせる。
「アイツのじゃん…1年前から売れ残ってんだ」
「そうだな」
そう言いながらも、竜胆は平積みにされたその一冊を手に取り、軽くページをめくる。
「リンドウ……まだ気になんの?」
「あぁ、ショウカは好きじゃないよな」
「ベツに……」
パラパラとページをめくるごとに、見知ったフレーズが目の前を通り過ぎた。
—-空を見上げたらそこにあるのはたくさんの空気。
—-涙とは身体の中にあった水だよ。
—-人と仲良くなるチャンスは大事に。
ふわふわ。ゆらゆら。
言葉の世界はぼんやりと霞のように少年を包む。竜胆はその曖昧さを好んだ。
はっきり決めろ、と人々は迫る。決められないのは自分の悪い癖だと自覚している。それでも、言葉の世界は竜胆を拒否しなかった。
こうだよね?と問い掛ければ、その通り、と言わんばかりに黙ってそこにいる。違った、ああだったね?と解釈すれば、それも否定せずに黙ってただそこに在る。
放たれた言葉は竜胆の考えを決して否定することなく、ただ覗き込まれるに任せて竜胆の欲しい慰めをくれた。無意味で無価値な言葉の羅列を、奏竜胆は好んでいた。
決して厚くないそれを愛おしげに数ページ繰ってから、「買うよ」と決心したように呟いて小脇に持ち直した。紫陽花の表情がますます苦味を帯びる。
「リンドウ、SNSで見てたんじゃないの?」
「見てたけど、紙の本になってるならこれもいいかなって」
「……まぁ、リンドウがいーなら止めないけど」
「いいんだよ。俺が好きってだけだから」
行こう、と再び歩き出した竜胆に手を引かれるまま、紫陽花もそれ以上の追及はせずに大人しく攻略本のコーナーに向かった。
総じて楽しい一日だったな、と竜胆は振り返る。一日の間自分を構って、祝ってくれたルームチャットに「おやすみ」と最後の返信を返し、大きく伸びをする。眠気覚ましに開けていた窓からは、ヒュウヒュウと涼しい風が入り込んでいた。
机を離れ、窓を静かに閉めて、暖かな布団の中に身を横たえる。明かりを消す前に、枕の下から詩集を取り出す。新しい紙の匂いが鼻を擽り、何度も見たフレーズが目の前を通り過ぎた。パラパラと少しだけめくって、静かに閉じて枕の下にしまい直す。—-すぐに読み終えてしまわないように、ゆっくり目を通すことにしよう。そして灯りを消し、心の中で呼びかける。
好きですよモトイさん。大好きです。
あなたは俺のこと、嫌いかもしれないけど。モトイさんにもらった鎖の刺はまだ胸の中に痛いけど。それでも、最後にあなたに傷つけてもらえてよかった。直接触れてもらえたみたいで嬉しかった。
あなたの言葉が好きです。悩んでいた俺を照らして、道を示してくれた。現実が寒くて冷たい時は、風邪をひかないようにそっと傘をさして守ってくれた。あのいくつもの夜のこと、未だに覚えてるんです。
モトイさんは俺のこと嫌いかもしれない。でももう「嫌い」なんて言えませんよね、死んじゃってるんですから。……死んでしまったあなたは、もう新しい言葉を紡がない。だからせめてあなたの言葉、俺が好きだったあなたの言葉を全部、全部俺に下さい。
それじゃ、おやすみなさい。夢の中で逢いましょう、俺のモトイさん。…アナザーさん。
竜胆は静かに目を閉じ、幸せな秋の眠りの中に溺れていった。