にょつ。 5※司くんが先天性にょたで普段は男装してます。
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(司side)
今の自分は、どれ程おかしな顔をしているのだろうか。そう思うのに、全くいつもの顔が出来ない。
(……美しい、とか、可愛らしい、とか、流れる様にお世辞が言えるのは、女が相手だからか…)
頭の中で延々と再生される類の言葉が、どうにも消えない。
そういう言葉で女性を誑かすのか、という情けない嫉妬と、自分へ向けられた言葉の甘さに心臓の鼓動が早くなる単純さで、胸の内は大騒ぎだ。仕方ないだろう、一時は未来の旦那と紹介され、すぐに好きになったのだ。他の女性に恋をしたと言われてフラれたが、それでもずっとこの想いは変わらなかった。避けられるようになって、喧嘩ばかりする様になって、それでも、繋がりが無くなることが怖くて繋ぎ止めるのに必死になって、更に毛嫌いされるようになってしまった。そんな相手が、オレに向かって『可愛らしい』と言ったのだ。
じわぁ、と顔が熱くなって、緩みそうになる顔を必死に顰める。性別を偽って男として育てられ、女性らしくする事なんて王妃教育の時くらいなオレに、類は女性へ向けるようなお世辞を言ってくる。
(社交辞令だと分かっていても、嬉しくて、胸が苦しい…)
吐き出せない想いが胸にどんどん詰め込まれて、これ以上は破裂してしまう。類が好きだ。その想いは消えない。そればかりか、どんどん大きくなって困る。類には、オレ以外に好きな人がいる。それなのに、いつまで経っても類を好きなまま想いを捨てきれずにいる。早く嫌いになりたい。そうすれば、きっと今のこの状況も、友だちとして楽しめたのだろうに。昔のように、仲のいい友人として、類の隣に居られたのに。
類を好きだという想いが邪魔ばかりして、落ち着けない。
「天馬くん、疲れたかい?」
「ぁ、いや、平気だ…」
「そう。それなら、次はあそこの店に行くのはどうかな」
「…ぇ……」
類の問いかけに顔を上げれば、類がふわりと笑う。
指を差された先を見ると、綺麗なお店がそこにある。ショーウィンドウに展示されているのは、女性が着るドレスだ。様々なデザインや色のドレスに、目を丸くさせる。オレに歩調を合わせて歩く類が、繋ぐ手に力を入れた。
慌てて類の手を引くと、ちら、と類がオレを見た。
「ま、待てっ、…オレは……!」
「今度、僕の屋敷で舞踏会を開くから」
「…は……?」
店の前まで来て、類が足を止める。振り返ったその顔が、記憶の中の類の顔と違い、息を飲んだ。とても真剣な顔に、視線が逸らせなくなる。繋ぐ手が熱くて、溶けてしまいそうだ。一歩、距離を詰めた類に、反射的に後退った。
「君に合うドレスを贈らせてほしい。招待状も送るよ。だから、一曲だけ、僕と一緒に踊ってくれないかい?」
「…ぃ、や……、いやいやいや、オレは、皇太子で……!」
「他国から来た御令嬢って事にすればいいよ」
「そんな訳にいくかっ…!」
睨む様に類を見れば、困った様に眉を下げられてしまった。離れようともう一歩下がれば、類が一歩詰めてくる。握られた手に力が入って、手汗がじわりと滲んだ。
学園を卒業するまで、まだ一年以上ある。成人を迎えるまでは女性である事を隠さねばならんのに、ドレスなぞ着て夜会に出られるはずがない。それも、代々国の宰相を勤める神代家で、だ。他国から来た、なんて嘘が最後まで通じるはずがない。
「招かれるなら、皇太子として参加させてもらう!」
「そしたら、君にドレスを贈ることも、ダンスを一緒にする事も出来ないじゃないか」
「する必要は無いだろっ…!」
残念そうな顔をする類に、大きな声が出てしまう。フードが落ちないよう手で掴んで、唇を引き結んだ。
類のしたい事が、全くわからん。成人の儀を終えるまで、オレはこの国の皇太子なのだ。それなのに、何故ドレスを贈られ、類とダンスを一緒に踊らなければならん。そういうことをするのは、“婚約者”に対してだけだ。ただの“友人”に、それも“同性”にすることでは無い。いくらオレが女性だからと言っても、普段は“皇太子”だ。ドレスなど贈られても、着られるはずがない。まして、類とダンスなんて…。
(………もう、婚約者でもなんでもないのに…)
そういう事を、言わないでほしい。類にフラれたあの日から、オレと類を繋ぐものはなくなったのだ。ただ、オレが一方的に想って避けられるだけの、そういう関係になったのだろう。今更、オレが女だったからという理由で、他の令嬢と同じように扱わないでくれ。
期待なんか、させるなっ…。
「必要が無くても、僕がそうしたいから、させてほしい」
「…っ……」
「今日のデートは、僕にとっての御褒美なんだよね? それなら、この一時の間だけは、僕がしたいようにさせておくれよ」
繋ぐ手が引かれ、体がほんの少し前へ傾く。類のすぐ目の前まで体が近付いて、腰に類の手が触れた。どくん、と心臓が一際大きく跳ね上がり、息を飲む。確かに、オレが勝負に負けて、類の希望で今のこの時間がある。だが、そんなハッキリと『デート』と言われるとは思わなかった。フードで髪は隠さねばならんし、今までの事があって上手く会話も出来ていない。普段から男のフリをしていることもあって、他の御令嬢の様な愛らしさも、オレにはない。
それなのに、こんなオレが相手でも、類はこの時間を、『デート』と言ってくれるのか。
(……駄目だ、…期待、してしまう……!)
心臓が煩くて、胸の奥が破裂してしまいそうな程いっぱいいっぱいで、おかしくなりそうだ。緩みそうになる表情を必死に ぎゅっ、と顰めて、フードを深く被る。腰に触れる手の熱も、握られた手の熱も、全て熱い。震える足に必死に力を入れて、詰めていた息を吐き出した。
顔が赤くなっていることが分かりきっていて、類の顔を見られない。俯いたままあっちへこっちへと視線をさ迷わせると、腰に添えられた手がオレの体をそっと押す。
「どうしてもと言うなら、試着だけ、というのはどうかな? 僕が選ぶものを着てくれればいいから。勿論、店の人には見ないよう指示もする」
「………………き、る…だけ、なら…」
「ありがとう」
綺麗な顔で微笑む類の顔を ちら、と見て、胸の奥がきゅぅう、と苦しくなる。オレが頷いただけで、嬉しそうに笑うのは狡い。オレの為に譲歩しようとしてくれるのも、オレの事を考えて気を遣ってくる所も、狡い。オレを大切にしようとしてくれている、と、勝手に勘違いしてしまいそうになる。狡い、狡い、狡い…!
ぎゅぅ、と苦しくなる胸に手を当てると、早鐘を打つ心臓の鼓動が伝わってきた。さり気なくオレの手を引く所作も、無言にならないよう会話を繋げてくれるところも、常に楽しそうに笑ってオレを見守る様に見つめてくる所も、いつもと違う声色も、全部かっこいい。
(……嫌だ…、…オレばかり、また類を好きになる…)
早く諦めたいのに、類の好きな所ばかり増えてしまう。類を好きな気持ちばかり増していく。触れられる熱が、全然引かない。寄り添うようにオレをエスコートする類に、心臓が壊れてしまいそうな程鼓動していて怖い。死んでしまう。このままでは、類が好きだという想いに潰されてしまいそうだ。
カラン、という扉を開ける音に続いて、店員の明るい声が聞こえてくる。そのまま、何やら交渉をした類に使用人と共に試着部屋へ連れて行かれた。『待っていて』という類の言葉に安堵して、心臓を落着けるために何度も深呼吸をする。オレ専属の使用人には、くすくすと楽しそうに笑われてしまった。自分が挙動不審なのは分かっているが、今のこの状況で、冷静でいられるはずもなく。
そうして少し落ち着きを取り戻したところで、類が何着もドレスを持って部屋に入ってきた。飛び上がる程驚いたオレに、当たり前のように『着てみて』と笑う類はとても楽しそうで、何も言えなくなってしまう。
そうして、一着ずつ着ては類に見せ、その度に恥ずかしい程褒められたせいで、途中で耐えきれずに店を飛び出したのだ。
―――
(類side)
「いらっしゃいませ」
「二人なのだけど」
「それでは、奥の席にご案内致します」
「ありがとう」
見慣れた店内と、丁寧な従業員の対応。貴族もたまに来店するこのお店は、この辺りでは一番雰囲気が良い。天馬くんを連れてくるなら、この店と決めていた。ここなら、天馬くんにも悪い印象は与えないだろうからね。
案内された奥の席に座れば、何度か面識のある店員が口元に手を当ててにまりと笑いかけてくる。
「また別の方と御一緒とは、お客様も隅に置けませんね」
「あまりからかわないでほしいな。彼女は僕にとって大切な人なんだ」
「それは失礼致しました。ご注文が決まりましたら、お声がけくださいませ」
この店には良く来ていたので、店員とも気安く話すことが多い。普段から、情報を集める為に御令嬢をこの店に連れて来ていたので、またいつものだと思われたのだろう。けれど、今日はいつもとは違い、相手は本当に大切な人だ。ずっと探し続けてきた、初恋の相手。
「……良く、来るのか…」
「そうだね。この店は雰囲気が良いから、気に入っているんだ」
「…………ほぅ…」
むすぅ、と顔を顰める天馬くんに、首を傾げる。
先程まで、王都で有名なデザイナーの店にいたのだけれど、途中で天馬くんが帰ると言い出したので、引き止めてしまった。お茶だけ、となんとか言いくるめてこの店に来たところだ。突然帰る、なんて言われると思わなくて、少し動揺してしまったけれど、このまま彼女を帰すわけにはいかない。機嫌を損ねたまま帰しては、意味がないからね。
(とは言っても、明らかに不機嫌そうな彼女の気持ちを、どう切り替えせばいいものか…)
ドレスを沢山着せたのが、不服だったのだろうか。僕も楽しくてついつい色々なドレスを持って行ってしまったからね。こんな機会は滅多にないので、夢中になってしまった。
仕方ないよ。ずっと想い続けて来た初恋の相手と、デートに来ているのだから。着飾る天馬くんを僕だけが見られるというのは、とても楽しかった。淡い色合いも、濃い色合いも天馬くんならどれも綺麗だ。ドレスのデザインも様々で、彼女に合うものを、と思うとどれも捨て難い。
まぁ、感想を言う度に困った様な顔をされてしまっていたので、天馬くんはあまり乗り気ではなかったのだろうけれど…。
「…次期宰相様は、噂通り女性との付き合いが多いようで」
「ふふ、こんな風にデートに誘ったのは、君が初めてだけれどね」
「………女誑し…」
じと、とした目で僕を見る天馬くんに、苦笑してしまう。
多くの女性と交流をしてきたのは、“天馬くん”にもう一度会うためだ。なんて、言えるはずがない。まさかずっと恋焦がれてきた初恋の相手が天馬くんでだった、なんて誰も信じてはくれないだろうからね。真面目な彼女が軽蔑するのも分かる。だからこそ、今日は天馬くんの中の僕のイメージを変える良い機会なんだ。
本当なら、最初から最後まで楽しい雰囲気で終わらせて、アプローチをかけたかったのだけどね。
「酷いなぁ。僕は本気だよ」
「…どうだか。オレをからかって楽しんでいるだろ」
「からかってはいないよ。今日一日君の可愛らしい姿が見られて、僕は幸せだからね」
「………………………悪趣味な」
苦虫を噛み潰したような顔で僕を見る天馬くんは、用意された紅茶のカップに口をつけた。何故か、アプローチをかければかける程彼女に嫌われていく気がする。何が気に触るのだろうか。ドレスを贈りたいと思ったのも、僕からデートに誘ったのも、天馬くんだけだ。彼女への賛辞も、僕の発言も全て本音である。今日一日天馬くんと一緒に居られて、幸せだった。あの日見た彼女と同じ、綺麗な服を纏う天馬くんはとても可愛らしい。そんな彼女と並んで歩けるだけで、僕はとても満ち足りた気分だ。
(………また、誘いたい、なんて言ったら…頷いてくれるだろうか…)
次は観劇がいいかもしれない。特別席を予約して二人で並んで観れば、少しは彼女の警戒心も薄れてくれるかもしれない。それに、天馬くんなら、きっと楽しんでくれる。
くす、とつい笑うと、向かい側に座る天馬くんの眉が釣り上がった。不機嫌そうな彼女が、メニューを片手に僕をじとりと睨む様な瞳で見る。
「……随分と御機嫌なようで」
「あぁ、すまないね。気を悪くさせてしまったかい?」
「……………別に」
「…ここはケーキがとても美味しいんだ。天馬くんは、甘い物も好きでしょ?」
これがオススメだよ、とメニューを指差せば、天馬くんが不服そうな顔をする。じっ、とメニューを睨むように見る天馬くんに、あれ、と口角が引き攣る。何かまた、気に触るようなことを言ってしまっただろうか。
黙って天馬くんを見つめていれば、彼女はメニューから視線を上げ、僕を見る。緊張から、ごく、と喉が音を鳴らした。
「………何故、オレが甘い物が好きだと思ったんだ」
「ぇ…、それは…、子どもの頃、僕とよく、甘い物を食べていたから…?」
「……………………………」
ふぅん、と小さく呟いた天馬くんは、また視線をメニューに戻してしまった。
一体、今のはなんだったのだろうか。天馬くんが甘い物が嫌いだなんて、話は聞いたことがない。幼い頃に彼女とお茶会をしていた時も、お菓子を笑顔で食べていたと思う。それに、先程街を歩いていた時にも、お菓子に反応していた。だから、自然と甘い物が好きだと思ったのだけど…。
「苦手だったら、無理に頼まなくても…」
「…いや、そういうわけではない」
「………そう…」
素っ気ない返事ではあるけれど、怒っている様子は無い。店員さんを呼べば、彼女は僕がオススメしたケーキを注文していた。どうやら、苦手というわけではなさそうだ。予想が外れていなくてよかった。
紅茶をゆっくりと飲む天馬くんを ちら、と見て、視線を逸らす。何となく気まずくなってしまったように感じて、話題を振るのを躊躇ってしまう。そんな僕に構わず、彼女は店内の方へ顔を向けた。その横顔を盗み見ると、先程よりもどこか穏やかな雰囲気に見えた。
どことなく嬉しそうな、そんな天馬くんの様子に、首を傾げる。
(……そんなに、甘い物が好きだったのかな…?)
女性の心は、僕にはまだ難しいようだ。それが好きな人となると一層難問で、掴みづらい。
少し機嫌の治った天馬くんに安堵して、僕はまた彼女に話を振った。
―――
(司side)
「神代っ!!」
「おや、おはよう、天馬くん」
「おはよう、ではないっ…!! お前、あれは一体なんだっ…!」
「…あぁ、もしかして、僕からの贈り物が届いたのかい?」
にこにこと笑顔の類に、震える唇をへの字に曲げる。わなわなと震える手を握り締めると、類が席を立った。「場所を移そうか」と、そう言った類がオレの手を掴む。そのまま教室の外へと連れられ、使われていない空き教室に二人で入る。扉が閉まると、類はまたにこにこと笑顔でオレを見た。
「どうだったかな?」
「どうもこうもないっ…! 何故オレ宛にドレスなんか送ってきたんだっ!!」
「言ったじゃないか。今度それを着て僕とダンスを踊ってほしい、と」
「着れるかっ!!」
大きな声でそう返すも、類は変わらずにこにこと笑顔のままだ。
昨夜、オレ宛に荷物が届いた。中身は有名なデザイナーが仕立てたオーダーメイドの夜会用のドレスで、何度自分の目を疑った事か。御丁寧に、見慣れた字で書かれたメッセージカード付きで。しかも月を思わせる綺麗な黄色を基調としたものだ。ドレスと一緒に入っていたネックレスや髪飾りといった装飾品も、誰かさんの髪色に良く似た藤色の物ばかりで、頭を抱えた。
似合うとか、似合わないとか以前に、こんなものを着て夜会なんかに出たら、すぐに周りに噂されてしまう。婚約者でもなんでもないのに、類の色を纏うなんて出来るはずがない。
(これをオレが全く嫌だと思えないどころか、逆に嬉しいとさえ思ってしまっているのも余計に腹立たしいっ…!)
御満悦そうににこにこと笑顔の類を睨むように見て、唇を引き結ぶ。怒ったふりでもしていなければ、昨夜からずっと引かない顔の熱が類にバレてしまうかもしれん。だが、仕方ないだろう。何年この男を密かに想い続けてきたことか。殆ど刷り込みに近い一目惚れではあったが、それでも、フラれたあの日からもこの想いが揺らいだことは無いのだ。未練がましくも、嫌われていようと関わり合いたくて遠回しに追いかけてきて、そんな相手から贈り物がきたのだ。それも、『自分の婚約者です』と言わんばかりに類の色で揃えられた贈り物を。
これを無感情に受け取れるはずがない。
「……どうしても、駄目かい…?」
「ぅ、ぐ……む、無理なものは無理だっ…!」
「無理強いはしないよ。それに、君がもし来てくれるなら、皇太子として参加してくれてもいい。だから、せめて一曲だけでいいから、僕と踊ってほしいな」
「…そ、そんな事、を、…言われても……」
子犬のような顔でオレを見る類に、言葉が詰まる。そんな顔でオレを見るな。どんな頼みにも、頷いてしまいたくなる。幼い頃の類を思わせる、こちらの顔色を伺う様な仕草と表情に、胸の奥がきゅぅ、と音を鳴らす。
弁明するわけではないが、オレはなにも着たくないわけではないんだ。絶対に類には言えないが、戸惑いはしても、嫌なわけではない。むしろ、贈られたことに対しては嬉しかったのも本音である。ただ、オレには立場というものがあるんだ。成人となるまでは、“皇太子”として生きるという立場が。
それに、オレの想いに関わらず、類との婚約関係はもう何年も前に解消されている。お互いに婚約者がいないとはいえ、こういう誤解を招く様な事は、あまり良くないだろう。
(この前 社交辞令だったとしても、類にダンスの申込みを受けたのが嬉し過ぎて、今まで以上にダンスのレッスンに力が入ってる、なんて事も、類にだけは絶対言えんな…)
類の事に関しては極端に単純な自分が恨めしい。
体裁や類の意思を無視していいなら、両手を上げて喜び贈り物も受け取っただろう。類の言葉を真に受けて、二つ返事で頷いただろう。だが、そういうわけにはいかないのだ。
それに、類の言葉をどこまで信じていいのかも、今のオレには全く分からん。
「君が踊ってくれるなら、広い別室を用意するよ。他の人に見られないように配慮もする」
「…ぃや、…だから……」
「ファーストダンスの相手が決まってるなら諦める。でも、僕は君以外と踊るつもりはないんだ」
「っ、…ち、ちち近い近い近いっ……!!」
ぎゅぅ、と類に手を握り締められて、心臓が破裂しそうな程大きく鼓動する。ずい、と顔を近付ける類に叫び出してしまいそうになって、慌てて強く目を瞑った。じわぁ、と握られた手が熱くて、足が震える。今にも、口から心臓が飛び出してしまいそうで、必死に逃げる為の言葉を探した。
「駄目かい?」と、もう一度駄目押しのように問い掛けられた言葉に、息を飲む。請われるままに頷いてしまいたいという思いと、絶対にそれだけはしてはいけないという理性が、頭の奥でぶつかっている。きゅ、と床に靴が摩れる音がして、類の気配が一歩近付いて来た気がした。変な声が出そうになるのを、必死に口を引き結んで押し込む。
誰か助けてほしい、と強く願った所で、タイミング良く授業開始のチャイムが空き教室に響いた。
「じゅ、授業っ…!! 授業に遅れてしまうっ!!」
「…え、…」
「この話は終わりだっ! 早く教室にもどるぞ、類っ…!!」
「ぇ、ちょっと、…天馬くんっ…?!」
バッ、と思いっきり万歳をするように類の手を振り解いて、すぐに後ろへ下がって距離をとる。呆気とする類に早口でそう言い、逃げる様に背を向けた。空き教室を飛び出して、誰もいなくなった廊下を全速力で走る。顔がこれ以上無いほど熱くて、胸が苦しい。足がもつれそうになるのをなんとか耐えて、教室に駆け込んだ。とても注目されてしまったが、“他人のいる空間”に安堵してしまう。走って飛び込んできた事で、顔が赤いことも特に指摘はされなかった。
授業は全然頭に入らなかったが、最後まで真面目に授業を受ける皇太子を演じて見せた。
その後、教室に戻ってきてオレに話しかけようとしてくる類をその日一日は全力で避け続けた。