番2※前置き
前回までと注意文は同じです。
○前提として、彰人さんと司くん、冬弥さんと司くんの関係は先輩後輩のそれ以上も以下も無いです。
一方通行的なものもないです。この話は類司前提で書いてます。
↑を念頭に置き、今回のお話で彰人さんが司くんに触れますが、一切やましいものが無いです。(のつもりです)それでも苦手な人はご注意ください。
ーーー
(司side)
一般的な夫婦とは、どう言ったものだろうか。そう思わない日は無いと思う。それ程までにオレは、類とそういう関係になりたかった。
「………で、なんでオレなんすか…」
「他に相談出来る相手が思いつかなかったんだ…」
「はぁ…、そんな悩まなくても、もうセンパイらは番なんですから、不安になる事もないじゃないっすか」
呆れたように溜息を吐く彰人に、小さく唸る。
映画の誘いが出来ないまま、二日が経った。このままでは、せっかくチケットを貰ったのに無駄にしてしまう。そればかりか、類と気まづくなってしまって顔も合わせられん。
注文したパンケーキが二つテーブルの上に置かれる。それを見る彰人の目が一瞬輝いたのを ちら、と盗み見て、オレはフォークに手を伸ばした。
「彰人の目から見ても、オレ達は上手くやっているように見えるのか…?」
「…………は…? 違うんすか? 高校の頃あんなにべったり一緒に居たじゃないすか」
「……それは、ワンダーランズ×ショウタイムとして、なんだかんだ一緒に居たから…」
パンケーキを一口食べる彰人が、不思議そうに顔を顰めて首を傾げる。冬弥も言っていたが、一緒に居たのは理由があるからだ。オレが片想いをしていたというのもあるが、傍に居るための正当な理由があった。仲も良かったとは思うが、それも友人として、だ。夫婦となると、全く違うものになるのだろう。現に、類と夫婦になってから、何もかも上手くいかなくなってしまった。
もそもそとパンケーキを一口口に入れると、オレの言葉を聞いた彰人が眉間に皺を寄せて顔を顰める。
「いや、そんな距離感じゃなかったっすよ」
「む…?」
「あんだけマーキングされてれば、誰も近寄れないですし」
「…………マーキング…?」
なんの話だ。
マーキングと言えば、αやΩが自分のモノだと周りを牽制する時にするものだろう。相手に自分の匂いを擦り付ける、あれだ。いくら傍にいたからと言って、そう簡単に匂いがつくものでは無い。無意識でするなら、尚のこと、だ。
「…何かの間違いでは……?」
「いや、かなり臭かったのでさすがに分かりますよ」
「ぅ、…そんなにか…?!」
「かなり有名な話だったし、高校の奴らは皆 センパイらが番になった時も『やっとか』としか思って無かったと思います」
さらっとそう返す彰人に、頭を抱える。
気を付けていたつもりだったが、そんなにも類に自分の匂いを纏わせてしまっていたのか。Ωの匂いが苦手な類には、申し訳無い事をしてしまった。それでも何も言わない類は、本当に優しい奴ではないか。
今更知った過去の過ちに、一人唸っていれば、彰人が盛大に溜息を吐いた。
「つぅか、番になったって事はやる事やってんすよね? アンタらが番になってからもうかなり経ちますし、単に性欲が少し落ち着いたってだけなんじゃないっすか?」
「ぉ、おまっ…、こんな店の中でなんて事を言うんだっ…!?」
「司センパイの方がうるせぇって……、どうせ誰も聞いてませんし、さっさと終わらせねぇとオレが面倒なんすよ」
きょろきょろと辺りを見回す彰人に、口を噤む。確かに、静かではあるがカフェの客は一緒に来ている人達と話をしていてこちらを気にはしていないだろう。だが、悩んでいる事をこうもあっさり切り出されてしまうと、戸惑うものだ。いや、今日彰人に相談したかった本題なので、有難いが…。
椅子に座り直して、こほん、と一つ咳払いをする。グラスの水を一気に飲み干して、ゆっくりと深呼吸をした。
「…………番、とは…やはり、……そういう事をするもの、なのか…?」
「は? いや、番になるには、発情期のΩの項を噛むんすから、自然と……」
「………」
彰人の言葉に、きゅ、と唇を引き結ぶ。
やはり、オレの考えは間違いではないようだ。夫婦とは…番とは、“そういうもの”なのだろう。
「…………………まさか、一度も無い、なんてこと…」
「……そればかりか、…き、キスも、した事がない…」
「はぁ? いや、さすがにセンパイも定期的に発情期は来るんすよね?」
「………それは来るが、薬で抑えている…類も、出掛けてしまうから、…一人で、どうにか…」
もごもごと打ち明ければ、彰人の表情が一層変な顔に変わっていく。さすがに、あけすけに話しすぎただろうか。恥ずかしくて、顔がとても熱い。誤魔化すようにパンケーキを大きく切って口に押し込むと、彰人がもう一度深く溜息を吐いた。
「出掛けるって、そんな都合よく仕事が入るんすか…?」そう小さな声で問い掛けてくる彰人に、口の中のパンケーキを飲み込んでから首を横へ振った。
「いや、オレの発情期に合わせてホテルに泊まっているんだ。万が一手を出さないように、と」
「それでよく番になりましたね。逆に尊敬しますよ」
「言うな。こっちは恥を凌いで相談しているのだぞ。どうしたら類をその気にさせられるか、と…」
「別れればいいんじゃないっすか?」
「それが嫌だから聞いているのだろう?!」
真面目に考えてくれ。面倒くさそうにする彰人には申し訳ないが、オレにはとても深刻な問題なのだ。少しでも、高校の頃のように類と楽しく過ごしていたい。こんな事で悩んで、余計にぎくしゃくするのは嫌なんだ。
縋るように彰人を見れば、諦めたように溜息を吐いて頭を手でかく。ちょいちょい、と手招きをされ、疑うこと無く彰人の方へ顔を寄せた。
「ぅおっ……?!」
がしっ、と首根っこを掴まれ、思いっきり引き寄せられた。驚いて変な声が出たオレに構わず、項にその手が触れる。ぞわりと背が粟立ち息を飲むと、類の噛み跡に彰人の額が押し付けられた。
「ま、待てっ! 彰人っ…さすがにそこはっ…!」
「少しじっとしててください、もう終わるんで」
「っ………」
うりうりと噛み跡の上に額が擦り付けられ、ぞわぞわとした寒気が治まらない。気持ち悪さにも似たその感覚に必死に耐えれば、漸く彰人が離れていった。項に残る違和感に両手でそこを押さえれば、彰人がひらひらと手を振りながら溜息を吐いた。
「これなら、あの人も無視出来ないと思いますよ」
「っ〜〜…、だが、これはオレが落ち着かんっ…」
「番以外の匂いは分からないのに、マーキングされたのは分かるんすか?」
「…普段は分からんが、ここは、さすがに違和感があるんだ」
ごしごしと手で擦るが、ぞわぞわとした気持ち悪さが消えてくれない。類との繋がりが上から汚されているかの様な気持ち悪さがある。ただでさえΩにとっての項は特別な場所だ。番になるには、ここを噛まれる必要がある。αを誘うフェロモンが一番強く出るのもここだと言うし、そこを番以外に触れられるのは気持ち悪くて堪らない。
違和感が全く拭えず無意識に顔を顰めれば、彰人が頬杖をついてまじまじとこちらを見てくる。
「……なんつーか、本当に番なんすね」
「……………でなければなんだと言うんだ…」
「いや、それでなんで放っておかれるのか分からねぇな、と」
「…………」
そんなもの、オレだって知りたい。
あの日からずっと、身体は番である類しか受け付けんのに、心ばかり離れていく。それをどうにかしたいのに、その術が全くわからんのだ。分からないから、少しでも可能性があるならと周りに頼っているんだ。
「………はぁ、…オレも彰人や類と同じαならな…」
「拗らせ過ぎだろ…」
呆れた様にそう呟いた彰人に宥められながら、その後も相談を聞いてもらった。
―――
(類side)
「……」
「神代さん、どうかしましたか?」
「あぁ、いや…なんでもないですよ」
不思議そうな顔をする同じ劇団員の女性に、短く返事を返す。ちら、ともう一度視線を戻すと、見慣れた金色の髪が視界に映った。
「………今日は、彼なんだ…」
「? 何か言いましたか?」
「なにも。早く買い出しを済ませてしまいましょうか」
「……そうですね」
にこ、と笑顔を返してくれる彼女に僕も笑顔を返し、前を向く。
司くんは今日、稽古は休みだったはずだ。そんな彼が、大通りの喫茶店に見慣れた後輩と一緒にいる。きっと、普段なら気付かなかっただろうね。たまたま稽古中に備品が壊れてしまい、ついでにと色々買い出しを頼まれてしまった。何かあった時の為にと同じ劇団員の彼女が付き添いでついてきてくれているけれど、居てくれて良かったかもしれない。もし彼女がいなければ、買い出し中だということも忘れてあの喫茶店に入っていたかもしれない。何の話をしているかは知らないけれど、楽しそうに話す司くんの腕を掴んで、店の外へ連れ出していただろう。
二日前に青柳くんに会っていたというのに、今日の相手は東雲くんだなんて、司くんは本当にαの友人が多いね。だからこそ、司くんを取られないよう 高校の頃はあんなにも常に傍にいたのだ。番になれば安心出来るはずなのに、こんなにも不安で堪らないのは、彼の心が僕に向いていないからだろう。
(…僕と一緒の時は不安そうにそわそわとしているのに、何故他人が相手の時はあんなにも楽しそうなのだろうね……)
はぁ、と溜息を一つ吐いて、鞄を肩にかけ直す。考えても仕方ない。いくらαと言えど、彼はもう僕以外のαの匂いは分からないんだ。先輩として、元後輩の人生相談に乗っているのかもしれないしね。
そう自分に言い聞かせて、先程見た光景を頭の奥に押し込む。
(……こんなんじゃ、…今日も顔は合わせられないな…)
何度目かの溜息がこぼれて、隣を歩く彼女に変な顔をされてしまった。
―――
『正直、Ωの匂いが昔から苦手だったんだ』
隣でその話を聞く寧々は、壁に背中をつけてスマホの画面を見ていた。『それで?』と短く返ってきた返事は、ほんの少しいつもより冷たく聞こえてくる。多分、寧々は今、僕と同じ相手を思い浮かべているのだと思う。
そんな反応を返す程、寧々が彼と仲良くなったのだと思うと、幼馴染として嬉しくなる。
『出来れば、自分から関わりたいなんて思えない程には、あのまとわりつくような甘ったるい匂いが苦手でね』
『知ってる。類、小さい時からそう言って嫌そうな顔してたし』
『けれど、司くんの匂いは不思議な程心地良いんだ』
『…………』
僕の言葉に、ピリッとした空気が和らいでいく。安堵したようにスマホを閉じた寧々が顔を上げて、僕の方を見た。アメジストのような瞳に映る僕は、自分でもあまり見た事のない顔をしている。
放課後で人の少ない廊下は、教室の中より静かで落ち着く。もう少ししたらここを通るだろう、僕らの座長を待ちながら、一つひとつを確認する様に寧々に話す。自分の心境の変化を、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
『きっと、彼とは相性が良いのかもしれない。司くんの匂いはすぐに分かるし、離れ難いとすら思ってしまうからね』
『…類、司がΩだって聞いて、すごい驚いてたよね』
『それはそうだよ。今までのΩの匂いと違って、彼の匂いは嫌だと思わなかったんだから。彼の事はβかもしれない、なんて思っていたくらいには、嫌悪感もなかったからね』
『それで司がわたしたちにΩだって教えてくれた時、変な顔してたんだ』
納得したように口元を弛めて小さく笑う寧々に、僕も気恥ずかしくて眉尻を下げた。
正直に言うと、司くん自身から『オレはΩだ!』と宣言された時、最初は信じられなかった。今まで感じていた嫌悪感も無く、むしろ心地良いとさえ思うその匂いが、Ωのフェロモンだとは思えなかったからだ。珍しい香水か、洗剤の匂いやシャンプーの匂いなのかと思っていた。それが、ずっと苦手意識を持っていたΩのフェロモンだとは、すぐには信じられなかった。
けれど、司くんがそう打ち明けてくれてからは、ふとした時に彼がΩだと感じるようになった。傍にいる時の心地良さや、時折僕へ向けられるその瞳の熱が、とても好きだった。誰にも取られたくないと思う程。彼は僕のモノだと、無意識に彼を縛ろうとしてしまう。それは多分、αの本能のようなものなのだろう。
『一緒に夢を追うと決めたのに、こんな気持ちを持つのは、気持ち悪いかな…?』
『別に、それはいいんじゃない? 司も、類の事特別だと思ってるかもしれないし』
『………そうだと、嬉しいのだけどね』
寧々の言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
顔が緩みそうになるのを手で隠し、ゆっくりと息を吸う。多少なりとも、司くんに好かれている自覚はある。友情かどうかは分からないけれど、嫌われてはいないのだろう。だから、ここから少しづつ彼と距離を縮めていければいい。
司くんの隣に、これからもずっといる為に。
―――
「お疲れ様でした」
他の人達に挨拶をして、荷物を持つ。扉を開けば、いつも話しかけてくれる劇団員の彼女が僕の隣に駆け寄ってきた。腕が掴まれて、足が止まる。
振り返れば、にこりと綺麗に微笑まれた。
「途中まで御一緒しませんか?」
「…えぇ」
断るのも面倒で、頷いた。
にこにこと隣で次々に話しかけてくる彼女は、歩調を緩めない僕に必死についてきてくれる。女性に対して意地悪かもしれないけれど、早く分かれ道まで行きたかった。司くんと番になってから、僕には他のΩの匂いは分からない。けれど、司くん以外に興味は無いので、まとわりつかれるのは正直迷惑だ。仕事に支障をきたすのが嫌で、邪険にも出来ないけれど。
(……僕に番がいると、彼女も知っているはずなのだけどね…)
何故こんな風に付き纏われるのだろうか。
はぁ、と一つ息を吐いて、劇団の裏口を開ける。と、「類!」と急に声を掛けられた。驚いて顔を上げると、少し先の方で司くんが手を振って僕の名前を呼んでいる。隣にいた女性が、「もしかして、番の方ですか?」と気まずそうに僕から手を離した。気恥しそうにそわそわとしている司くんは、その場から動かない。そんな彼の方へ、早足に駆け寄った。
「何故、司くんがここにいるんだい…?」
「…た、たまには類を迎えに行ってみようかと、思ってだな…!」
「………そう…」
そわそわとしたまま視線を左右へ逸らす司くんが、ぎこちなく笑う。身軽な装いは、昼間見た時とは少し違った。どうやら、一度家に帰って着替えたようだ。見慣れない服を着ている司くんの姿を、下から上にまじまじと見つめてしまう。なんと返していいか分からず、声が上手く出てこない。
そんな僕に、彼がへらりと笑う。
「類が良ければ、このまま少し出掛けないか? 行きたいところ、が……」
彼の目の前まで行った所で、嫌な匂いが鼻先を掠めた。ぞわりと背が粟立って、反射的に彼の腕を掴む。驚く司くんの体を思いっきり引き寄せて、真新しい服の襟を掴んだ。
「類っ…?!」
彼の肩口に顔を寄せれば、嫌な匂いが更に強くなる。まとわりつくようなその匂いに顔を顰めて、白い項に額を押し付けた。匂いを上塗りする様に強く額を擦り付ければ、司くんの腕が僕の背に回される。ぎゅぅ、としがみつく彼の足が震えだし、声を押し殺す様な音が司くんの口から零れた。甘える様な声音で「るぃ」と名を呼ばれて、胸の奥が熱くなる。
今にも崩れ落ちてしまいそうな彼を抱き上げて、そのまま目の前の白い項に舌を這わせた。「ひぅ…」と聞いた事のない声が彼の口から零れ、その細い体が びく、と跳ね上がる。
「か、神代さん…?」
不意に名前を呼ばれて、ハッ、と我に返った。振り返れば、先程まで一緒にいた女性がそこにいる。ぐったりとしたままの司くんを隠す様に腕の中に抱え込んで、「すまないけど、今日はここで」と一言そう言って背を向けた。
両腕で真っ赤な顔を覆う司くんを抱え直して、歩き慣れた道を駆け出した。急いで帰らなければ、という思いが頭の中を埋めている。他人の匂いがまだ微かに残っているのが気に入らない。自分のモノが取られたような、そんな感覚が拭えない。早く塗り替えなければ、と逸る気持ちを抑えきれない。
(……こんな匂いを纏って、…僕への嫌がらせのつもりなのかな…)
自分の番が段々と信じられなくなっていく己の心の狭さが、嫌になる。
―――
(司side)
「る、類っ…、おろしてくれっ…!」
「我慢して。今は、抑えるので精一杯なんだ」
「……だが、…これは……」
視界に、どうしたって類の首元が映る。ふわりと甘い匂いがして、たったそれだけで胸の奥が苦しい程満たされていく。こんなにも近い距離に類がいるのは、いつ以来だろうか。ずっと嫌悪感で落ち着かなかった項が、今度は類の触れた感触がはっきりと残っているせいで余計に落ち着かない。嫌悪感ではなく、自分のαが触れてくれ事に対して、体が意思に関係なく反応しているような感覚だ。まるで、類の匂いを纏っているかのようなその安心感に、頬が緩みそうになる。
パッ、と口元を手で覆い隠し、赤くなっているだろう頬を軽く抓った。自分がなんとも分かりやすくて、気恥しい。
(…彰人の言う通りだったな……、少しだけ、類と近付いた気がする…)
あの嫌悪感を耐えた御褒美というものだろう。面倒くさそうにしていても、彰人はいつも頼りになる奴だ。久しぶりに類の近くにいるという気恥しさと嬉しい気持ちを誤魔化すように、顰め面の彰人を思い浮かべて、うん うんと一人頷く。
本当は、類を誘って映画に行くつもりだった。その為に、家を出る直前に風呂へ入り、自分の匂いがついていない新しい服を着てきたのだ。選んでくれたのは彰人だが、中々に気に入っている。これならば、近くで映画を見ていても少しの間は匂いも気にならないだろうと、そう思って新しい服にした。だが、類と出掛けられなくても、久しぶりに類に触れられた事で充分に満足出来てしまった。
衣類に付いた匂いよりもはっきりとしてくる類の甘い匂いに、口元が緩んでしまう。
「…鍵を開けるから、落ちないよう気を付けてね」
「ぇ、あ、あぁ…!」
いつの間にか家の前まで来ていたようだ。ポケットから鍵を出して差し込む類の首に、慌ててしがみついく。心臓の鼓動が煩くて、無意識に息をとめた。伝わる熱も、肌に触れる髪の擽ったさも、耳を掠める吐息も、全てが特別なものに感じる。叫び出したい衝動を何とか抑え込んでいれば、家の扉が開いた。類が中に踏み込んで、すぐに鍵がかけられる。靴を乱雑に脱いだ類はオレを抱え直すと、オレの靴を引っ張るように脱がせて玄関に放り投げた。片付けが苦手な奴ではあるが、ここまで乱雑に何かをしているのは初めて見た。
どこか怒っているかのような仕草に呆気としていれば、そのままリビングまで運ばれる。
「ぉわっ……?!」
どさっ、とソファーの上に落とすように下ろされ、変な声が出てしまった。
ソファーの背もたれに正面から体を預ける形で乗せられ、オレのすぐ横からソファーの背もたれに類の手がつく。ギッ、とソファーが軽く軋んで、オレの足のすぐ横へ類が膝を着いた。項に熱い息がかかって、ビクッ、と肩が跳ね上がる。
「る、類っ、待ってくれ…! 今は……、ひぁっ…」
「…………ここ、触らせたの…?」
「…ぁ、ぃゃ……、その…」
「こんな匂いをつけて、僕が放っておくと思ったの?」
項に、うりうりと類が顔を擦り付けてくる。額が触れたかと思えば、鼻先を押し付けられ思わず息を飲む。ぶわりと体が一気に熱を持つのが分かって、慌てて項を手で隠そうとした。が、その手が掴まれて、背中に押さえ込むように固定されてしまった。ぱたぱたと足でソファーを蹴れば、項の噛み跡の上を類が悪戯に甘噛みしてくる。
びりっ、とした電気が背を駆け上がり、身体の奥から熱が上がるような未知の感覚に、強く目を瞑った。
「ねぇ、普通に一緒にいるだけでは、ココに匂いがつくことはないよね…? 一体、どういう事?」
「……る、ぃ…、怒っているのか…?」
「怒るよ。ただでさえ普段から気に入らない匂いに邪魔をされているのに、他人のフェロモンの匂いが君からするなんて耐え難いよっ…」
「っ……、ぁ、…」
いつもより低い類の声音に、背が一瞬で冷たくなっていく。
カタ、カタ、と体が震えて、段々と力が抜けていくのが分かった。類の言葉が、頭の中で何度も反響する。
(……気に入らない、匂い…)
直接的に言い切られたその言葉に、胸が切り裂かれたかのように痛み出す。
心のどこかで、まだ信じきってはいなかったのだろう。Ωの匂いが苦手なのだと、類から直接言われた事はない。ならば、オレの匂いに対しても、実は気にしていないのかもしれないと、心のどこかで期待していたのかもしれない。
それが今、ハッキリと類から言葉にされてしまった。オレの匂いが気に入らないと、言い切られてしまった。
それだけではない。
(…………よく考えれば、…分かった事ではないか…)
自分の番から他のαの匂いがして、気分が良いわけが無い。オレだって、類から他のΩの人の匂いがしたら、嫌な気持ちになる。まして、衣服についた匂いとかではなく“項”から匂いがするなら尚更気分は悪いだろう。Ωの項は、言わば番同士が契約を結ぶ為の大切な場所だ。オレが彰人に触れられて嫌悪感を抱く程大切な場所であるように、番である類にとっても、ここを他人に触れられるのは許し難い部分のはずだ。
そこに触れさせてしまったのだ。類が怒る気持ちも、分かる。オレが、類を怒らせたんだ。
「……す、ま……、ご、めん、なさぃ…」
類の顔が見られなくて、目の前のソファーに顔を押し付けた。じわりと布地が濡れていくが、今顔を上げたら、余計に情けない顔を類に晒すことになる。それだけは、絶対に嫌だった。
力の抜けた腕を掴んでいた類の手が、そっと離される。そのまま震える手で項を覆うと、類の気配が少し離れていく。ソファーが揺れて、類がソファーから離れたのが感覚で伝わってきた。
何も返事が返ってこないのが、余計に怖い。類をここまで怒らせることが滅多にないから、どうしていいか分からない。
数十秒程シン、と静まり返っていた室内に、類が離れる足音が落ちる。ビクッ、と体を跳ねさせたオレに、類が口を開いた。
「………………お風呂、行ってくる」
「…………」
「……夕食は、要らないから…」
小さな声でそう言われ、唇を噛んだ。離れていく気配に、一層涙が滲んで溢れてくる。類を怒らせたのはオレなのに、泣くなんて情けない。もっとしっかり謝りたいのに、声が出ない。体にはまだ、類の熱が残っている。それが余計に虚しくて、どうしようもなく寂しい。
頭を撫でて慰めてはくれないのか。オレが大切だから怒ったのだと、そう言ってくれないのか。そんな都合のいい事があるはずないと分かっているのに、どうしたって期待してしまう自分がいる。
(こんな事なら…、類と、番にならない方が、良かった…)
番にならなければ、“愛されるかもしれない”と期待しなくて済んだのに。オレだけが類を苦しめるこの状況も、なかったかもしれない。あの日、類に『噛んでほしい』と強請らなければ、今でも以前のように類と、楽しく一緒に居られたかもしれないのに。
「…………好きに、ならなければ良かったっ…」
嗚咽混じりに溢れた後悔は、今更どうすることも出来ない。こんなに苦しくとも、類が好きだという想いは消えてくれなかった。
―――
「本当に、貰っちゃっていいの…?」
「あぁ、寧々と えむで、使ってくれると助かる」
翌日、休みだと言う えむと寧々が態々オレの劇団まで来てくれた。メッセージで渡したいものがあると伝えたら、取りに行くと言ってくれたからだ。練習で抜け出せなかったので正直助かるが、足を運ばせてしまったのは少し申し訳ない。
冬弥から貰った映画のチケットは、来週までの期日となっている。類を誘う事は難しそうなので、えむ達に譲る事にしたのだ。行動派のえむなら、オレから貰ってすぐに使ってくれそうだからな。そんな えむの頼みを断れない寧々にも期待して。
えむにチケットの入った封筒を渡すと、その隣に居た寧々が顔を顰めた。
「………司、顔色悪いけど、ちゃんと寝てるの…?」
「…昨夜は少し、寝付きが悪くてな……」
「そういう時は、類に甘えなよ。きっと、夜通し面倒見てくれると思うから」
「………………そうだな」
寧々の言葉に、無理やり笑顔を貼り付けて頷いて見せた。これ以上、心配をかけたくはない。
普通の番同士なら、きっとその選択を取るのだろう。夫婦は共に支え合うものだ。体調が悪い時や精神的に不安定な時は、一番の支えになると思う。
だが、それがオレ達には難しい。
「また今度、二人で遊びに来てくれ。類も喜ぶからな!」
「……司くん、本当に大丈夫?」
「大丈夫だ! すまないが、そろそろ休憩時間が終わるので、ここで失礼させてもらう」
「…うん。寧々ちゃんと映画、楽しんでくるね!」
まだ少し心配そうな顔をするえむが、オレに手を振ってくれる。その隣で怪訝な顔をする寧々は、まだ何か言いたそうだ。へらりともう一度笑って返して、逃げるようにその場を離れた。
大学を卒業した後も仲のいい二人が、少し羨ましい。高校の時は、オレも二人のようにずっと類と笑っていられると信じていたのだがな。
(……どこから、間違えたのだろうか…)
そんな事を考え始めた思考が、“産まれから間違えたのかもしれない”という結論に至りかけて、慌てて考えるのをやめた。