番 3司くんと気まづいまま、一ヶ月が経った。
「……おはよう、類」
「…………おはよう」
「…すまないが、今日も朝から稽古なんだ」
ガタッ、と椅子から立ち上がり、司くんがさっさと荷物を持って玄関に向かう。その背が見えなくなるまで目で見送って、深く溜息を吐いた。
一ヶ月前に司くんと喧嘩した。と言うよりも、一方的に僕が怒りをぶつけてしまってから、ずっと彼に避けられている。以前から会話は少なったけれど、あの日以来更に減ってしまった。自業自得なので、仕方のないことだけれど。
(……今夜も、外で時間でも潰そうかな…)
ゆっくりと息を吐いて、彼が用意してくれた朝ご飯に手を伸ばした。
―――
「奥様とはまだ仲直り出来てないんですか?」
「……………」
「私は、お兄さんと一緒に呑めて嬉しいですけどね」
「………君もモノ好きだね」
司くんに避けられるようになってから、自然と足が向くようになった近所のバーに、彼女は殆ど毎日いた。僕を見付けるとすぐに隣に座り、ひたすらに話しかけてくる。適当に相槌を返すだけの僕の何が気に入ったのか、彼女はずっと楽しそうだった。周りがうるさいと、不思議と司くんの事で悩む暇がなくなって、時間はあっという間に過ぎていく。それがなんだか有難くて、気付けば仕事帰りにこの店に寄ることが増えた。
(僕が帰らない方が彼もあの家で落ち着けるだろうし、この方が、お互いにとって良い)
いつも頼むお酒をゆっくり飲みながら、スマホの画面に映る時間を何度も確認する。
司くんが寝るのは、大体二十二時頃だ。仕事の後は色々やる事があるのか最近は随分と遅くまで起きているようだけれど…。彼が眠る頃に合わせて帰るようにしているのに、意外にも彼は毎回起きてリビングにいる。僕が帰ると、慌てて片付けをして自室に入ってしまうので、変わらず避けられているようだ。リビングで台本の読み込みや練習をしているのだろうか。彼らしいけれど、無理だけはしてほしくない。最近は特に顔色も悪いようだから、ゆっくり休んでほしいのに。
「お兄さん、聞いてます?」
「……全く」
「うわ、酷いですよ、頑張って話してるのにぃ」
首を傾げて顔を覗き込んできた彼女に、顔を顰めて短く返事を返す。そんな僕を力の入っていない手で叩く彼女は、全然怒っている様子がない。学生のようなやり取りに、小さく息を吐いてグラスを傾けた。
(以前なら、こういう女性に話しかけられても、すぐに距離をとっていたのにな…)
Ωはαの番を作る為に、αを誘うフェロモンを常に発している。その匂いが昔から苦手で、特に女性が相手の時は適当にあしらって離れるようにしていた。けれど、司くんと番になってからは、その匂いが全く分からなくなってかなり過ごしやすくなった。同じ劇団の役者にΩの子が居ても、こうやって店でΩの女性に絡まれても、全く匂いが分からない。だからこそ、以前のように急いで距離をとる必要もなくなった。
好きでもない相手に絡まれるのは、面倒くさい事に変わりないけれど。
(そういえば、司くんと一緒にお酒を飲んだことは、なかったな……)
高校卒業と同時に同棲が始まった。その頃から、彼とはどこか距離があった。だからだろう、お酒を飲もう、なんて話にもなった事がない。彼がお酒を飲めるのか 飲めないのかも知らない。そればかりか、一緒に住んでいるというのに、高校卒業後の彼の事を、僕はあまり知らないかもしれない。なんと薄情な夫だろうか。
(けれど、あまり深く踏み込んで、彼が誰を想っているのかを知るのが怖い…)
司くんの事が好きだから、知りたくない事まで知ってしまうのが怖い。このまま、ぎこちなくてもいいから、彼と“偽物夫婦”を続けていたい。彼が僕のモノなのだと、そう思っていなければ、足元から崩れ落ちてしまいそうで、それが怖い。
なんて、自分勝手な願いに縋りついて、彼を泣かせていては意味が無いのにね。
「…お兄さん?」
「………今夜は、もう一杯だけ頼もうかな…」
「嬉しい。いくらでも付き合いますよ」
腕に擦りつく彼女に顔を顰めて、けれど振り払うことはせずに残っていたグラスの中身を飲み干した。
―――
(司side)
「………………」
じっ、とリビングの時計を見つめては、溜息が零れる。今夜も夕食は要らないのだろうか。ここの所、ほぼ毎日帰りが遅い。類の夕食は翌日の朝ごはんになっている。類を待っていると食べるのが遅くなるので、待たずに一人で食べるようになった。お風呂も入って、寝る準備まで済ませて、何をするでもなくリビングのソファーでぼうっと時計を眺めている。
「………遅い…」
連絡は、何もない。
最初は何かあったのかと心配もしたが、数回同じことがあればオレだって学習する。帰りが遅い日は、決まってお酒の匂いがする。それから、女性のΩの匂いも。洗濯前の類の服から、嫌でもしてくるその匂いが、苦手だ。当然のように類の傍に長時間いただろうというその匂いは、中々とれない。いつもより多めの洗剤と柔軟剤を使うが、気になってしまって仕方がない。
だから、類が帰ってきたことだけを確認して、部屋に逃げ込むようになった。顔を合わせても、『夕食は要らない』とか、『連絡を忘れてすまなかったね』とか、いつも変わらない事しか言わないからな。
「……これが、世に言う“浮気”というやつか…」
うぐぐぅ、と低く唸って、部屋から持ち出したクッションに顔を埋める。
オレに内緒で、類がオレ以外のΩの人に会っている。しかも、その人は女性だ。肩辺りのシャツに女性の使う化粧品が付いていた事がある。ここまでくれば、類が浮気しているのだと嫌でも気付けてしまう。遅くなった帰り時間も、お酒の匂いも、知らない人の匂いも、シャツの見慣れない汚れも、全てその証拠だろう。
それを責めたいのに、類を前にするとどうしても逃げてしまう。言葉にするのが怖くて、何も知らないフリをしてしまう。
「以前、浮気される側にも問題がある、と、…見たことがあるが…」
問題しかない。
夫婦とは、もっと仲の良いものだろう。ちょっとした時間も一緒に過ごして、仕事の帰りに出掛けたり、一緒に家事をして笑ったり、取り折り小さな事で喧嘩して仲直りして、友人とはしないようなことも、…する、ものだ。何一つとして類とは出来ていない。
夫婦になる前の方が、ずっと仲が良かった。番になっていなかった頃の方が、今よりも夫婦らしかったかもしれん。夫婦としての営みどころか、キスすらした事がないオレよりも、他の女性を選ぶのは当然かもしれん。
「……………それでも、…やはり悔しいだろ…」
こんなにも類の事しか考えていないのに、こんなにも類が好きなのに、類から一番遠い所にいる。それが、悔しくないわけがない。何故、オレでは駄目なのだろうか。オレは、類のたった一人になったのに。
「………オレも、お酒を飲めるようになれば、一緒に、いられるのだろうか…」
そんなに簡単なら、今ここで悩んではいないのだろうな。はぁ、と一つため息を吐いて、ソファーの背もたれに体を預けた。
この夜、類は日付が変わる直前まで帰ってこなかった。
―――
「抑制剤が、切れかけているな…」
薬ケースの中身を確認していて、ふと気付いた。
まだ発情期がくるには早い。五ヶ月周期というものは、かなり楽だ。年に二、三回しか起こさないので、対処も楽にできる。前回の発情期から三ヶ月。あと二ヶ月は余裕がある。近いうちに病院に行って、抑制剤を貰えばいいだろう。
ぱちん、と薬の入ったケースの蓋を閉じれば、リビングの扉が開く音がする。びく、と肩が跳ねて、体が固まった。視線を上げることが出来ずにいるオレに、少し眠そうな声音で類が「おはよう」と挨拶をしてくる。
「おはよう」と小さく返せば、類はダイニングテーブルの椅子に座って、用意しておいたグラスに手を伸ばした。
(………逃げたい…)
今立ち上がって移動するのは不自然だと分かっているが、どうしても類の顔が見れない。見たくない。
類が浮気をする様になってから、二ヶ月があっという間に過ぎた。変わらず帰りが遅くて、会話も殆どない。食事を一緒に摂ることも、一ヶ月の内に数える程度になった。言いたいことは沢山あるのに、言ってしまったら全て終わってしまうような言い難い恐怖心が邪魔をして、何も言えていない。
手を合わせて「いただきます」と小さく声に出して、類が食べ始める音が聞こえてくる。なんとなく動き出しづらくて、固まったまま ちら、と視線だけで時計を見た。今日は休みなので、出掛けるつもりだ。だが、約束の時間までまだまだある。類が早朝から練習だという事もあって、逃げるに逃げられなくなっている。
(…いっそ、二度寝をすると言って部屋に行くか…?)
それが一番可能性のある返答だろう。
オレがこれだけ悩もうと、類はとくに気にもとめないかもしれんが。なんだか考えるのが馬鹿馬鹿しくなってきて、ソファーから立ち上がる。薬ケースを持ったまま、無言で類の後ろを足早に通り抜けようとした。逃げたい気持ちが勝ったのだ。
「司くん」
「…ぉわ……?!」
が、通り過ぎる前に腕が掴まれて、大袈裟な程に体が跳ね上がった。咄嗟に類の手を振り払ったオレに、類が目を丸くさせている。
「…な、……なんだ…」
「……今日、休みだよね…?」
「……………そ、れが、どうかしたか…」
話しかけられると思わず、震える声で何とか返事を返す。掴まれた部分が、いやに熱い。驚いたせいか、心臓の鼓動も早かった。視線が泳いで、薬ケースを強く胸元で握り締める。
そんなオレを見た類が、顔を顰めた。眉間に皺を寄せて、ゆっくりと溜息を吐かれる。たったそれだけでも、オレの体は小さく跳ね上がって固くなってしまう。
「今日は、一日家から出ないでおくれ」
「…は……?」
「僕も早めに帰ってくるから、この家から一歩も外へ出ては行けないよ」
「………そ、れは…」
どういう意味だ。
何故、オレが外出するか しないか を類に決められねばならんのか。オレにだって予定がある。以前から約束があるならまだしも、早朝にいきなり『出掛けるな』と言われて、『はい、そうですか』と頷けるはずもない。
それに、『僕も早く帰る』というのはなんなんだ。今まで連絡も無しに夜中まで帰らず飲みに行ったりしておいて、こういう時だけ早く帰るのか。オレにだけ、制限をかけるのか。
類のその言葉に、オレが何も思わないとでも思っているのか。
(自分は浮気相手と毎晩会っているくせにっ…!)
決まっていた休みの日に友人に会って何が悪い。類と違って、やましい事など何もしていないのに、何故制限される必要がある。自分の事は棚に上げて、オレにだけそういう事を言うのは、不公平だ。普段は遅くまで帰ってこないくせに、今日は早く帰ると言ったのも腹が立つ。
(……先に裏切った類の言葉に、オレだけが従う必要は無いだろ)
む、と顰めてしまいかけた表情を、無理矢理緩める。ぎこちなさはあれど、精一杯の笑顔を貼り付けた。薬ケースを強く握って、「分かった」と頷いて返す。
そんなオレの返答を聞いた類が、安堵するように肩の力を抜いた。「ありがとう」と返ってきたお礼には何も言わず、類に背を向ける。そのまま自室に入り扉を閉めてから、ズルズルとその場に座り込んだ。
「…………類なんか、もう知らん…」
ほんの少しの罪悪感と、大きな反抗心。
溜め込んでいた不満が出口を探してオレの中でぐるぐると渦を巻いている。類に言いたいことは沢山あるのに、言うのが怖い。そんな臆病な自分が今出来る最大の反抗かもしれない。
類には あぁ言ったが、守るつもりなんてこれっぽっちも無い。類はどうせ家を出て稽古へ行くんだ。それなら、類が出てからこっそり出掛ければいい。
前から決めていた約束を当日に断るなんて事は、絶対にしない。
「…帰ってきた時に誰も家に居ない寂しさを、類も少し味わえばいい」
なんて、きっと類はそんなことは一切感じないのだろう。良くて、約束を破ったオレに対して怒りを覚える位かもしれん。否、怒る事も、ないのだろうな。
類から家を出ないように、と言われるのは、殆どない。大抵は、発情期の周期が近付いてきた時に『そろそろ外出は控えてね』と言われる程度だった。今日の様に突然言われることも無ければ、『出ないで』と直球で言われたことも無い。
それなら、あの言葉には何か意味があったのだろうか…。類も早く帰ると言ったという事は、夜は類と顔を合わせて何かあるという事なのだろう。
「………もしや…離婚の相談、だろうか…」
ぽつりと音になった不安に、唇を引き結ぶ。
浮気した夫が、いきなり早く帰って大切な話をする時は、決まって離婚の話となるのがドラマや小説の相場だろう。これだけお互いに日常会話も出来ないままなのだ。オレと共に過ごすのが、嫌になるのも分かる。いや、オレの他に誰か愛した人が出来て、その人と一緒になりたい、ということかもしれん。
どちらにしても、類に『別れたい』と言われてしまったら、オレはどう返せばいいのだろうか。
「……こんな状況でも、…まだ、…」
ぐ、と口をへの字に曲げて言葉を飲み込む。
遠くから、玄関の扉が閉まる音が聞こえてきた。
―――
(類side)
「やっほ〜、類!」
「おや、瑞希。どうしたんだい?」
「ちょっと気になる事があってね〜」
練習もいい感じにまとまってきて、そろそろ終わるだろうという時に、劇団に瑞希が訪ねてきた。元々今日は早く上がらせて頂きたいと団長にも伝えていたので、後は挨拶をして帰るところだ。瑞希には待ってもらい、挨拶を済ませて帰り支度をする。入口で待っていた瑞希は、僕の用意が終わるのを見計らって へらりと笑った。
「お待たせ」
「ボクこそ、急に来ちゃったからね。類、この後少し大丈夫?」
「帰り道までなら。今日は、早く帰りたいんだ」
劇団の入口を出て、いつもの道をほんの少しだけ歩調を早めて歩く。そんな僕を気にせず、瑞希はにまにまとした顔でついてきた。口元に手を当てて、からかう様な表情で僕を見上げてくる。
「もしかして、司先輩とデートとか?」
「しないよ。そうではなくて、嫌な予感がしたというか…」
「…嫌な予感……?」
「今朝、司くんの匂いがいつもより強い気がしたから、もしかしたら、って…」
「あー、それは急がないとまずいね」
僕の言葉を聞いて、瑞希の表情がほんの少し真面目なものに変わる。瑞希もαだから、何となく予想がつくのかもしれない。
今朝は、珍しくリビングで甘い匂いがした。多分、司くん自身は気付いていないのかもしれない。彼の手を掴んだ時 体温が高い気がしたから、念の為家を出ないよう伝えた。もしかしたら、発情期の予兆かもしれない。
(……司くんの周期がズレる事は今まで無かったから、杞憂だと良いのだけど…)
彼の周期を考えれば、後二ヶ月は先のはずだ。だから、今夜はホテルの予約もしていない。最悪の場合は実家に一時帰れば良いけれど、それよりも、彼の周期がズレたかもしれない事の方が気になる。
Ωの発情期の周期は、確かに不安定な人もいる。けれど、司くんは自己管理をしっかりとしているので、あまり周期がズレたことは無いと以前得意気に話してくれていた。番になってからも、数日の差はあれど、二ヶ月も周期がズレたことは一度もない。だから、この予想もあくまで僕の直感だ。
「……良かった…」
「? 何が、良かったんだい?」
「いや、類もちゃんと司先輩の事を大事にしているんだなぁって」
「…なんだい、それは」
へらりと笑う瑞希に、眉を顰める。瑞希の言葉の真意がイマイチ分からない。
司くんの事は、大切だ。誰よりも笑っていてほしいし、幸せにしたいと思う。ただ、彼の本当の幸せが僕の隣では無いという事だけがはっきりとしていて、今はどう彼と接していいか分からなくなってしまった。出来る限り傍に居ない方が司くんの気が休まるかもしれない、そう思うと、あの家にもどんどん居辛くなってしまう。
それを言い訳に、最近はあのバーの常連になってしまっている。
「いや、噂で聞いたんだけど、類が番になったのに司先輩に手を出していないらしい〜、なんて聞いたから」
「っ……」
「いくらなんでも、あの司先輩を大好きな類が、結婚して何年も経つのに手を出してないなんて有り得ないよね〜」
「………………………」
にこにこと笑顔でこちらを見る瑞希から、顔を逸らす。思わず変な声が出てしまいそうになった事には、気付かれなかったらしい。けれど、黙ったまま顔を逸らす僕を見て、瑞希の表情がみるみる内に変わっていった。信じられないものを見るかのような、目を丸くさせて唖然とするその顔に、冷や汗が背を伝い落ちていく。
「……ぇ、…類、まさか…」
「…………ぃゃ、…その…」
「類の番相手って、司先輩でしょ? あのいつも元気で笑顔の司先輩だよね?? 高校の頃、類が常に隣を陣取って、必要以上にマーキングし続け、周りのαどころかβにすら過剰に牽制する程大好きだった司先輩なんだよね???」
「…………………………その通りだから、学生の頃の事を今掘り返さないで……」
『意味が分からない』と言いたげな顔で詰め寄る瑞希に、顔が熱くなるほど恥ずかしくなってくる。
確かに、あの頃は司くんが誰かに取られないかと気が気でなく、無意識に彼にマーキングもしたし、クラスメイトにも牽制するような事を言っていたと思う。司くんの周りには、僕や瑞希を始めαが集まりやすかったから尚更だ。特に青柳くんの事は警戒していたと思う。高校生の僕を見ていた人達なら、その事は当然知っているだろう。まして、噂好きで司くんとも関わりのある瑞希なら尚の事。
知らないのは、当の本人である司くんだけだろうね。
「類に限ってそんな事ないと思ってたけど…、もしかして、司先輩が大切過ぎて手が出せないとか…?」
「……それもあるのだけど、…他にも、まぁ、理由があってね…」
「結婚と違って番の繋がりは一生なんだよ? 確かに、ゆっくり仲を深めるのも大切だけど…」
さすがに時間をかけ過ぎじゃない? と訝しげな顔の瑞希に、言葉を飲み込む。
司くんには他に好きな人がいるから、なんて言えるわけがない。彼の想いを聞かず番にした事を、瑞希は知らないから。言ったら、なんて言われるだろうか。『信じられない』と軽蔑されるかもしれないね。
いや、その方が、少し気持ちが楽になるかもしれない。
(……瑞希も司くんを慕っていたから、怒るだろうね)
僕をからかうために司くんと絡む姿を見た事がある。けれど、なんだかんだ瑞希も司くんに懐いていた。司くんと一緒にいる時の瑞希は、楽しそうだったから。だからあの頃は瑞希と司くんが並んで話す姿を見るのも、いい気はしなかったな。
ゆっくりと息を吐く僕に、瑞希が眉を顰める。そんな瑞希に、僕は出来る限り へらりと笑って見せた。
「少し、司くんと上手くいっていなくてね」
「………それって、なにか理由があるの?」
「……どうかな。ただ、僕が彼を好きだと想うこの感情は、司くんにとっては、迷惑なんじゃないかなって…」
声が、段々と震えていく。僕らしくない弱音に、瑞希の表情が更に険しくなっていく。それを見たくなくて、視線を少し下へ向けた。自然と、急いでいた足がゆっくりとしたものに変わっていく。今更、家に帰って司くんに会うのが怖くなってきた。瑞希が居なければ、きっとまた、あのバーに逃げていたかもしれない。
僕が『出ないで』と言った言葉に、ぎこちなくも笑顔で頷いてくれた司くんの顔が脳裏に浮かんで、胸の奥がツキツキと痛くなっていく。
「そんな事ないよ。司先輩だって、類の事…」
「…司くんは、僕を愛しているわけではないから」
「………ぇ…」
「……なんでもない」
無理矢理笑顔を貼り付けて、瑞希にそう返す。そろそろ、家が見えてきた。瑞希との話を終えて、司くんに会わないと。もし発情期を発症してしまっていたら、抑制剤を飲ませて実家に一度帰ろう。何事も無ければ、それでいい。
ゆっくりと息を吐くと、瑞希が僕の手を掴んだ。振り返れば、どこか泣きそうな顔をする瑞希が口を開いて、一度閉じた。
「っ、……、類、それはっ…」
何かを言いかけた瑞希の言葉を遮るように、電子音が辺りに響く。ポケットから鳴っているその音に驚いて、瑞希が僕の手を離した。スマホを取り出すと、ディスプレイ画面に『青柳くん』という文字。
瑞希を一度見ると、小さく頷かれた。応答ボタンをタップすれば、機械から青柳くんの焦った様な声が聞こえてくる。
『神代先輩、夜分にすみません…!』
「青柳くん、どうかしたのかい?」
『あの、司先輩がっ、…!』
通話口の向こうから、聞き慣れた女性の慌てる声と、か細い司くんの声が聞こえてくる。呻くようなその声に、ハッとして、足を止めた。
「今どこに居るんだい?!」
『司先輩の御実家に…』
「すぐに行くよ…!」
スマホの通話を切って、来た道を戻る。隣で聞いていた瑞希が、戸惑う様に僕の後をついてこようとするので、振り返って「すまないけど、話の続きはまた今度聞くよ…!」とだけ伝えた。返事は聞こえなかったけれど、追ってこないという事は、そういう事なのだろう。
高校を卒業してから殆ど行っていない天馬家へ、全力で走った。
―――
「司くんっ…!」
「る、るいさんっ…」
「司くんは…?!」
「お兄ちゃんなら、あっちの部屋にいます…」
玄関の扉が開いた瞬間、ぶわりと甘い匂いがして、心臓が大きく跳ね上がった。
咲希くんに案内されて家の中へ入れば、リビングのソファーには青柳くんが居た。以前はリビングの上の階に司くんの部屋があったけれど、今は誰も使っていないそうだ。入ったことのない扉の閉まる部屋へ案内され、鞄の中から抑制剤の入っているケースを取り出す。念の為にと持ち歩いているものだ。
中から司くんの小さく呻く声が聞こえてくる。甘い匂いがどんどん強くなり、ごくりと喉が音を鳴らした。こんなにも強い匂いを感じたのは、いつ以来だろうか。
咲希くんに笑顔を見せてから、部屋の扉を開ける。部屋の隅で蹲るその背中に、もう一度喉を鳴らした。
「………司くん…?」
「……っ、…ぅ………る、ぃ……」
びく、と体を跳ねさせた司くんが、恐る恐るこちらへ振り返る。赤く蒸気した頬を伝う涙に、下腹部が熱くなるのが分かった。ぐ、と拳に力を入れて、部屋の中に踏み込む。一歩づつ近寄ると、司くんがほんの少し逃げようと体を動かした。そんな彼の目の前にしゃがみ込み、震える腕を掴んで逃げないよう僕の方へ抱き寄せる。そのまま薬ケースから抑制剤を取り出して、彼の顔を覗き込んだ。
「何故、家を出ないでと言ったのに、勝手に出たんだい?」
「……ぁ、…っ、……」
「自分の体調がおかしい事も、気付かなかったのかい? 普段の君なら、無理に家を出たりしないじゃないか」
「…んむ……、…」
唇の隙間から抑制剤を押し込んで、飲み込むのを待つ。ゆっくりと嚥下したのを確認してから、彼の体を抱え上げた。熱で朦朧としているのか、質問の返事が返ってこない。相当具合も悪い様だ。横抱きに抱えて立ち上がれば、熱い腕が首に回される。ぎゅぅ、としがみつく司くんに、思わず息を飲んだ。発情期の時にだけ見る甘えたな姿に、必死に理性を繋ぎ止める。
「………る、ぃ…、…るい…」
「ん。薬が効くまで頑張って。今タクシーを呼ぶから…」
「…るぃの、においがする……」
すり、と首元に顔を擦り付ける司くんが、小さな声でそう言った。すん、すん、と鼻を鳴らす音まで聞こえてきて、体がピシッ、と固まってしまう。普段と違い消臭剤の匂いもしない、純粋な司くんの匂い。僕だけのΩの甘い匂いに、身体が勝手に熱を持ち始めていく。それを気付かないフリでやり過ごし、ゆっくりと深く息を吐いた。
部屋を出れば、リビングで顔色を青くさせて心配そうにしている青柳くんと咲希くんがいる。そんな二人を安心させるために笑顔を見せて、「迷惑をかけて、すまなかったね」と謝罪した。あまりこの状態の司くんと長居するわけにもいかないので、足早にリビングを出る。玄関の扉を開いてスマホでタクシーを呼ぶと、追いかけてきた咲希くんが僕を呼んだ。
「あ、あの、るいさんっ…!」
「っ……どうかしたかい…?」
「お兄ちゃんを、よろしくお願いしますっ…!」
ぺこ、と頭を下げられ、僕も軽く会釈した。発情期を発症した際の対応は、彼と番になった僕の役目でもある。彼が動けないなら、迎えに行くのも当然だ。この後は、理性が持つ間に彼の安全を確保しなければならないしね。
すぐに来てくれたタクシーに安堵すれば、おろおろとした咲希くんが駆け寄ってくる。扉を閉める前に、彼女が「あのっ…!」と僕を呼び止めた。
顔を上げると、困った様な顔で彼女が口を開く。
「…お兄ちゃん、……るいさんが迎えに来るって聞いて、その…慌ててて…」
「……慌てた…?」
「何か探してたんです。でも、すごく辛そうにしてたから…」
「…………そう。…教えてくれて、ありがとう」
ぺこ、ともう一度頭を下げた咲希くんに「おやすみ」と伝えて、扉を閉める。自宅の住所を伝えれば、タクシーはすぐに走り出した。
もぞもぞと身じろぐ司くんをなるべく見ないようにしながら、先程の咲希くんの言葉を思い返す。甘い匂いばかりが強くなり、彼の体温が伝わるかのように僕自身の体温も上がっていく。触れたくて堪らない衝動を必死に押し止めようとすると、代わりに彼を抱く手に力が入った。
うわ言のように僕の名を呼ぶ司くんの甘える様な声音が、今は辛い。
(………瑞希にはあぁ言ったけれど、本当は、司くんの全てが欲しいと、ずっと思ってる…)
赤く柔らかそうな頬も、涙の滲む瞳も、赤く色付いた唇も、全部触れてしまいたい。
きっと今なら、触れても文句は言われないだろう。“番”とは、そういうものだ。結婚もしていて、世間からすれば僕と司くんはそういう事をしていてもおかしくないのだと思う。その番が、子どもが欲しいと本能的に熱を持ち始めるのが発情期だ。番であるαに“抱いてほしい”と誘うΩの甘い匂いで、思考がぐらぐらと揺れる。熱を持つ吐息が首筋を掠める度、ゾクゾクゾクッ、と背を何かが駆け上がった。αの本能が、番である彼を求め始める。
(……これだから、発情期中は彼の傍に居られないんだ…)
部屋を変えたとしても、どうしたって頭の中が司くんの事でいっぱいになる。すぐにでも会いに行って、本能のままに触れて、めちゃくちゃにしてしまいたくなる。それはホテルで過ごしていても変わらない。番である司くんが落ち着くまで、傍に居なくても気持ちはずっと落ち着かないままだ。発情期中の番の姿が見えない状態は、焦燥感に駆られて気が狂いそうになる。それでも、司くんの気持ちを無視して触れるのだけは避けたくて、毎回ホテルの中で自分を押し留めるのに必死になるんだ。抑制剤さえ効けば、自然と僕の焦燥感も落ち着くから、僕はただその時を待てばいい。
そうやってこの数年を乗り越えてきた。けれど、本心では彼を本能に任せてめちゃくちゃに抱き、彼の全てを僕のモノにしてしまいたい。そう思ってしまうんだ。
「…………っ、すまないね、司くん…」
こんなズルい僕が、君を手に入れてしまって。