にょつ皇太子殿下の誕生パーティーは盛大に行われた。
他国の王族も招いて、自国の全貴族が参加する、そんな大きな生誕祭だ。
「類」
「あぁ、寧々。君も参加になったんだね」
「…流石に皇太子殿下の生誕祭は欠席出来ないでしょ」
「まぁ、そうだよね」
面倒くさいと言いたげに顔を顰めた幼馴染に苦笑する。彼女はとことんこの国の皇太子殿下を避けているから、この生誕祭を欠席する事も考えていたのだろうね。
まぁ、世間的に婚約者の決まっていない皇太子殿下の生誕祭となれば、自国の貴族令嬢が参加しないわけにいかなかったのだろうけれど。
「そういえば、類は婚約者と一緒じゃないの?」
「うん。準備があるから、彼女は後で来るよ」
「類の初恋の相手なんでしょ? 全然会わせてくれないから、気になってるんだけど」
「ふふ、彼女はとても可愛い人だから、寧々にも仲良くしてほしいな」
笑顔でそう答えれば、寧々が呆れたような顔を僕へ向ける。「惚気ないでよ」という言葉が寧々らしい。
そんな風に他愛ない会話をしていれば、会場の入口から『皇太子殿下、並びに皇女様の御入場です』と聞こえてくる。ざわざわと会場が騒がしくなり、僕と寧々も入口の方へ体を向けた。
大きな扉がゆっくりと開き、会場に拍手の音が響き渡る。次いで、ふんわりとしたドレスを身にまとった女性が“二人”会場に入って来た事で、その拍手がぴたりと止んだ。
「ぇ…」
隣から寧々の呆気とした声が聞こえてくる。彼女の反応も納得だろう。なにせ、会場の殆どの者が“皇太子殿下”を予想していたのだから。
それとは別の意味で、僕も会場に入ってきた彼女を見て、思わず息を飲んだ。
(……綺麗だ…)
ふんわりとした濃紺のドレスには、彼女の瞳を思わせる宝石が装飾されている。白い肩を晒すオフショルダーのドレスの胸元に輝くのは、淡いアメジストの宝石があしらわれたネックレス。長い髪を緩くまとめあげているお陰で、白い首元も晒されている。妹の咲希くんと並んで歩く姿は何とも仲の良い姉妹らしくて微笑ましい。
そんな彼女が僕を見つけると、その顔を綻ばせた。
「っ……」
咲希くんに挨拶をして離れた彼女が、真っ直ぐこちらへ歩み寄ってくる。目の前まで来た彼女は、ふんわりと揺れるドレスの裾を摘んで、綺麗な所作で僕に礼をしてくれた。それに返すように、僕も練習した通り頭を下げる。
「宜しければ、“私”と一曲踊って頂けますか?」
「…喜んで」
慣れない彼女の一人称にむず痒さを感じつつも腕を差し出す。その手に触れた司くんが、柔らかく笑った。
会場の真ん中の方へ並んで向かえば、ゆっくりとした曲が流れ出す。事前の打ち合わせ通りの位置で彼女と向かい合い、その細い腰へ手を回した。薄い化粧をした司くんがあまりに綺麗で、いつも以上に心臓の鼓動が早い。指先に無駄に力が入った僕に気付いた彼女が、そっと顔を上げた。ふわりと微笑む彼女が、紅をひいた唇を小さく開く。
「類が緊張しているなんて、珍しいな」
「……あまりに君が綺麗だから、落ち着かなくてね」
「ふは…、それは、準備を頑張った甲斐があるというものだ」
くすくすと笑う司くんに、肩の力が抜けていく。
昨日までは彼女の方が緊張していたというのに、本当に彼女は本番に強い。自分が少し情けなく感じつつも、背筋を伸ばした。
そっと司くんの手を引いて、足を踏み出す。一歩引いた彼女の腰を引いて、そのままその場でくるりと回った。わっ、と会場に居る人達が息を飲むのがわかる。曲に合わせて彼女をリードする僕をじっと見上げる司くんは、どこか御機嫌に見えた。嬉しそうに表情を綻ばせる彼女があまりに綺麗で、余計に落ち着かなくなる。
「咲希くんはいいのかい?」
「あぁ、咲希には冬弥がいるからな。冬弥に任せておけば大丈夫だ」
「…はぁ、…君と同い歳に産んでくれた両親に感謝してるよ」
「なんだ、今更オレが他の男のモノになるのが惜しくなったか?」
僕の言葉で にまりと勝ち誇った顔をする司くんに、言葉を飲み込む。この得意気な顔すら可愛いと思ってしまう自分はもう末期だろう。今やっと、堂々と彼女の婚約者だと名乗れるようになって、どれほど安心しているか。僕が成人するのが一ヶ月後。その更に半年後に正式に彼女と結婚する予定になっているけれど、その制約が無ければ、彼女は他の国に嫁いでいた可能性だってある。歳が同じで家の階級も高いという理由で奇跡的に得られたこの国の華だ。自分の産まれに少なからず感謝もしている。
「司くんこそ、今夜は随分と御機嫌だね。何か嬉しい事があったのかい?」
くるりと彼女とその場で回って見せれば、ふわりと濃紺のドレスが揺れる。向けられる羨望の眼差しに混じる嫉妬の視線は無視して、司くんの方へ顔を寄せた。耳元で囁くように問いかければ、彼女がきょとんと目を丸くさせる。次いで、その表情がへにゃりと緩んだ。
「嬉しいだろう? これからは堂々と類はオレのモノだと言えるのだからな!」
「っ……、本当に君はそういう事を平然と……」
「む…、類の方が普段から歯の浮くようなことばかり言うだろう…?」
「おや、もしかして不服だったのかい? それなら、今後は控えた方がいいかな?」
「そういう話をしているわけではないだろう?! 何故そこでお前が不機嫌になるんだ?!」
何だか司くんに負けた気がして、つい煽るような事を口にしてしまった。予想通りムッとした顔で言い返す司くんに、僕も引っ込みが付かなくなってしまう。
普段は彼女の方が可愛らしい反応を返してくれているのに、こうもハッキリと彼女から言葉にされてしまうと自分がかっこ悪く感じてしまう。今夜の司くんがあまりにも綺麗で、周りの視線が気になってしまうのもあるかもしれない。
彼女が僕のモノなのだと堂々と公言できる。それが嬉しいと思っていた僕と同じ想いで司くんもいてくれているという事実は嬉しいのに、先に彼女に言葉にされてしまったという悔しさもある。
「何故だろうね? 当ててご覧よ」
「っ…、……そうだな、大方、他の御令嬢と遊べなくなるとでも思っていたのだろう?」
「……それはどういう意味だい?」
「ふん。宰相様のご子息さんは大層おモテになるようですので」
ぷい、と顔を背けた司くんの言葉に、カチン、ときてしまった。
不機嫌になると毎回の様に“浮気”を疑ってくる。何度も『君だけ』と伝えてきているのに、一体いつになったら信じてくれるのか。
曲も終盤に差し掛かってきていて、そろそろ止まってしまう。この後は司くんの事を国王様から説明され、その後に僕と彼女の婚約発表だというのに、先程までの浮ついた気持ちも消えてしまったようだ。
顔を背けたままこちらを見ない司くんに、口から出かけた言葉を飲み込んだ。
(……モテるのは、君の方じゃないか…)
会場の至る所から向けられる視線に気付かない司くんが恨めしい。きっとこの後、挨拶にかこつけて彼女を口説こうと人が集まるのだろうね。今までは皇太子殿下の婚約者の座を巡って御令嬢方が集まっていたけれど、この瞬間から彼女は“皇女”だ。僕が彼女の婚約者と決まっていても、“可能性”を期待しているに違いない。
(司くん、学院の頃も特に親しくしていた友人が殆どいなかったから、言い寄られたら断りきれなさそうだしね…)
子どもの頃に司くんと喧嘩をしてからも、彼女は何かと僕の気を引こうとしてくれていた。学院に入学してからは特に。神出鬼没と思う程よく僕の前に現れては言い合いをして、けれど諦めずに僕を追いかけてきてくれた。
まさかその理由が、僕を好きだから、なんて可愛らしい理由だったとは思わなかったけれど。
遠回りをして、僕もずっと好きだった司くんに頑張ってアプローチをかけ、漸く今彼女の隣にいるんだ。今更他の誰かに奪われるつもりもない。
「類」
「ぇ…」
「…曲はもう終わったぞ。最後にお辞儀しないと不自然だ」
「……そぅ、だね…」
じっ、とこちらを見る司くんが、怪訝そうな顔をする。それに愛想笑いで返して、彼女から手を離した。会場中から聞こえる拍手の音が煩い。表向きは笑顔の司くんに腕を差し出すと、躊躇いなくその腕に手が添えられた。分かりやすく顔を背けた彼女から、僕も顔を背ける。
こんなつもりではなかったのだけど、何故か胸の奥のモヤモヤが治まらない。
(………司くんが相手だと、本当に調子が狂うなぁ…)
誰にも気づかれないように小さく息を吐いて、彼女と共に王様に挨拶へ向かった。
―――
「類の婚約者が皇太子殿下なんて聞いてないんだけど」
「色々と事情があってね」
「皇太子殿下が女性だってことも驚いたけど、まさか類の初恋の相手がその皇太子殿下だったなんてね。あれだけ類が探しても見つからなかったのにも納得した」
「…そうだね。僕も偶然知って、驚いたよ」
婚約発表も無事に済んで、一通りの挨拶回りも終えた。一度席を外すと言った司くんに、最初はついて行こうと思ったのだけど、断られてしまったので別行動だ。ダンスの時の会話をまだ根に持たれているらしい。不機嫌そうに睨まれたのを思い出して、苦笑が浮かぶ。司くんは、幼い頃に一目惚れしてからずっと僕を想い続けてくれていたらしい。僕と喧嘩してからもずっと。正直、彼女と喧嘩をしてから関わるのを避けていた僕は、かなり冷たい態度をとっていたと思う。それでも、変わらず想い続けてくれて、諦めずに追いかけてくれた。他の男を選ぶということも出来たのに、僕を選んでくれた。
そんな少し嫉妬深い司くんも愛おしいと思ってしまっているのが現状だ。浮気を疑われた事はまだもやもやするけれど、それだけ彼女が僕を想ってくれていると思えば少しは納得してしまう。
「なんでダンス中に喧嘩してんのか分からないけど、ちゃんと側にいないと変な虫が付くよ」
「そうなんだよね。司くん、今日張り切っていてとても綺麗だから、気が気じゃないのだけど、ついて行こうとしたら断られてしまったし…」
「……そのあんたのお姫様なら、あそこで囲まれてるけど」
「え」
寧々の指さした方向へ目を向ければ、見覚えのある男性に囲まれた司くんがいて、思わずグラスを持つ手に力が入る。
先程挨拶をした他国の王族や、高位貴族の令息もいる。マナー講座で習う様な礼をする令息達に愛想笑いで返す司くんは、抜けるタイミングが分からず困っているようだ。断りきれなくてどうしていいか分からないのだろうね。ダンスの一回目は婚約者と決まっているけれど、二回目からは付き合いで他の令息と踊ったりもするから。今夜初めて皇女と明かした彼女も、今後の付き合いを考えると無下にもできないのだろう。真面目な性格も相まって、余計にどう対応していいか悩んでいるようだ。
こういう光景は予想出来ていたとはいえ、気分が良いものでもない。
「寧々、一緒に来てくれるかい?」
「…え、面倒なんだけど」
「せっかくなら、寧々に司くんを紹介したいんだ」
「………」
あからさまに顔を顰める寧々に苦笑すれば、渋々頷いてくれた。よし、と顔を上げれば、男性に囲まれる司くんとパチリと目が合う。瞬間、その顔を顰めて ぷいっと顔を逸らされてしまった。あからさまなその態度に、口角が引き攣るのがわかる。何を拗ねているのか分からないけれど、素直に助けを求めてくれればいいのに、そこで顔を背けるのはどういう事なのか。
つい足が止まってしまった僕の視界に、笑顔で他の男との相手をする司くんが映った。誘われるまま他の男の腕に手をかける彼女の姿に、モヤモヤとしたものが胸に広がっていく。
「……ぅわ、…類、どうするの、あれ」
「…どうするって?」
「いや、今の、絶対類が見てるの知っててやったでしょ」
「寧々にもそう見えたなら、そうなのだろうね」
人集りがゆっくりと解散し、他国から来た賓客の男性とダンスを始めた司くんがホールの中央でドレスを翻す。先程僕と踊った時とは少し違うどこか緊張した様子の彼女は、それでも笑顔を絶やさず笑っていた。それがまた面白くない。前もって流れは決まっていたけれど、僕にダンスを申し込んだ彼女は、嬉しそうにしていたじゃないか。
(……僕以外とは踊るつもりは無いと言ってくれたのに)
昨夜二人きりで段取りの確認をしている時の彼女の言葉を思い返して、深く息を吐く。どこか緊張した様子で、けれど、やっぱり嬉しそうに笑ってくれる司くんが言ってくれた言葉。外交問題もあるから難しいとわかっていたけれど、司くんがそう言ってくれて、それが嬉しかったのに。
こんな些細な言い合いで当て付けのように他の男の手を取られては、さすがの僕も腹が立つ。
「…好きにさせよう」
「え」
「王族同士付き合いもあるでしょ。楽しそうだし、好きにさせてあげよう」
「ぅわ、…拗ねてるし…」
面倒くさそうに顔を顰める寧々の腕を引いて、司くんに背を向ける。かっこ悪いというのは分かっているけれど、素直に『僕の婚約者を返して』なんて言いにいくのも、彼女の策にやられたみたいで悔しい。
僕が司くんだけを愛していると知っていて試そうとする彼女に、ほんの少し反抗したくなった。ただそれだけだ。
―――
(司side)
類が喜ぶ事は、何となくわかる。それと同じくらい、類が嫌がる事も。幼い頃からずっと類だけを見てきた。類だけがずっと、オレの中の“王子様”だったから。
(……列が、途切れん…)
ぐるぐると回り過ぎて目が回りそうだ。慣れないドレスも、慣れないダンスも疲れてきた。ヒールの高い靴だって履き慣れていないから、足が痛い。それなのに、ダンス待ちの列が全然途切れない。
類に喜んでほしくて、準備も頑張った。ダンスの練習だってしたし、エスコートされる時の手のかけ方とか色々学んだ。気を悪くさせないお誘いの断り方も、マナー講師に聞いていたのに、全て無駄になった気分だ。
(こんなつもりでは無かったのだが、……ままならん…)
類があまりに素直に褒めてくれるから、嬉しかった。学院に通っていた頃と比べれば、劇的な変化だ。何年も避けられてきた初恋の相手が、オレを見て『綺麗だ』と言ってくれたのだから。それだけで、頑張って準備した苦労が報われた気がした。それなのに、何故か類は不機嫌になるし、オレもつい言い返してしまって、類が嫌がることを言った。
『オレだけ』と言ってくれる類は、『他の誰か』をオレが疑うのを嫌うのに。
(……類がオレを好きだと言ってくれるのを、疑うつもりは無い…)
正式に婚約発表をしたのは今日だが、学院を卒業する前にこの関係は始まっていた。
一時はオレが女だから類に言い寄られているのかと思っていたが、そうではないのだと、今なら分かる。類は本当に、オレだけを見てくれるから。それでも、今まで色々な女性と一緒にいたのを知っている。類にオレではない初恋の相手がいる事も。それを全部見ないふりして、類の『好き』を信じていたかった。信じていた。
だと言うのに、オレが他の男にダンスの申込みをされていても、別の女性と一緒に笑って話をしているから腹が立ったんだ。助けにくるとか、割って入るとか、少しはしたらどうなんだ。オレは、類が他の女性と並んで立つだけで腹が立つのに。
(以前、類は幼馴染みだと言っていたが、あの人と一緒にいるのを見るとモヤモヤしてしまう…)
若草色の髪の綺麗な人。草薙家の一人娘で、神代家と親交があると聞いた。女性関係が広い類が、一番一緒にいるのが彼女だ。だから、少し対抗意識を持ってしまうのも許してほしい。あんなふわふわで綺麗な髪や、女性らしい声もオレにはない。男として育てられて、ガサツな所もある。オレは、他の御令嬢と比べたら女性らしくないんだ。
そう思うと、なんだか無性に悔しくて泣きたくなる。それでも笑っていなければならないから、無理やり愛想笑いで相手をしていれば、漸く曲が止まった。一つ息を吐くオレに構わず、入れ替わるように違う男が目の前に立つ。長い自己紹介と聞き飽きた褒め言葉に、口元が引き攣るのを耐えながら笑顔を続ける。
そうして差し出された腕に、体が固くなった。
(……そろそろ、終わりたいんだが…)
まだまだ減らないこちらを見る令息達の視線と、目の前の男の緊張した表情に言葉を飲み込む。社交は大切な仕事の一つだ。けれど、あと何回踊れば終わるのか。
正直、誘われるなら類が良い。在り来りな褒め言葉も、チープな愛の言葉も、類からならなんだって嬉しいと思えるのに。目の前の男は何度見たってオレが望む相手には変わらない。
ちら、と先程類がいた場所に目を向ければ、もうそこに類の姿はなかった。あの御令嬢の姿もない。
(…どこへ、行ったんだ……?)
胸の奥が、痛い気がした。指先からゆっくりと冷たくなるような感覚と、類の姿が見えなくなったことに対しての不安で、喉が詰まったような錯覚を起こす。どうしよう、と頭の中がそれでいっぱいになって、疲れと足の痛みも重なり泣いてしまいそうだった。目の前の相手が不思議そうな顔をするのが見えて、反射的に愛想笑いを返す。散々断り方を学んだのに、全く思い出せない。
声さえ出なくて、はく、と口を開いては閉じるを繰り返す。そんなオレの腰に不意に手が回されて、体が後ろへ引かれた。
「申し訳ないけど、そろそろ僕の婚約者を返してもらってもいいかい?」
「………、…」
「少し休憩した方がいいよ。向こうで風に当たろうか」
「………………っ…」
聞き慣れた声に、胸の奥がじわりと熱くなる。気を張っていた肩から力が抜けて、ゆっくりと肺に空気が入っていく。それと同時にじわりと視界が滲んで、それを誤魔化すように顔を俯かせた。腰に触れる手に触れれば、オレより大きくて、温かい気がした。
「…っ、わ……、類…?」
一瞬で体が傾いて、足が床から離れる。類の顔がとても近い距離にあって、横抱きに抱えられたのだと気付いた。にこ、と周りに愛想笑いを浮かべる類が、オレの顔を見ずにそのまま歩き出す。類が不機嫌なのを感じて、口を噤んだ。寄りかかるように類の方へ顔を寄せて、目を瞑る。
なんとなく、『怒られるのだろうな』と、そう思った。
「類、急にいなくなるからびっくりしたんだけど」
「あぁ、すまないね。どうしても気になってしまって」
ふと、聞き覚えのある声が聞こえて、手を握りしめる。脳裏にふわふわの髪が浮かんで、顔を更に類の体の方へ向けて逸らす。寝たふりを決め込んで黙っていれば、女性の溜息が聞こえた。
「別にいいけど、気にするなら拗ねてないで傍にいれば良かったじゃん」
「耳が痛いね。今夜は難しそうだし、今度改めて、司くんを紹介させておくれ」
「はいはい」
オレ以外に気安く話す類がなんだか珍しく感じると共に、やはり少し胸の奥が痛い気がする。とても親しい友人のようなやり取りが羨ましい。
体が揺れ、足音が鳴りだす。類が歩き出したのだと感じて、ホッと息を吐いた。心が狭いなぁ、と自分に苦笑して背を丸める。ぎゅ、と類の服を強く掴めば、扉の開く音が聞こえた。
「…司くん、下ろすよ」
「………」
「眠っているなら、ベッドまで運ぼうかな? ついでに寝苦しそうなそのドレスを脱がせてあげても良いのだけど?」
「……寝てない…、馬鹿…」
「残念。それなら、ソファーでいいよね」
態とらしい類の言葉にムッ、と眉を顰めて顔を上げれば、くすっと笑った類に肩を竦められた。ソファーに座るよう下ろされ、背もたれに寄りかかる。むす、とした顔のままでいれば、類がオレの足元にしゃがみ込んだ。ドレスの裾が捲られ、思わず裏がったような声が口をついた。
「る、類っ、なにして…?!」
「…足が痛いならダンスなんて断ればよかったじゃないか。こんなになるまで慣れない靴で動いて、傷が残ったらどうするの」
「っ、……そ、れは…」
「裾、押さえていて。今手当てするから」
言われた通りに裾が落ちないよう押さえれば、類が立ち上がって部屋の棚から箱を持って来た。そっと足に類の手が触れて、靴が脱がされる。足首から垂れる血が拭われて、慣れたように消毒がされ布が当てられた。くるくると包帯を巻かれ、外れないよう先を結んで止められる。
丁寧にオレの足を見て傷を探す類に、唇を引き結んだ。
(…こういう、女性慣れしている所が嫌なのに、……かっこよくて、好きだ……)
我ながら矛盾している。他の女性にもこういう風に接しているのだろうかと思う度妬けてしまうのに、いざ類に女性扱いされると、胸が苦しい程ドキドキする。嫌だったはずだ。女性慣れしている類が苦手だったはずだ。だがそれでも嫌いになれないのは、類がオレにとっての“王子様”だからだ。
熱くなる顔を冷ますために、首を左右へ振る。先程まで他の女性と一緒にいた事を、忘れてならないだろう。
「とりあえず、この部屋で少し休もう。挨拶は終わっているし、終わりが近づいた頃に戻れば、問題ないと思うよ」
「………そうだな。それなら、類は先に戻っていていいぞ」
「……君を置いていけと言いたいのかい?」
「……………」
救急箱を片付けた類が、不服そうにオレをじ、と見る。そんな類から顔を背け、両手でドレスの裾を握りしめた。
先程の御令嬢を待たせているのだろう。それなら、オレに構わず行けばいい。休むくらいなら、一人残されても問題ないだろう。他の誰かに絡まれることもないのだから。
それでも、『置いていけと?』と問いかける類に返事が返せなかったのは、“行ってほしくない”からだ。ここに居て、隣に座っていてほしいと、思ってしまっているから、返事が返せない。なら『行かないでくれ』と言えればいいのだが、如何せん、かっこ悪くも先程の事でいじけた自分は、素直に言葉に出来ないようだ。
きゅ、と唇を引き結べば、深く息を吐く音が聞こえた。
「君が嫌だと言うなら出ていくけど、その前に僕にも少し時間をくれるかい?」
「…それは、どういう……?」
類が片脚をソファーへ乗り上ると、ギッ、と鈍い音が聞こえてきた。顔を上げれば、じっ、とオレを見る類と目が合う。前髪を払うように指先が額を掠め、次いでそこへ唇が触れる。
思わず息を飲むと、目の前で類の綺麗な瞳が細められた。
「そのままの意味だよ。嫉妬で狂ってしまいそうだから、今から少しの間、君を独り占めしたいな、って」
「は…? 嫉妬…? 類が……??」
「当たり前でしょ。君、ずっと囲まれていて、断りもしないし」
「……気にしないのかと、思った…」
止めに来なかったから、構わないのかと思った。ずっとあの人と一緒にいたから、オレの事なんて気にならないのだと。それで一人ムキになって誘いに乗って、馬鹿みたいに何人もと踊って足を痛めて、どうしようも無い自分が情けなかった。類以外に興味なんてないのに、類の気を引く方法が分からなくてから回って、馬鹿みたいだと。効果なんてなかったと思っていたのに、そうではなかったのか。
呆気としていれば、類が眉間に皺を寄せ寄せて じとりとオレを見てくる。鼻が摘まれて、ほんの少し不機嫌そうな声で「あのね」と声が落とされた。
「君が思っている以上に僕は司くんが好きなんだよ。人目に触れさせたくないし、手でさえも誰にも触れてほしくない程に、君の全てが僕のモノならいいと思ってるんだ」
「…っ、……」
「君が楽しいなら、僕は止め無いよ。けれど、何も思わない訳では無いんだ」
じわりと、顔に熱が集まる。胸の奥がなんだか温かくなっていく気がして、口元が緩んだ。へにゃりと情けない顔をするオレに、類が大きく溜息を吐くのが分かる。
指が鼻から離れていき、少し違和感の残る鼻先を手で押さえる。と、額に柔らかいものが触れた。
「僕以外に触れさせてほしくはないし、出来ることなら、僕以外見ないでほしい」
「んっ、…、る、ぃ…?」
「君は僕のモノだって言いたかったし、見せ付けてあげたかった」
「…んんっ、……ちょ、と…待て、類っ…、どこ触っ、…ひゃっ…?!」
ちゅ、ちゅ、と類の唇が頬から首へ移動していく。普段あまり触れない首元は、唇が触れるだけで擽ったくて変な感じがしてしまう。そこへ何度も態とらしくリップ音をさせて口付けられ、羞恥で顔が熱くなった。
類にこんな風に触れられるのは、嫌では無い。だが、婚約者とはいえまだ結婚もしていないのに、体に触れるというのは駄目だろう。ぐぐぐっ、と類の肩を押して『離れろ』と言外に訴えるも、全然離してくれる気配がない。そればかりか、ぢぅ、と強く喉元に口付けられ、ぴりっとした痛みが一瞬走った。
「っ、類…、やだっ、……んっ…」
「司くん、好きだよ。今夜の君はとても綺麗なのだから、これ以上他の男を誘惑するのだけはやめてね」
「…ぃっ、…、……ゃ、るいっ…、ん、…分かったから、やめっ…」
ちゅ、ちゅ、ちゅ、とぴりっとする口付けが喉元からゆっくり下へ移動し、鎖骨やドレスで覆われていない肌の上に何度もされる。特に布地ぎりぎりのラインを狙って胸元に口付けられるのは、なんだかイケナイコトをしている気分がして恥ずかしく堪らなかった。じわりと涙も滲んできて、恥ずかしさに耐え切れず両手で顔を覆う。
触れられるのは嫌ではない。嫌ではないが、これ以上は恥ずかしくて死んでしまう。キスだって恥ずかしいのに、普段男性に触れさせない自分の体にこんなに何度もキスをされるのが恥ずかしくないはずがない。
腰がゾクゾクとしてきて、足が震える。本当に、これ以上は無理だ、ふるふると弱々しく首を左右に振れば、顔を覆う腕が掴まれた。力が入らないオレの抵抗も虚しく、呆気なく赤くなった顔が類の前に晒される。涙の滲む顔を見られたくなくて、ほんの少し横へ背ければ、唇が重なった。
「…愛しているよ、司くん」
「………ん、…オレも、類が、好きだ…」
「君の嫌がる事はもうしないから、あと少し、そばに居ても良いかい?」
オレを甘やかすような声音に、胸の奥がきゅぅ、と苦しくなる。『類が好きだ』とオレが言っただけで、そんなにも嬉しそうな顔をしてくれるのか。たったそれだけで、類のそんな顔が見れるなら、嬉しい。優しく掴まれた手首から、類の熱が伝わってくる。それが一層オレの心臓の鼓動を早めた。優しく触れた唇の感触が残っていて、物足りなさに唇を引き結ぶ。
口と口が触れ合うキスは、胸がいっぱいになる程幸せで好きだ。類が本当にオレを好きなのだと実感できて、嬉しくなる。
「…司くん?」
「………類、好きだ。オレも、……類に、傍に居てほしい…」
「……ありがとう、司くん」
嬉しそうに目を細めて笑う類に、自然とオレも口元が緩んだ。
もう一度されたキスは、先程よりも優しくて、少しだけ長く感じた。
―――
「寧々、この人が僕の婚約者の司くんだよ」
「知ってる」
「司くん、こっちは僕の幼馴染の寧々だよ」
「知っているが」
何とも変な状況の中、類だけがにこにこしている。
類の強い希望で、オレは今類の幼馴染みの御令嬢を紹介されていた。お互いに名前も顔も知っている為紹介も何も無いが、類だけは満足そうにしている。何度も見たことのある若草色の髪を揺らす御令嬢は、オレと目が合うと隠れるように類の側へ寄った。それを見て、思わず胸の奥がモヤっとしてしまう。
以前パーティ出会った時、人見知りだと類が言っていたのは知っているが、いくら幼馴染みでもオレの婚約者の後ろへ隠れるのはやめてほしい。
むぅ、と眉間にほんの少し力が入ってしまうオレに気付かず、類は彼女に「大丈夫だよ、寧々」と優しく声をかけた。
「以前会った時は皇太子としてだったな。これから同じ女性として宜しく頼む」
「…まぁ、はい……、宜しくお願いいたします…」
何故ここまで警戒されているのだろうか。一向に類の後ろから出てこない御令嬢に、無理やり作った笑顔が引き攣りそうだ。
「すまないね、司くん。寧々は人見知りで、最初は誰にでもこんな感じなんだ」
類はどこか楽しそうにそう言った。幼馴染みとはいえ、彼女は類より一つ歳が下だ。妹の様に思っていると以前聞いたこともある。だからこそ、彼女と距離が近くても気にしていないのだろう。だが、オレとしてはモヤモヤしてしまうのだから仕方ない。
類が取られた気がして、落ち着かない。なんだか悔しくて、彼女に対抗するように類の腕を抱き締めた。二人が目を瞬いてオレを見る。普段やらない分恥ずかしさはあるが、オレなりの意思表示のつもりだった。
「…る、類とは半年後に結婚する予定だ…! もう少ししたら類も王城に住む事になるから、オレと顔を合わせる機会も増えるだろう…!」
「………ぇ、いや、…そんな必死に牽制されなくても、わたしは類の事なんとも思ってませんし…」
「…そ、そうなのかっ?!」
「ぅ…、声でか…」
思わず大きな声が出てしまったオレに、彼女は顔を顰めた。類が態々紹介する程仲が良く、しかもオレを前にして類の後ろへ隠れるという事は、少なからず類に気があるのかもしれんと思っていたのだが、どうやら違うようだ。ホッと胸を撫で下ろすと、彼女は不服そうに顔を顰めて類から一歩離れた。本当にただ人見知りなだけのようだ。
なんだか気恥ずかしくなってしまってオレも慌てて類の腕を離す。と、今度は腰に腕が回され、類に引き寄せられた。先程より正面からぴったりとくっつく体に、思わず声にならない悲鳴が飛び出しかける。
「寧々は貴族階級とか社交が苦手でね、侯爵という家柄だけど、もっと爵位の低い家に嫁いで引きこもりたいといつも言っているんだよ」
「ちょっと、類。いらない事まで言わないでよ」
「司くんが心配してくれているみたいだからね。僕は司くん以外の女性に興味は無いって何度も言っているのに、全然信じてくれないんだよ」
「…し、信じていないわけではないが…、類の交友関係が広いから……」
じと、とした目で類を見る彼女にホッと胸を撫で下ろす。オレの隣でくすくすと笑う類は、全然離してくれる気配がない。なんだか気恥ずかしくなって、腰に触れる類の手を掴んだ。ぐっ、と力を入れるが、やはり全然離れん。そわそわとする気持ちのままあっちへこっちへと視線をさ迷わせれば、御令嬢が大きく溜息を吐いた。
「幼い頃に一目惚れされてからここまで執着される王女様には同情するわ。わたしなら絶対嫌」
「……幼い頃って、…なんの話だ…?」
「え…、だって、類がずっと探してた初恋の人って、王女様でしょ…?」
「うん、そうだよ」
「…………………は…?」
目を丸くさせて不思議そうな顔をした御令嬢の問いに、類があっさりと頷いた。それに思わず間の抜けた声が口をつく。
類の初恋相手といえば、オレが類と喧嘩した原因の相手ではないのか。類に一目惚れしてから毎日会うのを楽しみにしていた類が、いきなり『好きな子が出来た』と言った、まだ見た事のない類の初恋相手だよな? 結局誰だったのか聞いても、イマイチハッキリした答えが返ってこなかった。『可愛い子だよ』とか、『僕のことが大好きな子でね』とか、曖昧に返されて、ずっとオレには話したくないのだと思っていたのに。
こんなにあっさり頷かれ、しかもその相手が聞き間違いでなければ“オレ”だと言っていなかっただろうか?
唖然と類を見れば、にこにことご機嫌な顔を向けられた。
「言ったでしょ? 僕が好きなのは司くんだけだって」
「…いや、…え、…だって……は…?」
「………まさか類、王女様に言ってないの…?」
「言ったよ、この国で一番可愛いお姫様だって」
「そ、そんなものわかるわけが無いだろうっ?!」
あっけらかんとする類に、ぶわりと顔が熱くなる。
類の幼馴染みである寧々さんも手で顔を押さえて諦めたような顔をしていて、ただ類だけがこの状況の中で楽しそうだ。
類が初めて好きになった相手がずっと気になっていたのに全然分からないから、てっきり幼馴染みで一番一緒にいる寧々さんだと思っていたのに、どういう事だ。というか、それではオレは“オレ自身”に嫉妬して類と喧嘩したということか?! なんだそのくだらない話は?!
いや、そもそもあの頃はまだ類に女だとバレていなかったはずだ。王妃教育以外でドレスも着たことがなければ、普段から常に男として過ごしていたから、類に出会うはずもない。というより、出会った記憶が無い。
「いつだ?! あの頃のオレはいつ類に会ったんだ?!」
「たまたまこっそり司くんに会いにお城へ行った時、庭園で本を読む君を見かけたんだ。すぐに城内に入ってしまって、声をかけることも出来なかったから、名前も知らない君を何年も探し続けることになってね」
「う、嘘だっ…だって……、っ…」
「君が女性だと知ったあの夜、僕がずっと探していたのが君だと気付いて、嫌われているのは知っていたけど諦めきれずアプローチをかけさせてもらったんだ」
にこにことオレの手を取って手の甲に口付ける類に、出かけた言葉を飲み込む。
もしや、“女性だと知られた”からやたらと類が距離を縮めてきたのではなく、“オレが初恋の相手だと知った”から、あんなにも構いに来たのか?! 朝迎えに来たり、学院内でもやたらと声をかけてきたり、テストで最高成績を出したり実技テストで優勝したり、で、デートに誘ってきたのもそういう事なのか?!
今更になって類のオレに対する態度の変化の理由が分かってしまった。ずっと女性だから言い寄られているのだと思ったが、“初恋の相手(オレ)だから”言い寄ってきたのか?!
「……ほんと、同情しますよ。類、昔からずっと『金色の髪の笑顔が可愛い御令嬢を探しているんだ』って、色んな女性に声掛けて知り合いにそういう人がいないか聞いて回って探してましたから」
「んぇ…?!」
「執念深く愛が重いしかなりのヤキモチ妬きな心の狭い男ですが、末永くよろしくお願いします」
「寧々、さすがに酷くないかい?」
さらっとそう言ってオレに背を向けた寧々さんに、顔が引きつる。いや、オレも大概嫉妬深いが、そういう意味ありげなことを言い残して去らないでくれ。多分、オレは今後は寧々さんととても仲良くなれる気がするんだ。
なんて背を向けて離れていく寧々さんに心の中で訴えていれば、類に手を引かれ体が一層類の方へ引き寄せられる。ぎゅぅ、と抱き締められて身動きの取れなくなったオレに、類がとてもいい笑顔を向けてきた。
「これで少しは僕の想いも信じてもらえたかい?」
「いや、その、なんか、すまん、お前の気持ちを疑って……」
「ふふ、それなら、今度はこの想いを受け止めてもらわなければね」
「ぅ、…る、類さん…? その、顔が、近いというか…」
にこにこと笑顔の類に、体が後ろへ無意識に逃げようとしてしまう。ひやりと冷たいものが背を伝い落ちていき、足がすくみそうになる。そんなオレにキスを一つして、類が甘やかす時の低い声音で「司くん」とオレの名を口にした。
「覚悟してね、僕のお姫様」
「っ、ま、待て待て待てっ、…せめて、室内にしてくれぇっ!!」
この後、嫌という程類から愛を受けて恥ずかしさで死にそうになったのはまた別の話である。