メインディッシュは俳優さん以外テイクアウト不可能です×!(司視点)
バイト先に、最近変わった人が来る。毎週水曜日の夕方5時30分頃だ。その人は帽子にマスク、ガラスの分厚いメガネをしている。そしていつも決まった品物を買って行く。
(マカロニサラダと、ハムカツ、鮭のおにぎり、それから鰤の照り焼き)
小さなパックに詰められたおかずをレジに打ち込んで袋へ入れる。お箸は必ず付けていく。それと、レシートは要らないらしい。挨拶はない。でも、毎週水曜日の夕方に来るんだ。ちらりと見える綺麗な藤色の髪が印象的な、背の高いお客様である。
―――
天馬司、17歳。神山高校の二年生だ。趣味は劇や映画の鑑賞。一つ下の妹を含めた四人家族で暮らしている。現在、友人の紹介で弁当屋のバイトをしている。
(今日は水曜日だな)
更衣室でいそいそと学校の制服からバイト先の制服へ着替える。配布されている白いエプロンをまとい、後ろ手にリボンを結ぶと、ピシッと気持ちが引き締まった。弁当屋『和んだほぃ』のアルバイトを始めて一年経つ。放課後店に行き、主にレジ担当だ。この店は自営業ということもあって、定員の数は少ない。調理場に二人、レジ兼店内従業員が一人から二人だ。それなりに人気の店で、お昼時と夕方は特に混雑する。六時からは割と戦争だ。シフトは大体八時まで。平日はほとんどバイトをしている。土日も予定がなければここにいるので、お客さんの顔は常連さんなら大体覚えられたと思う。
「いらっしゃいませ」
カラン、と入口のベルが音を鳴らす。条件反射のように挨拶をすると、ベージュのコートを着た男性が入ってきた。
(あ…)
思わず目がそちらへ向く。時刻は五時二十五分。若干早い来店に、背筋をそっと正した。黒い帽子を目深に被り、マスクをした男性はいつものようにショーケースの前へ来る。個別売のおかずを一通り見てから、細い指がガラスへ向けられた。
「これと、これ」
「マカロニサラダと、ハムカツですね」
「それから、これも」
「鮭のおにぎりですね。かしこまりました」
声は少し低め。でも、良い声だと思う。思う、というのは、マスク越しで少しくぐもって聞こえるからだ。お決まりのおかずを個別売用の小さな容器に詰めていく。いつもなら、あと一品頼むのだが、今日は悩んでいるようだ。パチン、と透明な蓋を被せて台に置く。そういえば、今日は鰤の照り焼きは無かったな。材料の仕入れの関係で、たまに商品が入れ替わる。今日はたまたまその日のようだ。
「………」
黙ったままショーケースのを見つめる男性は、何も言わない。品数はあるが、いつも同じものしか頼まないので、好みがあるのかもしれん。ふむ、と男性客の様子を眺めてから、オレはレジ横へ目を向ける。今日はほんの少し風が冷たい。冬ではないのでそこまで寒い訳では無いが、こういう日は温かいものも良いかもしれん。
「もし宜しければ、お味噌汁もおすすめですよ」
「…そぅ。何が入っているんだい?」
ポップを指さしながら声をかけると、男性が視線を上げた。でかでかと書かれた『なめこ』の文字を見ながら、彼が問うてくる。なめこの味噌汁は、なめこの味噌汁なんだがな。確か、と今日出す予定の味噌汁の説明を思い出す。なめこと、絹ごし豆腐、それからワカメとシンプルな具材のスープだったはずだ。
「なめこと、豆腐、わかめですね」
「なら、それも」
「ありがとうございます」
カタン、と銀色の蓋を開けて味噌汁用のカップに注いでいく。下の方から掬って、具は少し多めにしてあげた。しっかりと蓋を閉めてそれを台へ並べると、男性が財布を取り出した。今日はここまでのようだ。レジにポチポチと商品を入力していく。マカロニサラダと、ハムカツ、おにぎりにお味噌汁。立派な一食分の値段は、三百八十円だ。かなりリーズナブルである。
「オレ、なめこの味噌汁も好きなんで、気に入ってもらえると嬉しいです」
「……そぅ、ありがとう」
「はい。ありがとうございましたっ!」
袋を持って入口へ向かう後ろ姿へ、ぺこ、と頭を下げる。一瞬見えた瞳は、珍しい金色だった気がする。揺れる藤色の髪に、今週も呆気なかったな、と息を吐いた。この男性客が来るのが、ちょっとした今のオレの楽しみなのである。
―――
最初は、怪しい人だと思った。いつも帽子とマスク、メガネをかけていて、更には丈の長いコートを着ているからだ。不審者だと思っても仕方がない。だが、そこはお客様だ。不審に思いつつも笑顔で接客して見せた。
初めて来た時、男性はショーケースの前で酷く悩んでいた。どれを選ぶべきか、決まらなかったようだ。じっと見つめている姿に、黙って見守っていたのだが、これが長かった。五分以上も固まって見つめる男性に、『マカロニサラダがオススメですよ』と話しかけたのがきっかけかもしれん。驚いたように顔を上げた男性が、オレをじっと見つめてくる。その、分厚いメガネの奥で、金色の瞳と目が合った。とても、綺麗な色だった。
『……サラダ…』
『ここのマカロニサラダは、マカロニとゆで卵、コーンとハムだけのシンプルな具で、マヨネーズと塩コショウ、それから少しのお酢が入ってます』
『…そぅ』
『シンプルなのに、凄く美味しいんですよ。オレも良く帰りに家族分買って帰ったりしてます』
お節介とは分かっていても、言葉が止まらなかった。この店は、自営業ということもあって、家庭の味を大事にしている。決して偏ったメニューではなく、家族の好きなメニューを大切にしているのだろう。マカロニサラダは末っ子であるオレの友人が好きなメニューなのだと言っていた。それを聞いてオレも食べてみたが、これが美味しかった。普通は野菜が何かしら入っているのだが、それが無いからこその優しい味がする料理だ。
オレの言葉を聞いて、男性は少し考える素振りをしてから、『じゃぁ、それを』と小さく返してくれた。おすすめを聞いてくれたのが嬉しくて、笑顔で「はいっ!」と返事をしたら少し驚かれてしまった。そんな男性客は、ハムカツやおにぎりも注文し、さっさと帰っていった。なんとも不思議な雰囲気のお客様だ。
その一週間後、同じ時間に来た時は、目を瞬いてしまった。帽子にマスク、メガネにコートのその人はやはり不審者の様だった。だが、前回と同じメニューを頼む姿に、つい頬が緩んでしまう。
(良かった、美味しかったのだな)
たったそれだけ。
別に会話も無い。あの時はありがとう、なんて感謝がある訳でもない。ただ、週に一回来ては、オレのおすすめを買って帰る姿に、親しみを覚えてしまうのだ。また来週も来るだろうか、と。今日も来るだろうか、と。他の日に来ることは無いのか、と。たった一度会話した程度のお客様。けれど、確かにその人は“常連客”なのだ。
―――
「………また、話してしまった…」
ゴロン、とベットの上を転がる。いつもよりちょっとだけ多く聞けた声を思い出して、へにゃりと頬が緩む。二度目のおすすめを買って貰えた日である。たまたまおかずが無かった日。だが、次回は何を買いに来るのか少し楽しみでもある。味噌汁は生憎と日替わりだが、どの味噌汁も美味しいからな。次に来る時も、おすすめしてみようか。
「…流石に、何度も話しかけるのは執拗いか…?」
ごろり、と体を反転させる。知り合いでもないバイトに話しかけられるのは、迷惑だろうか。だが、なんというか、気になってしまうのだ。たまに見える金色の瞳が綺麗だから。揺れる藤色の髪が綺麗だから。マスク越しにくぐもっていても、どこか聞き取りやすい低い声が、なかなか離れない。次回来たら、また別のものを薦めてみようか。あの店の料理はどれも美味いからな。
「………せめて、味の好みとかが分かれば、オススメもしやすいのだがな…」
今回みたいに、品物が変わった時にオススメがしやすい。今回は味噌汁をおすすめしたが、他にも沢山あるのだ。次にもし話ができるようなら、他のものも薦めてみるか。ころり、ともう一度ベットの上を転がって、オレはそっと目を閉じた。
―――
「今日は雨か…」
ぼんやりと外を眺める。今日はお昼過ぎから雨が降っていた。雨の日はお客さんも少ない。まぁ、雨の日にわざわざ家を出る人も少ないだろうからな。窓ガラスに雨の雫が当たるのをじっと眺めながら、誰もいない店内をぼんやりと見つめる。時刻は夕方五時三十二分だ。いつもならそろそろ来ているだろうお客さんが来ない。
「………今日は、やはり来ないだろうか…」
雨の日では仕方ないかもしれん。毎週水曜日は、少し楽しみにしていたのだがな。調理場では新しいレシピの試作で盛り上がっていたので、暫くこちらに様子見は来ないだろう。正直暇だ。雨の降る音と、店内に流れる静かなBGM。ぼんやりとしたまま、明日の授業はなんだったか思い出す。確か、現代文と数学のどちらかで小テストがあったような。帰ったら復習しなければな。後は、体育があるから、タオルも用意しないとな。一つひとつ指折り数えていると、カラン、と入口で音がした。
「あ、いらっしゃいませっ!」
見覚えのあるコートは濡れて少し色が変わってしまっている。黒い帽子にマスク姿の装いで、あのいつもの男性客が店内に入ってきた。時刻は五時四十二分である。軽くコートを叩いてから、その人はまっすぐショーケースの前へ来た。いつも通り、顔はよく見えない。
「雨の中ありがとうございます」
ぺこ、と小さく頭を下げると、その人は不思議そうに首を少し傾げた。そのまま、いつものようにマカロニサラダとハムカツ、鮭のおにぎりを選んでいく。今日は鰤の照り焼きもある。その後、彼はレジのポスターに目を向けた。
「今日は、何のスープなんだい?」
「本日は豚汁ですよ」
「………じゃぁ、いいや」
ふい、と顔を逸らされてしまった。どうやら豚汁には興味が無いらしい。せっかく向こうから話しかけてくれたというのに、もう会話が終わってしまった。ふむ、と一つ考える。油っこいものが嫌いなわけでは無さそうだが、何がダメなのだろうか。
「それなら、こちらのきんぴらごぼうとかどうですか?少しピリ辛なところが美味しいんですよ」
「……いらない」
「でしたら、こっちのだし巻き玉子とかはどうです?出汁がたっぷりですが、お砂糖も使っていて少し甘めなんですよ」
「…………まぁ、それなら」
じゃぁ、ひとつ。と頷いた男性客にパッと表情を綻ばせる。卵は嫌いではないみたいだ。分厚いだし巻き玉子を二切れほどパックに詰め込む。甘いものが好きなのだろうか。きんぴらごぼうがダメだったのは何故なのか。アレルギーとかでは無さそうだが。鰤の照り焼きが食べれるのだから、甘いのだけと言うわけではないのだろう。
「それではここまでで、四百三十円になります」
お金がトレーの上に置かれ、お釣りを手渡す。袋に詰めたお弁当を渡すと、男性客が小さく「ありがとう」と言ってくれた。初めて言われたお礼に、嬉しくなって、オレも笑顔でお礼を伝えた。
「ありがとうございました」
カサっ、と袋を片手に入口へ向かう後ろ姿を見つめる。なんというか、スラッとしてて背が高いのだ、この男性客。モデルさんと言われても信じてしまうかもしれん。そんな事をぼんやりと考えながら見ていると、何も持たずに入口の戸を開けた。外はかなりの雨が降っているが、傘立てに傘は見当たらない。
「え、あ、あのっ、…!」
「…ん?」
思わず大きな声で呼び止めてしまった。振り返るその人は、黙ってオレを見返す。慌ててカウンターを出て近寄るが、やはり入口に傘は見当たらなかった。そういえば、入ってくる時コートが濡れていなかっただろうか。
「傘、無いんですか?」
「あぁ、…急に降ってきたからね」
「それじゃぁ濡れちゃいますよ…ちょ、ちょっと待っていて下さいっ!」
それだけ言って、慌てて更衣室に駆け込んだ。裏口の方に従業員用の傘立てがあるので、そこから自分の傘を掴んで急いで店内の方へ戻る。窓の外を眺めていた男性客は、オレがもどると、こちらへ顔を向けた。手に持っていた傘を差し出すと、首を傾げられる。
「これ、使ってください」
「…………これは?」
「オレの傘なんですけど、もう一本あるので」
レジ袋とは逆の手に近付けて、早口にそう伝える。鞄の中には折りたたみ傘が入っているから、これが無くても大丈夫だ。この雨の中、お客さんを帰す方が心配になってしまう。自分のなので、お店にも迷惑はかけないだろう。じっと見つめて待てば、男性客の手がオレから傘を受け取った。
「なら、借りるね」
「はいっ!」
カラン、と店のベルが鳴って、男性客が片手で傘の留め具を外して手元のボタンを押す。大きめの傘がバン、と音を立てて開いた。くるりと振り返った男性客は、ほんの少しだけマスクをずらすと、口元に笑みを浮かべる。
「ありがとう、天馬くん」
「……ぁ、またのお越しを、おまち、してます…」
ぱちゃ、ぱちゃ、と雨が降る中出ていった男性客を、呆然と見送った。いつもの言葉が、なんだか違う国の言葉みたいになってしまった。オレは上手く言えたのだろうか? マスクをしっかりとつけ直した男性客は、振り返らずに大通りの方へ曲がっていく。その後ろ姿が見えなくなったところで、オレはふらりとカウンターへ戻った。
「…………本当に、綺麗な声、だな…」
初めて、マスクを外したところを見た。見てしまった。綺麗な顔をしていたと思う。ほんの数秒ではあったが、見惚れてしまうほどに。メガネと帽子のせいで、あの目が見られなかったのが残念だ。くぐもっていない声は、凛としていて、思わずドキドキしてしまった。あぁいう人が、かっこいい大人の男性と言うやつなのだろう。納得だ。
「…オレも数年後はあんなにかっこよくなれるのだろうか?」
いや、無理かもしれんな。苦笑し、カウンターに腕ん組んで突っ伏す。六時になったが、お客さんは来ない。もう少ししたら、いつもみたいに混むだろうか。忙しくなれば、このよく分からないドキドキも忘れるかもしれん。
(………だが、悪くない)
恥ずかしいわけでも、困った感じでもない。悲しいのとも違う。怒りたい訳でもない。ドキドキして、ちょっとだけ気分が高揚している、そんな感じだ。もしかしたら、嬉しいのかもしれん。オレがあの男性客を常連さんとして気にかけているのと同じくらい、あの人もオレの顔を覚えてくれたのだろう。
「名前も、呼ばれてしまったからな」
うんうん。と一人頷く。きっとエプロンについたネームプレートを見たのだろう。確かにあの人は『天馬くん』とオレに言ったのだ。なんだか距離が縮まったようで、嬉しいと感じてしまっているのだろう。そわそわと気持ちが落ち着かない。次はまた来週だろうか。傘は、返しに来るのか。返しに来たら、また、話しかけてくれないだろうか。そしたらオレも、話してみたい。食の好みとか…。
「…………名前を、聞いても…迷惑ではないだろうか…」
お客さんがネームプレートなんて付けているわけがないからな。オレの名前は知って貰えたようだが、オレは名前がわからん。水曜日に来るあの人、とか、そんな風に呼ぶしかない。せめて、苗字だけでも教えて貰えれば…、なんて。いや、流石にお客さんと親しくなりすぎるのはどうなんだ。ぶんぶんと頭を左右へ振って、一度考えを消し去る。なんにしても、次の時はもっと美味しい料理をオススメしたい、それだけだ。
「…その為にも、オレももっと勉強だな!」
帰りにおかずをいくつか買って帰ろう。そう誓って、その後の仕事に打ち込んだ。
―――
「あぁ、やっぱりいた。こんにちは」
「い、いらっしゃいませっ?!」
急にかけられた声に驚いて、びゃっ、と飛び上がる。今日は金曜日。時刻は五時十五分だ。お客さんは全然いないので入口のマットを軽く掃除していたところに、カラン、とその人が入ってきた。ベージュのコートと、黒の帽子にメガネとマスク。慌てて箒を背後に隠して背筋を伸ばす。
「この前はありがとう。傘を返しに来たのだけど」
「ぇ、あっ、…ありがとうございますっ…!」
「ふふ、こちらこそ」
はい、と手渡された見覚えのある傘を受け取る。自分が動揺してしまっているのが分かって、物凄く恥ずかしかった。仕方がないだろう。毎週水曜日に来るお客さんが、傘を返すために違う日に来てくれたのだから。今日会うとは思っていなかったので、突然の来店に未だに頭が追いつかない。はく、はく、と口を開閉させて何を言えばいいのか思案していると、男性客は小さく首を傾げた。
「今日も、寄っていっていいかい?」
「ど、どうぞっ!!」
「ありがとう」
バッ、と端に避けて道を開ける。くすくすと笑う男性客は、カウンターの方へ向かっていった。脳内がプチパニックである。とりあえず、傘と箒はカウンター内の端っこに置き、レジ前に立つ。ショーケースを眺める姿を見ながら、深く深呼吸した。落ち着け。こんな事では引かれてしまう。むにむに、と頬を片手で摘んで唇を引き結んだ。今日こそは話しかけるんだ。もう充分過ぎるほど話した気はするが、本題はそこでは無い。お弁当屋の定員らしく、お客さんの好みを知ってオススメがしたいのだから。こほん、と一つ咳払いをすると、男性客が顔を上げた。
「これと、これを」
「鮭のおにぎりと、ハムカツですね」
「うん、あとこれも」
「マカロニサラダも追加ですね」
カタン、とショーケースからおかずを取っていく。小分け用のパックに詰め込みながら、もう一度息を吐いた。今日のオススメは大粒のミートボールと、蓮根の甘酢煮です。うん、完璧だ。これを噛まずに言えればいい。脳内で繰り返し復唱して、よし、と意気込む。
「あのっ、…」
「ん?」
「今日は、大粒のミートボールと、蓮根の甘酢煮がオススメですよっ!」
「そぅ」
ちらり、とショーケースに視線を向けた男性客にバレないよう、こっそりと拳を握り込む。大丈夫。急ではあったが脳内練習は完璧だ。いつも通り、説明すればいい。
「ミートボールはこの店の手作りで、普通より大きめに作ってるんです。ケチャップを使ったタレは酸味が程よくて、子どもにも大人にも人気のおかずなんですよ」
「確かに大きいね」
「蓮根は輪切りにして甘酢ダレを絡めているんですが、シャキシャキの食感が楽しいですし、酢が強過ぎないので食べやすいですよ」
「………うーん、それはいいや」
じ、とショーケースを見つめる男性客は、小さく返してくれる。どうやら蓮根の甘酢煮は好みではなかったようだ。甘めのものが好きなわけではないのだろうか。ミートボールの方を見ているようなので、そちらは気になるらしい。子ども向けの料理の方が好きなのだろうか。今度ハンバーグも薦めてみよう。顔を上げた男性客が、ショーケースを指さす。
「それなら、そのミートボールも少し」
「かしこまりました」
「今日のスープはなんだい?」
ちら、とレジ横のポスターに目を向けた男性客へ、オレは笑顔を向ける。今日はあおさの味噌汁だ。あの少ししょっぱい海藻の食感が、結構好きだ。家庭でも簡単に作れる味噌汁。
「今日はあおさの味噌汁です。あおさとお豆腐だけのシンプルな味噌汁ですよ」
「なら、それも」
「はい」
よし、と小さくガッツポーズをする。今日の味噌汁は好みらしい。前回は豚汁だったが断られてしまったからな。意外とシンプルな味付けが好きなのだろうか。このお客さんの好みは難しい。味噌汁用のパックにそっと注いで、しっかりと蓋を閉める。卵焼きも気に入って貰えたようで、今日はそれも追加だ。オススメした料理が気に入ってもらえるのは、なんだか嬉しい。
「丁度お預かりします。レシートは」
「いらない」
「ありがとうございました」
レジ袋を手渡すと、男性客がそれを受け取る。いつもよりちょっとだけ重たい袋を片手に、入口に向かっていく。と、男性客が急に足を止めた。くるりとこちらに振り返って、反対の手をポケットに突っ込む。
「はい、これ」
「え…」
「傘のお礼」
掌に、数枚のクッキーが入った袋が置かれた。ケーキ屋さんとかで見るような、可愛いクッキーの詰め合わせ袋だ。目をぱちぱちと瞬くオレに、その人がもう一度、「あの時はありがとう」と言ってくれた。ぶわわっ、と胸に温かいものが広がって、慌てて顔を上げる。
「あ、ありがとうございますっ!!」
ほんの少し手に力を入れると、カサ、とクッキーの袋が音を立てた。まさか、お返しが貰えるなんて思わなかった。お礼を言ったオレに、その人は軽く手を振ると、さっさとお店の入口へ向かっていく。クッキーの袋はカウンターに置いて、追いかけるように入口へ向かった。カラン、とベルが小さく鳴る。
「あ、あのっ、…」
外へ踏み出した後ろ姿に、慌てて声をかける。くるりと振り返ったその人は、黙ってオレの言葉を待ってくれた。バ、と頭を下げてお辞儀をひとつ。
「来週の水曜日も、お客様の御来店、お待ちしてますっ!」
言ったあとで、声が大きかったことに気付いた。幸い、店の前の通りに他に人がいなかったが、男性客は呆気としているようだった。途端に自分の発言が恥ずかしくなってしまって、顔を上げた後、お店の扉を慌てて開く。中に逃げ込もうとしたら、くす、と笑う声が聞こえた。
「来週も来るから、またオススメを教えてくれるかい?天馬くん」
「は、はいっ!喜んでっ!…えっと……」
「…神代。神代類だよ」
「また来週もお待ちしております、神代様」
ひらひらと手を振って帰っていくのを暫く見送って、へにゃりとその場にしゃがみ込む。まさか、こんなに話をするとは思わなかった。ドキドキと心臓が煩く鳴っているのを手で押えて、俯く。心なしか顔が熱い。柄にもなく緊張していたのだろう、まだ手が震えていた。名前を呼ばれるのは、二度目である。自分の名前なのに、何故かあの人が呼ぶと、なんかもっとこう、きらきらして聞こえるのだ。全然落ち着かない心臓を掴んだまま、目を閉じる。三回くらい深呼吸をその場でしてから、立ち上がった。今は仕事中だ。いつまでも店の前でしゃがみ込んでもいられない。
「…オレのオススメ、聞いてくれるんだな…」
ふへ、と頬が緩む。お節介かと思ったが、どうやら神代さんはオススメも聞いてくれるらしい。つまり、来週は話しかけても大丈夫という事だ。それが何だか嬉しかった。まだ緩んでいる頬を両手で摘む。いつもより熱い気がするのは、気の所為だろうか。むにむにと揉みながら、頭の中で何度もあの人の言葉を繰り返す。
「………神代さん。…神代、類さん…」
名前を聞けるとは思わなかった。背が高くて大人の男性。帽子やメガネにマスクで顔は全然見えないが、何となくかっこいい男性なのだと思っていた。まさか名前までかっこいいとは。本当にどこかでモデルなんかをしているのでは無いだろうか。芸能人とかにいそうな……。
「……ん?神代…?」
はた、とそこで目を瞬く。聞き覚えがある気がするのは何故だろうか。最近もその名前を聞いたような、聞かないような。あまりの嬉しさで、脳がそう錯覚しているだけか?いや、そんな事は無いはずだ。この名前、確かにどこかで…。
カウンターの中でクッキーの袋を握り締めたまま首を捻る。学校だったか、家でだったか、それともバイト先か。どこかで聞いたことがある名前なのに、思い出せん。珍しい苗字のはずなのだが、どこで聞いたのだろうか。腕を組んでとうとう悩み始めた所に、厨房から声がかかった。
「おい、そろそろ出来たてのコロッケが出るぞ」
「あ、はいっ!」
「右側のところ、一箇所あけてくれ」
「分かりました!」
昌介さんの言葉に、慌てて背筋を伸ばす。いかんいかん、今は仕事中だ。ショーケースの中を整理しながら、揚げたてのコロッケをトレーに移して並べた。その後、忙しい時間が来てあっという間に神代さんの事は頭から抜けていった。そのうちどこかで思い出すだろう、そう思うことにして、バイトをやりきる。いつもより多いお客さんを対応しながら、途中で手伝いに来た友人と二人でなんとか乗り切ることが出来た。
ふらふらになりながら、その日は家へ帰り、リビングのソファーに崩れ落ちる。制服が皺になるよ、という妹の言葉に謝りつつ、疲れきった体がどんどん沈んでいく。今日は早めに寝なければ、明日が大変だな、とぼんやり考えた。
『あの話題の小説のドラマ化が決定し、本日メインキャストが発表されたのですが、SNSで話題になり――』
「……む…」
たまたま見えたニュースの画面に、見覚えのある本の表紙が映し出された。面白いと評判になったミステリー小説である。友人に勧められて、オレも前に読んだが、かなり面白かったな。謎を次々に解決する探偵役のキャラがミステリアスでかっこいいのだ。ヒロインはずっと探偵に片想いをしていたのだが、最後は探偵が意味ありげなセリフを残し終わったので、あの二人がその後どうなったかは分からん。だが、その曖昧な感じが女性達の心を掴んだらしく、いまだに有名な作品だ。
「そうか、ドラマ化するのか」
それは是非とも見ておかなければな。映画鑑賞が趣味ではあるが、ドラマも色々なものを見てきた。俳優の動きや話し方はどれも個性があり面白い。自分が演劇をするわけではないが、見るのは色々と勉強になるからな。パッと画面が切り替わり、何人かの俳優の写真が並ぶ。きっとドラマの出演者達だろう。目立つ所に、映し出された写真を見た瞬間、ぴしり、と身体が固まった。
「……………ぁ…」
綺麗な藤色の髪が印象的な男性の写真に、頬をつぅ、と汗が伝い落ちた。金色の瞳が綺麗で、優しく微笑む口元には見覚えがある。すぐ下の名前を見て、ひくりと頬が引き攣った。
「…か、みしろ……るぃ…って……」
どこかで聞いた事がある名前?当たり前だ。学校で女子達が連日大騒ぎしてるじゃないか。確か妹の咲希がファンで、部屋にポスターがあった気がする。バイト先に行く時にいつも通る商店街にも、ポスターが沢山貼ってあっただろう。何故忘れていたんだ、オレは。
「……まさか、あの神代類、なのかっ?!」
バイト先に来る週一回のお客さんは、今を騒がす若手人気俳優だった。これはそういう話。