メインディッシュは俳優さん以外テイクアウト不可能です!× 16(司side)
「司くん、大丈夫?」
「ぉわっ…、な、なんだ、えむっ?!」
「最近ずーっと、むむむぅー!ってお顔してるよ?」
「…そ、それは、すまん……」
いきなり顔を覗き込んできたえむに驚くと、えむは心配そうにオレを見てきた。どうやら、変な顔をしていたらしい。えむ曰く、なにか悩むような顔だったとか。心配をかけてしまったのは確かなため、えむに謝ると、小さく首を振られた。「それより、何かあったの?」と問いかけてくれるえむに、言葉を詰まらせる。
なんとなく、顔が熱い気がした。
「……その、…今日は水曜日、だろう…」
「そうだね!あたしも習い事が終わったらお店のお手伝いに行くよー!」
「あ、あぁ……、いや、…水曜日は…、あの人が…」
「あ! 司くんの特別のお客さんだね!」
にぱっ、と目の前で表情を綻ばせるえむに、口を引き結ぶ。察しが良いえむに、どこまで話せばいいのだろうか。ほんの少し視線を下げて、手に持ったシャーペンを握り込んだ。
数日前にあんな事があったから、神代さんとどう顔を合わせていいか分からない。珍しく神代さんからもメールが来ないので、もしかしたら、変に思われたのかもしれない。それはそうだ。歳下の、しかも同性である男から、キスの仕方を聞かれるとか、意味がわからんだろう。あの後家に帰って冷静になってみれば、オレは何を言ってしまったのかと、自分の発言のおかしさに気付いてしまった。あれでは、『キスしたい』と言っているようなものでは無いか。
(…行き付けの店の定員からそんな事を言われては、神代さんが困ってしまうだけだ)
そもそも、告白すらしてない一ファンからそんな事を言われては恐ろしいだけではないか。あれから連絡も無いし、絶対引かれた。そうに違いない。来る時間は分かっているのだから、まずは直接謝るべきだろう。それで、変な誤解をされないように、きっちり弁明を…。そう考えている内に、とうとう水曜日になってしまった。弁明の言葉が、まだ決まりきってないというのに。
「司くん、とってもとーっても、楽しみなんだね!」
「……まぁ、それは…」
「あたしもスパパーッ!ビューン!ってお店に帰らなきゃ!」
「怪我だけはするなよ」
オレも、早く帰ってきてくれると有難いな。一人で神代さんに会うのは、少し緊張してしまう。だが、えむには情けない所ばかり見せているのでは無いだろうか。やはり、そうならんように良い弁明の仕方を…。
「あ、チャイム鳴っちゃったね」
「そうだな。また放課後にな、えむ」
「はいはーい!最後の授業も頑張ろーね、司くん!」
ぶんぶんと手を振って自席に戻っていくえむを見送る。この授業が終わったら放課後だ。なんとしても、それまでに考えておかねば。うんうん、と頷いて、真っ白のノートを開く。シャーペンを握り直すと、先生が教室に入ってきた。授業を何となく聞きながら、オレは必死にノートに向かって頭を悩ませた。
―――
「結局、思い付かん…」
はぁ、と溜息を吐く。時刻は夕方五時を過ぎた所である。そろそろ、神代さんが来てもおかしくない時間帯だ。そわそわとしてしまうのは許して欲しい。だが、それ以上に、心臓はバクバクしていた。ちらほらとお客さんが代わるがわる来店してはお会計を済ませて店を出ていく。刻々と近付くタイムリミットに、表情はどんどん強ばっていった。
「もう、素直に『失礼な事を言ってしまいすみませんでした』と謝るしかないのではないか…」
むむむぅ、と頭を抱える。結局、良い言い訳なんか思い付かん。それならば、潔く謝るしかないだろう。オレは、いつか神代さんと一緒に舞台に立ちたい。その夢を叶える前に神代さんに引かれて、避けられたりなんかしたら、立ち直れなくなるからな。すぅ、はぁ、と深呼吸を数回繰り返して気持ちをなんとか落ち着ける。大丈夫、神代さんは優しいから、きっと流してくれるはずだ。
よし、と意気込んで顔を上げるも、まだ店内にお客さんはいない。時計を見ると、長い針は八に差し掛かっていた。
「…………む…?」
いつの間にか五時半を過ぎていたらしい。カレンダーを確認するが、やはり今日は水曜日だ。もしかしたら、仕事が長引いているのだろうか。たまに遅くなる時もあったからな。そう思いながら、店の外をなんとなく探してみるが、神代さんらしき人は通らない。
スマホを確認していないが、もしかしたら、今日は来れないと連絡があったのかもしれん。神代さんは連絡をきちんとしてくれるからな。いや、ここ最近神代さんから連絡はなかったが…。もしかしたら、連絡できない程忙しいのかもしれんしな。
一人それで納得しようとしたところで、裏口の方から声が聞こえてくる。
「司くん、ただいまー!」
「おぉ、えむ。お疲れ様」
「えへへー、忙しい時間に間に合ったよー」
「有難い。えむがいてくれると助かるぞ」
「ふふん!あたしはスーパーヒーローだね!」
どうやら、えむの習い事が終わったらしい。お揃いのエプロンをつけたえむは隣に来ると胸を張って手を腰に当てた。なんだか妹の咲希みたいだ。ぽんぽん、と頭を軽く撫でてから、えむと軽く話をする。何気ない話をするのは、さっきまでの考えが消えて有難いからな。神代さんが来なかったのは、オレに会いたくないからなんじゃないか、なんて、一瞬でも想像しかけてしまった気持ちが、えむの笑顔で消えていく。
「それでね……」
「む、…電話か」
えむが何か言いかけたところで、お店の電話が鳴り出した。基本、電話を取るのはホールにいるオレたちだ。電話のすぐ近くにいたえむが、「はいはーい、あたしが出るねー!」と元気に手を伸ばす。ガチャ、と電話に出るえむは、楽しそうに声を弾ませた。
「はい、お弁当屋さん和んだほぃ、です!」
ちら、と時計に目を向けると、六時少し前だ。そろそろお店が忙しくなる時間である。店の外を見ると、人通りも多くなってきた。よし、と意気込んでエプロンの紐を結び直したオレの隣で、えむが何故かわたわたとし始めるのが見える。よく見ると、メモ帳に取っている注文の数がとても多いような。
「はい、はい、…えっと、ちょっとお時間がかかってしまうんですが…」
どうやら配達するらしい。下の方に住所のメモも書かれている。だが、宛先が人の名前ではないような…。首を傾げていると、えむがぺこぺこと頭を下げながら応対していた。そして、最後に「失礼します」と告げたえむの目が、丸くなる。パッとその瞳がキラキラ輝いて、頬が赤くなっていくのが見えた。なんというか、こんなえむの表情を見るのは初めてだ。カチャン、と受話器を戻したえむが、震える手でメモを握り締めてオレの方を向く。
「つ、つかさくんっ…どうしよぅ…」
「ど、どうしたんだ? まさか、クレーマーと言うやつか?!」
「違うの…、また、今度お店に来ますって……」
「? それは良かったな…?」
震えるえむの声に、クレームか何かかと思ったが、そうでは無いらしい。余程相手に褒められたのだろうか? だが、こんな反応のえむは初めてだ。知り合いだったのだろうか?
が、えむが落ち着く前に入口の扉が開く音がした。顔をあげれば、お客さんが店内に入ってくる。それはそうだ、これから忙しくなる時間なのだからな。
「えむはとりあえず、その注文を伝えてきてくれ」
「うん、ちょっと行ってくるね!」
「あぁ」
厨房の方へ向かうえむを見送って、レジに立つ。お客さんの注文を取りながらレジを打ち込んでいくと、次々に店の扉が開いてお客さんが増えていく。あっという間に混雑した店内は賑やかだ。戻ってきたえむと一緒に、この日の1番忙しい時間をなんとか乗り切った。
―――
(類side)
「監督が今日どうしても撮影したいって言ってるんだけど、どうする?」
「引き受けてくれていいよ」
メイクさんが忙しそうにしている横で、僕は寧々にそう答えた。スケジュール帳を見ながら、はぁ、と溜息を吐いた寧々がスマホを操作し始める。さっきまで打ち合わせをしていて、これからテレビ番組の収録だ。その後は予定も無いはずだし、撮影くらいなら受けられるはず。それに、早く終わらせてしまえば、その分他の仕事を入れられるからね。
何事もない、という顔で鏡の方を向いたままメイクさんに顔を任せる僕のすぐ後ろで、寧々がじとりとした目を向けてくる。
「…今日、水曜日だけど」
「そうだね」
「あんた、わたしに何か隠してるでしょ」
「なんの事かな」
にこ、と鏡越しに笑い返すも、寧々は顰め面を止めない。何故、彼女はこんなにも鋭いのだろうか。
口元が引き攣らないように気を付けながら笑顔を作る僕に、寧々がスマホをポケットにしまった。メイクさんがパチン、とケースの蓋をしめて、僕から少し離れる。軽く確認してから、下がるよう声をかけると、彼女は控え室を出ていった。足音が遠ざかるのを聞いてから、寧々の方へ顔を向ける。
「ついこの前瑞希から、あの男について報告を貰ったよ」
「………………へぇ、それで?」
「どうやら、彼は高校生の娘さんがいたらしいけど、少し前に離婚していたらしいね」
去年、天馬くんが襲われかけた時の犯人について、瑞希がご丁寧に電話で報告をくれた。
なんでも、娘さんは天馬くんと同じ高校に通う子で、たまたまあの劇を彼も見ていたらしい。その時、客席に向かって綺麗な笑みを向けた彼に惹かれたのだとか。『自分へ笑いかけてくれた』と信じ込んだ男は、彼のストーカーを始めたのだそうだ。彼曰く、天馬くんを見守っていた、と言っているらしいけれど。彼のバイト先にも通っていたらしいし、手紙を送り付けていたとも聞いている。笑顔で接客してくれる天馬くんに、どんどん惹かれていき、『自分を愛してくれている』と思い込んだ結果の犯行だとか。
(僕もあの劇での彼に魅せられたから、そこは同情してしまうけれどね…)
愛おしい人を見るかのような、花が綻ぶ笑顔を客席へ向けた天馬くんを思い出す度、胸が熱くなる。確かに、あんな顔をされてしまっては、勘違いしてしまいそうになるからね。本当に、天馬くんは恐ろしい程の人垂らしだ。けれど、それで彼を襲っていい理由にはならない。
俳優なんてやっていれば、僕にも身に覚えは確かにある。知らない名前のファンレターに、『私の事好きなんですよね』とか、『恋人になれて嬉しい』みたいなよく分からない文が書かれている事もよくある。それは僕が『俳優』だから仕方ない事だ。思い込みの激しい人は、雑誌の写真やドラマの台詞を良い様に捉えてしまうからね。僕の職業には付き物だろう。でも、一般人である、しかもまだ高校生の天馬くんがその対象にされてしまうのは良くない。
(まぁ、そう思い込ませられる程の魅力を持っているというのも、彼の才能かもしれないね)
演劇経験の無い彼が、初めての劇でそこまで人を魅了する事が出来たというのは、素晴らしいことかもしれない。だからこそ、僕も彼に舞台の上へ上がってほしいと願っているし、そんな彼を輝かせたいと思ったのだけどね。彼が、僕と一緒に舞台に立ちたいと言ってくれたのだって、とても嬉しい。
僕に目標を話してくれた時の天馬くんを思い出して、つい、口元が弧を描く。すると、ずいっ、と寧々が顔を寄せてきた。
「で、それ以上に何があったのよ」
「………なんの事かな?」
「天馬くんから連絡が来ない、とか、天馬くんに会いたい、とか口を開けば天馬くん、天馬くん、天馬くん、なあんたが、ここ数日その天馬くんの話題を出さないじゃん。何かあったんでしょ」
「……………なにも…」
「さっさと、言いなさいよ」
これでもかと言う程近付られた寧々の顔に、思わず顔が引き攣る。恐ろしい程の顰め面に、どうやら誤魔化しは効かないようだ。はぁ、と一つ息を吐いて、「分かったよ」と小さく返す。
確かに、ここ数日、天馬くんと連絡を取っていない。けれど、それは彼のためでもある。僕が話す気になったと分かると、寧々は傍にあった椅子へ座り、黙って話し始めるのを待ってくれていた。
「…この前、少し彼を誘って出掛けただろう?」
「そうね。その次の日から類が変だったのは知ってる」
「彼が、あのドラマの最終回を見て、キスシーンの撮影の仕方が気になったらしくてね…」
ぽつりぽつりと吐露すると、寧々が余計に眉間へ皺を寄せた。「まさか、キスしたとか言わないわよね」と言われて、咄嗟に首を左右へ振る。口にはしてない。うん。口には。両手を顔の高さまで上げて否定した僕へ、寧々は小さく息を吐くと、「続けて」と先を促した。
まるで尋問されているみたいで、落ち着かないな。
「撮影ではフリだけだよって伝えたら、その、仕方を教えてほしいと言われてしまってね」
「で、キスしたんだ?」
「してないよ。フリだけして、適当に誤魔化したさ」
「………ヘタレ」
グサッ、と胸に刺さる冷たい一言に、つい胸を抑える。手を出さなかったことに対して、褒めてくれてもいいと思うのだけれどね。あの時の天馬くんは、本当に可愛らしかったのだから。まるで、僕に懸想を抱いているかのような表情で、いつもの面影が消えるほど消え入りそうな声でお願いしてきて…。
そこまで思い返したところで、首を左右へ振る。いけない。これ以上思い出してしまっては、また勘違いしてしまいそうになってしまう。僕は彼のように犯罪に手を出す訳にはいかないのだからね。
「セットが崩れるからやめなさいよ。もう撮影だって言うのに」
「とにかく、彼がもう少し大人になるまでは、良い大人の先輩として…」
「もう少しって、どれくらい待つつもりなのよ」
「それは、成人するまでじゃないかな」
「……………………やっぱ、ヘタレじゃん」
ふい、と寧々が僕に背を向けてソファーに座った。寧々のことだから、未成年に手を出すな、とか言いそうなのに今日はやけに変だ。というか、僕にどうしてほしいんだい。はぁ、ともう一度溜息を吐くと、寧々が僕の方を見ずにスマホを耳に当てた。
「なら、今日は会いに行かないわけ?」
「……そうだね。少し、気持ちの整理がしたいかな」
「ほんと、めんどくさ」
僕の返答に溜息を吐いた寧々は、スケジュール帳を開いてスマホに声をかけ始めた。どうやら、電話を始めたようだ。相手は多分、さっき言っていた撮影の監督だろうね。僕もポケットからスマホを取り出す。パスコードを打ち込んで、メッセージアプリを開いた。あの日から連絡が止まった彼とのメッセージ欄をぼんやり眺めて、もう一度息を吐く。
来週は、ちゃんと会いに行こう。それまでに、また普通に彼と会話できるよう気持ちを落ち着けないと。
「神代さん、スタンバイお願いします」
「あ、はい。寧々、行ってくるよ」
スタッフの子に呼ばれて、席を立つ。スマホはそのまま机の上に置き、寧々に声をかけた。通話したままひらひらと手を振る寧々は、こちらを向かない。暫くここで話をするのだろうね。先に行っていよう。スタッフの子に続いて、僕はスタジオへ一人で向かった。
―――
(司side)
「………ここが…」
「わぁあ!とってもとーっても、大きいねぇ!」
送ってもらった車を降りて、手渡された段ボールを小さな台車に乗せる。見上げるほど高いビルは、警備員の人達が沢山立っていた。従業員用の裏口だからだろうか、人は少ない。が、来る途中でちらりと見た正面口の方は人が多くいたな。
バタン、と車のドアが閉まって、開いた窓からえむのお兄さんが顔を覗かせた。
「じゃ、任せたぞ」
「はーい!いってきまーす!」
ぶんぶんとえむが手を大きく振る。オレは台車をゆっくり押しながら、裏口の方へえむと向かった。えむの店は普段配達は引き受けていない。が、今回引き受けたのがえむである事と、どうやらえむの知り合いからの依頼の様で、特別に配達する事となった。警備員の人に『和んだほぃ』というお弁当屋の名前を告げると、通行証を手渡されて中へ入れてもらえた。
初めて入る建物に、内心ドキドキとしてしまう。なにせ、この建物はオレの目標とも言えるのだからな。
「わぁあ、大きなエレベーター!」
「業者用だからだろうな。確か、12階だったか?」
「うん!なんだっけ? 確か、んー、なんとか映画? の、控え室…?」
「引き受けたのはえむなのだから、しっかり思い出してくれ」
エレベーターが上へ上がる浮遊感を感じながら、肩を落とす。本当に間違いないのだろうか。えむは両手の人差し指を頭に当てて唸っていた。ここは撮影スタジオのある建物だ。本来は主演役者や関係スタッフしか入れないが、お弁当業者としてオレ達が入る事を許されたらしい。本来はえむのお兄さん達が行くべきなのだが、面倒くさいから、とオレたちが選ばれた。というより、えむが一緒に行こうと言い出したから、二人がえむの願いを聞いてくれたのかもしれんな。
「楽しみだね、司くん!」
「あ、あぁ…」
「司くんの特別のお客さんも、いるのかな?」
「……いや、忙しいみたいだが、撮影スタジオは他にも沢山あるだろう…」
都合よくいるなんて有り得ないし、期待だってしない。それに、この建物はかなり沢山の階があるのだから、そう偶然に出会うわけもないだろう。会えたとしても、まだどんな顔をしていいか分からないしな。出来ることなら、会わずに帰りたいものだ。いや、一目見れるなら、こっそり、見た気もする。
(…神代さんのお仕事姿とか、きっととてもカッコイイのだろうな…)
ドラマだってとても素晴らしかった。あんな姿を直接見られたら、どれだけキラキラしているだろうか。そう考えるだけで、胸の奥がきゅぅ、と音を鳴らす。
ダメだダメだ、期待しては、会えなかった時にガッカリしてしまうじゃないか! そう、会えない確率の方が高いのだから、考えるな。今回は仕事。仕事として、ここに来ているのだしな。
うんうん、と頷きながら自分へ言い聞かせ、邪念は振り払う。あくまで、オレが将来神代さんの隣に立てるようになった時に、お邪魔するかもしれないスタジオに来ている、それだけだ。
「うーん。多分こっち?」
「もしかして、あそこではないか?」
「あー!あった!控え室!」
たたたーっとえむが近付いていき、控え室の前で立ち止まる。確かに、映画関係者の控え室になっているらしい。コンコン、とノックをすると、中から女性が顔を覗かせた。
「思ったより早いじゃん」
ふわふわした若草色の髪が揺れて、アメジストの様な瞳がオレ達に向けられる。何度か会ったことのある、神代さんのマネージャーさんだった。
「え、…ぁ…」
「こんにちわっ!この度はご注文ありがとうございましたっ!」
「うるさ。とにかく、今誰もいないし、中、入っていいよ」
「はーい!」
にこにこと嬉しそうにするえむに驚きつつ、中へ台車ごと入る。指示された机の上にお弁当が入った段ボールを置くと、マネージャーさん、寧々さんがふわりと笑った。
「ん、ありがと」
「えへへ、お姉さんもお元気そうで良かったぁ」
「えむ、この人と知り合いだったのか?!」
抱きつこうとしていたのか、両手を広げて近寄ったえむはあっさりと寧々さんに躱されていた。少し面倒くさそうにしているけれど、寧々さんは平然とえむを受け流しているようだ。というか、いつの間に知り合ったんだ、この二人。神代さんがお店に来る時は、いつも一人だったし、オレがこの人を見たのはまだ二回ほどのはずなんだが…。
「あたしの特別のお客さんだよ!土曜日にたまに来てくれるの!」
「あ、この人が…」
「特別のお客さんってなに。変な呼び方しないでよ」
「だってあたし、お姉さんのお名前知らないよ?」
嬉しそうに寧々さんの傍をくるくる回ってるえむは、まるで子犬のようだ。確かに、えむから土曜日に来てくれる特別のお客さんの話は聞いていた。まさか、神代さんのマネージャーさんだとは思わなかったが…。もしかして、土曜日も神代さんはお店に来ていたのだろうか。それは、なんというか、オレだけ除け者にされたような気分になってしまうのだが…。
視線が下がったのがバレたのか、寧々さんがオレの方を見て、小さく「言っておくけど」と口を開いた。
「わたしが土曜日にあのお店に行ってるのは、類には内緒だから。あんた達もあいつに言わないでよね」
「…ぇ、…あ、はいっ!」
「はいはいはーい!分かりましたー!その代わり、またお店に来てくれると嬉しいなぁ!」
「声が大きいってば。たまになら行ってあげるからもうちょっと離れてくれる?」
寧々さんの腕を掴むえむに、寧々さんが眉を顰めてほんの少し体を引いた。けれど、本気で振りほどこうとしていふわけではなさそうだ。頬がほんのり赤い気がして、なんとなく大丈夫なのだろうと感じた。
けれど、それ以上に、寧々さんの言葉でホッとしている自分がいる。土曜日は、神代さんはあの店に来ていないのか。良かった。オレがいない時に、来ていなくて。
(……いや、お店に来るのは、神代さんの自由なのだから、いつ来てもいいはずなんだが…)
やはり、神代さんとあの店で接するのは、自分が良い、ということだろうか。なんとも心の狭いやつだ。しかし、確かにたったこれだけで安心してしまった。
なんとなく恥ずかしくなって、頬を手で軽くあおぐ。ちら、と視線を上げると、寧々さんがオレの方を見ていた。目が合うと、彼女はほんの少しだけ口角を上げる。
「せっかくだから、ちょっと見学でもしていけば?」
「……………んぇ…?」
「あんた、類と一緒に舞台に立ちたいんでしょ?」
「なっ…?!」
ぼふっ、と顔が一気に熱くなって、慌てて手で口元を隠す。まさか、神代さん、その話をマネージャーさんにしたのか?! 未経験者のオレが、そんな大それた事を言ったなんて…。寧々さんはどこか楽しそうで、えむも手をピシッと上げて「見学します!」と返事を返してしまっている。オレは頷く事も出来ず、二人に引っ張られる形で控え室を連れ出されてしまった。
長い廊下を歩いて、二つほど下の階へ移動すると、寧々さんが奥の扉を開いて手招きしてくる。先にえむが迷わず入っていくので、オレも仕方なく足を踏み入れた。「声は出さないでよ」と忠告だけされたので、オレとえむは両手で口を押さえて頷いた。シン、としたスタジオの足元は、沢山のコードが散らばっている。後ろめたいような気持ちはあったが、社会科見学だと思うと、気持ちがそわそわとしてしまう。スタッフの人たちが、カメラを動かしたり、ライトを動かしたり、何やら台本らしきものを見ながら話し合っている。その奥の方で、何人かの人たちが集まっていた。
「ほら、あの真ん中で机に座ってるのが類」
指さされた方を見ると、確かにそこに神代さんがいた。机の上に座って足を組んでいて、普段の優しい印象ではなく、少し素行の悪い男性の雰囲気だ。オレの知らない神代さんの表情に、ドキッとした。笑う顔も、どこか幼く見える。制服みたいなものを着ているからだろうか。というか、オレより歳上なのに、学生と言われても信じてしまいそうな程似合っているのは、神代さんの演技力のせいか…?
「来年公開予定の映画の撮影。学生時代の恋を、大人になってから追いかける男の話」
「…だから。学生服なんですね」
「顔は幼く見えるようにメイクさんが頑張ったみたいだけどね」
「あの制服、神山高校の制服に似てるね」
えむに言われて、はたと気付く。確かに、ブレザーを普段着ないから印象が薄かったが、神山高校の制服に似ているな。薄いグレーのカーディガンから覗く、赤と白と紺がストライプになったネクタイも同じだ。オレたちの会話を聞いていた寧々さんが、小さく頷いた。
「似てるも何も、あれ、あんた達の高校の制服だから」
「え」
「なんであれになったかは、今度類に聞いてみれば?」
それ以上、寧々さんは何も言わなかった。撮影はすんなりと進んで、オレとえむは隅っこの方で黙って見学させてもらった。
オレ達と同じ制服を着て、子どものような顔で共演者の人達と話す神代さんから、目が逸らせなかった。もし、神代さんがオレと同級生だったら、あんな風にクラスメイトと笑っていたのだろうか。あんな風に笑う神代さんを、学校の中で見れたのだろうか。もし、話しかけたら、その隣に、オレはいられるのだろうか。
(………いいな…)
そんな時間があったら、きっと、楽しいのだろうな。神代さんと、教室で笑って話が出来たら、とても、…。
グッ、と拳を握り込むと、寧々さんがオレの肩に手を置いた。ハッ、と顔を上げると、彼女は首を傾げた。
「大丈夫?」
「あ、はい。そろそろ、帰ろう、えむ」
「え、でもでも、司くん、挨拶しなくていいの?」
「仕事の邪魔をしては迷惑だろう」
寧々さんにお礼を言って、えむと一緒に、スタジオをそっと出た。これ以上見ていたら、もっと欲張りになってしまいそうだったからな。見れないと思っていた神代さんを一目見れたのだから、充分だ。
「寧々さん、ありがとうございました」
「類が、今日は仕事が忙しくて行けなかったし来週はお店に行くって言ってたよ」
「はい。御来店、お待ちしております!」
「あたしも、お姉さんの来店待ってます!」
「はいはい」
ひらひらと手を振られて、オレとえむはぺこ、と頭を下げた。エレベーターに乗り込んだところで、「あ、」と慌てた『開』のボタンを押す。えむから付箋を受け取って、慌ててボールペンで文字を書き込んだ。
「これ、神代さんに」
「…ん。お弁当にでも貼って渡しとく」
「お願いします」
ひらひらと付箋を受け取ってくれた寧々さんに手を振られながら、エレベーターの扉を閉めた。ゴウン、とエレベーターが音を鳴らして、ゆっくり降下していく。オレの方へ顔を向けたえむに付箋を返すと、にこ、と笑みを向けられた。
「楽しかったね、司くん!」
「…そうだな」
えむにそう返して、オレたちは車へ戻った。
車で待っていたえむのお兄さんに「遅い」と怒られたのは、また別の話だ。