メインディッシュは俳優さん以外テイクアウト不可能です!×22(司side)
「今日はここまで。配ったプリントは宿題にするから次回までに終わらせること」
「えー」
先生の言葉に、不満気な生徒の声が教室に響いた。日直の掛け声で授業終わりの挨拶をする。その後はホームルームをして、おしまいだ。いつもと変わらない学校の流れは、あっという間に終わる。ホームルームさえ終わってしまえば、教室の中は所々から話し声がして賑やかだ。
「司くん、帰ろー!」
「あぁ、そうだな」
「今日はせっかく習い事がないのに、司くん、お店お休みなの寂しいなぁ」
荷物を鞄に詰め込んで、椅子を立ち上がる。えむと並んで教室を出ると、そのまま昇降口へ向かった。今日、えむは習い事が休みだ。その代わり、オレはバイトを休ませてもらった。というのも、三年生になって受験が近付いているからな。
オレの隣でしゅん、と肩を落とすえむに、苦笑する。
「すまんな。これから休みを増やす事になるが…」
「お勉強は大事だから仕方ないよ!頑張ってね、司くん」
「勿論だ!休むからには、絶対に合格してみせるからな!」
えむがパッと笑顔を向けてくれるので、胸を張って返した。オレが不在の間は、えむのお姉さんが入ってくれるそうなのでお任せすることになっている。オレ達が高校三年生という事もあって、えむのお兄さん達も前もって話し合ってくれていたらしい。ほとんど毎日バイトに出ていたので、少し変な感じではあるが…。
ただ、これから休みは増えてしまうが、水曜日だけは出るつもりだ。神代さんに会える、唯一の機会だからな。
「あ、すまん、えむ。参考書を見に本屋に寄りたいから、オレはこっちなんだ」
「そっか、行ってらっしゃい、司くん!またね!」
「あぁ、では、また!」
いつもより少し手前で別れて、オレは本屋に足を向けた。英語が苦手なので、わかりやすい参考書を見に行かねばならん。
自宅から近い距離で一番大きな本屋に入ると、お客さんは少なく静かだ。本棚が沢山並んでいて、オススメの本や新しい本などが目立つ様にポップなどで飾られていた。それを何となく見ながら、コーナーの表示に従って参考書を探す。と、途中の本棚に新しい本が並んでいて、つい足が止まった。
「………ドラマの特集記事と、ポスター付き…」
表紙に見知った人が映っていて、思わず立ち止まってしまった。見覚えのあるドラマのタイトルと、表紙の写真を拡大した特大ポスターが付録として付いてくるという文言が書かれている。本棚の隣の柱に貼られた見本のポスターはとても大きい。ポスターに映る人物と目が合った気がして、ついドキッとした。ポスターの隅に書いてある『神代類』の名前を見て、胸元をそっとおさえる。
咲希に誘われて参加した握手会以降、神代さんとはまた数日会っていない。というのも、神代さんがあの番組で話した『弟子』が誰であるか話題になったからだ。SNSでも常に持ち出され、寧々さんによれば神代さんの自宅の周りにも人が張り込んでいるらしい。という事で、迂闊にお店に来られないのだと、以前聞いた。元々お仕事も忙しい人なので仕方ないだろう。
(それに、神代さんに会う度距離が近い気がして、正直心臓が持たないからな…)
前回会った時は、トイレの個室に引っ張り込まれて何故か壁に押しやられた。相当疲れていて、枕が欲しかったのだろうか。肩を貸したまま固まるオレの髪に触れたり、手を握ったりと、神代さんが何をしたかったのか今考えても全く分からん。分からないが、嫌ではなかったのも事実だ。思い出すだけで顔が熱くなる気がする。ぱたぱたと軽く手で扇いで、意味もなく顔の熱を冷まそうとしてみた。
そんなわけで、神代さんの特大ポスターは少し心臓に悪い。とてもかっこいいし、このドラマは特に思い入れがあるので欲しい気もするが…。
(……壁、には飾れんし…)
ちら、と雑誌をもう一度見る。探偵衣装で足を組んで椅子に座る様はとてもかっこいい。ミステリアスな雰囲気が大人な神代さんに良く合っている。今にもあの優しい声音で話し出しそうだ。む、と口を引き結んで、ポスターをもう一度見る。それから、雑誌へ視線を戻した。
残りが少ないその雑誌を手に取って、裏面を確認してみる。値段は普通の雑誌と変わらない。内容は、最近話題のテレビ番組やドラマ、映画の特集らしい。
「……咲希も持っていそうだが、どうするか…」
咲希は神代さんのファンだから、多分買っていそうだ。だが、咲希にオレが神代さんを好きなのは言っていない。なんなら、この前の握手会ですら、初対面として接したのだ。本当は、毎週水曜日にお店に来てくれる大切なお客さんなのだが。
あの小説のドラマの格好で表紙にいる神代さんをもう一度見て、眉間に皺を寄せる。オレが神代さんと話すきっかけになったドラマの姿だ。神代さんの事は好きだが、この姿は一層惹かれてしまう。数分悩んだ結果、雑誌を手に持ったまま、また奥へ向かった。本来の目的は参考書だからな。
「…む、ここだな」
一番奥まで行くと、壁に沿って設置された本棚に参考書がずらりと並んでいる。その中から英語の参考書を探せば、これまたかなりの量が並んでいた。高校三年生向けのものを一つ手に取ると、内容もぎっちり詰まっている。英文がつらつらと書かれた中身を見て、ぱたん、と閉じた。これは、分かりづらそうだ。隣の参考書を手に取ってみるが、そちらも説明が多くてよく分からない。一つ一つぱらぱらと捲りながら、読みやすそうなものを探す。
「…………」
が、全く分からん。これでもない、あれでもない、と一つひとつ見ているうちに、段々よく分からなくなっていく。首を捻って唸りながら、次の参考書に手を伸ばした。ぱらぱらと捲って見るも、やはり説明が難しい。参考書はまだまだ沢山あるが、どれがいいのだろうか。じっと背表紙を眺めていると、不意にぽん、と肩を叩かれた。
「こんにちは、天馬くん」
「んぇ…」
聞き慣れた声が次いで聞こえて、顔をそちらへ向ける。ふわりと笑う綺麗な顔に、思わず息を飲み込んだ。帽子に眼鏡をして、マスクを少しズラした神代さんが目の前にいる。ぶわわ、と顔が一気に熱くなって、一歩後退った。
「か、かみっ…」
「しー、…本屋は静かだから、声はおさえないと」
「…、………す、すみません…」
大きな声が出そうになったオレの口を軽く塞いで、神代さんは苦笑した。声をおさえて謝ると、にこりと微笑まれてしまう。雑誌を胸に抱えて強く握るオレの肩に手を添えたまま、神代さんが隣に並ぶ。肩が触れる距離に、心臓がバクバクと大きく鼓動した。目の前がぐるぐるしている気がして、視線が泳ぐ。
「天馬くんも、本を探していたのかい?」
「…は、はぃ、…参考書を……」
「探しているのは、英語かな?」
「………そう、です…」
いつも通りの声音で話す神代さんに、なんとか返事を返す。神代さんの声が聞こえる度にドキッ、として、落ち着かない。顔が上げられなくて、さらに視線が泳いだ。縋るものがほしくて、抱えた雑誌を両手で抱き締める。逃げたい。この場から走って逃げ出したい。逃げ出したいのに、神代さんが隣にいるのが嬉しいとも思ってしまって足が動かない。手を添えられている肩が、異様に熱く感じた。
「それなら…、これとか、見やすいと思うよ」
「ぇ、…あ、ありがとうございます…!」
「これと、それから、こっちも分かりやすいかな。沢山種類があるから、自分に合う物を選ぶのは難しいよね」
何冊か参考書を取って、神代さんが手渡してくれる。それにお礼を伝えて、ぱらぱらと捲った。確かにさっきのよりも随分と説明が分かりやすい。幾つか手渡された参考書を見比べていれば、ふわりと神代さんが笑った。
「懐かしいね。僕も学生の時に参考書選びに悩んだよ」
「そ、そうなんですね…! オレも、そろそろ受験に向けて勉強しようと思っていたんですが、沢山あって迷っていたんです」
「それなら、僕が学生の時に使っていた参考書が家にあるけれど、使うかい?」
「良いんですか?」
神代さんでも悩んだりするんだな。というより、神代さんは知的なイメージがあるから、勉強とかも得意そうなのだが…。にこにこと笑う神代さんを見ていると、どこかそわそわと気持ちが落ち着かない。一番分かりやすそうな参考書を一冊選んで、残りは棚に戻した。
肩に触れていた手はいつの間にか離れ、ほんの少し開いた距離に安堵する。
「僕はもう使わないからね。家に取りに行けば、すぐ渡せるけれど…」
「神代さんは、この後お仕事ですよね? それなのに、付き合わせてしまって、すみませんっ…!」
「ふふ、今日は久しぶりに仕事が早く終わったから、気にしないでおくれ」
本棚の間を通って、レジへ向かう。神代さんは、棚を眺めながらオレについて来てくれた。相変わらず優しい神代さんに、なんだか申し訳ない気持ちになる。オススメの参考書を教えてもらったのは嬉しいが、忙しい神代さんの貴重な休息時間を奪ってしまうとは…。レジは幸い並ぶ人もいないので、すんなり会計が始まった。手に持った物をカウンターに置くと、店員さんがバーコードを読み取る。
「おや、それは…」
「ぁ、…こ、これはそのっ…、お、お使いでっ…!」
「あぁ、妹さんのお使いだね。なんだか少し照れくさいな」
「…は、はは……」
雑誌の存在をすっかり忘れていた。表紙が神代さんだから、すぐに分かってしまう。悪い事をしているわけではないが、本人の目の前で神代さんが表紙の雑誌を買うのはなんだか気恥しい。そもそも、オレは神代さんのファンという訳ではない。妹の咲希はそうだが、オレは神代さんが好きなわけで…。
(…む……、神代さんが、…す、き、と言うのは、…ファンという事になるのか……?)
俳優神代類を尊敬するが、オレが好きになったのは、神代さんだ。ファンの中にも、神代さんを本気で好きになる女性もいるのだろう。その人達と、オレは何か変わるのだろうか…?まぁ、オレがいくら神代さんを好きになったとしても、神代さんには婚約者の人がいるからな。いずれ諦めねばならんのに、神代さんを想う程諦めがつかなくなりそうだ…。
「ありがとうございました」
「………へ…?」
「さぁ、行こうか、天馬くん」
「ぇ、いや、…まだお金を……」
袋に入った本が手渡されて、目を瞬く。店員さんは頭を下げているし、金銭を乗せるトレーには何故かお金が支払われていた。財布をポケットにしまった神代さんに手を引かれて、そこで漸く思考が追いつく。
本屋の自動ドアが、ゆっくり開いた。
「か、神代さんっ、お金払いますから…!」
「気にしないでおくれ。僕が勝手に払ったのだから」
「だが……」
オレの腕を引いたまま、神代さんがお店をあとにする。それについて行くしかない。参考書も雑誌もそれなりに値段はかかるのに、神代さんに払ってもらうのは申し訳ない。が、優しい声音で「天馬くん」と名前を呼ばれ、オレは一度口を噤んだ。
「本当に気にしないでほしいのだけど、もし君が気になるなら、この後君の時間を少しくれないかい? さっき話した僕の参考書を家に取りに行くから、付き合ってほしいのだけど」
「……そ、れは、構いませんが…」
「ありがとう。そんなに遠くないから、すぐ着くよ」
「……………はい…」
本当は、もっと言いたいことがある。だが、神代さんがそう言うなら、あまり引き下がっては困らせてしまうだろう。なんだか、毎回神代さんに払わせてしまっている気がして、落ち着かないが…。というか、神代さんの参考書まで頂くのに、神代さんの家に一緒に行くだけで良いのだろうか…。いや、そもそも人気俳優の家に一般人のオレがついて行って良いのか?神代さんは、もう少しオレに警戒心を持った方が良いんじゃないか?
(……神代さんの家、に、行けるのは…少し楽しみだが…)
結局、神代さんのお家見たさに、オレはそれ以上何も言い出せなかった。
―――
(類side)
「ここだよ」
「……………大きな建物ですね…」
「ふふ、セキュリティの関係もあってね。それに、地下の駐車場は色々便利なんだよ」
呆気と高層マンションを見上げる天馬くんの手を引いて、自動ドアを潜る。エントランスを抜けて、エレベーターのボタンを押すと、すぐにドアが開いた。中へ入って、部屋のある22階のボタンを押す。扉が閉まると、機械の駆動音が静かに聞こえた。僕の方を見ずに、固まったままの天馬くんは、口を引き結んで黙ってしまう。
(………そんなに緊張しているのに、ほいほいと着いてくるなんて、本当に無防備だなぁ…)
見るからに肩に力が入っているし、顔も赤い。震えているのが繋いだ手から伝わってくるのに、しっかりと握り返されているのが可愛らしい。僕の頼み事を、彼は断らない。それは、相手が僕だからなのか、それとも誰に対してもなのか…。
(…まぁ、天馬くんはお人好しだからね)
小さく息を吐いて、苦笑する。誰にでも優しく、誰をも信じるのは彼の良い所だ。
漸く少し落ち着いてきて、今日は寧々に夕方から休みを貰った。丁度高校の下校時間だったので、本屋で時間を潰してからお店に行くつもりだったのだけど、まさか本屋で彼に出会うとは思わなかった。英語の参考書と睨めっこする彼は、可愛らしかったね。まぁ、前回会ったのがあの握手会以来だったこともあり、天馬くんはかなり緊張している様子だったけれど。
「あぁ、着いたね。こっちだよ」
「は、はいっ…!」
エレベーターのドアが開いたのを見て、彼の手を引く。通路の奥にある部屋へ向かいながら、ちら、と隣を見ると、彼は先程より緊張している様だ。いつになく真剣な表情に、つい口角が上がってしまう。今こんなにも緊張していて、大丈夫なのだろうか。これから向かうのは僕の部屋なのだけど。
(……自分に懸想している男の部屋に上がり込むなんて、どれ程危険か分かっているのかな…)
まぁ、彼を誘ったのも、部屋へ連れ込むのも僕だけれど。今更天馬くんが逃げられる状況でも無いしね。それに、彼に手を出すつもりもまだ無い。今日は本当に参考書を探して渡すだけだ。あわよくば、彼に勉強を教えるのを口実にもう少し一緒に居られればいいけれど…。
そんなことを考えながら、目の前まで来た自室の鍵を開ける。天馬くんの名前を呼ぶと、裏返りそうな震えた声音で返事を返された。それがまた愛らしくて、つい小さく笑ってしまう。
「お、お邪魔、します……」
「どうぞ。散らかっているけれど、気にしないでね」
「…は、はい………」
扉の鍵を閉めて、靴を脱ぐ。お客さん用のスリッパは、寧々に用意しろとしつこく言われたために買ったものがある。普段はこの家に寧々以外を招く事がないので、日の目を見ないけど。天馬くんは、靴を脱いで上がると、くるりと振り返り、自分の靴を端に揃えた。彼らしい礼儀正しい所作に、目を細める。彼がスリッパを履いたのを見てから、僕は奥へ向かった。廊下の先の扉を開くと、リビングだ。
「………………………か、…神代さん…」
「すまないね。片付けは苦手で…」
「に、苦手ってレベルなのか…?!足の踏み場がないんだが…?!」
「ソファーの上は綺麗だから、そこで座って待っていてくれるかい?」
「……………はぁ…」
作りかけの機械や、装置、部品が床やテーブルに置いたままになっている。そんなリビングの光景を見た天馬くんは、開いた口が塞がらない様だ。呆然とする彼の手を離して、ソファーを指さす。寧々が、『せめてソファーの上だけは何も置くな』と言っていたので、ソファーは綺麗だ。彼女が僕を待つ時も、ソファーから動かないようにしているからね。
まだ動かない天馬くんに背を向けて、僕は寝室の方へ向かった。クローゼットの奥に、参考書や教科書を入れた箱があるはずだ。ガサガサと中を漁って、天馬くんに渡すつもりの参考書を探す。
「ぁ、これかな」
やっと見つかった参考書の表紙を軽く手で叩く。本のホコリを払って、クローゼットから体を出した。ひとまず彼にこれを渡してこよう。電気も付けずに入った寝室の扉を開くと、リビングの照明の眩しさに目を細める。と、視界の隅で金糸が揺れるのが見えて、そちらに目を向けた。同時に、とんとん、と紙の束を整える天馬くんが、僕に気付いて顔を上げる。
「すみません、勝手に弄ってしまって…」
「あぁ、いや、…なんか、すっきりしたね…?」
「…その、お節介かと思ったのですが、気になってしまって……」
床に散らばった紙が纏められていて、大型の機械や装置が隅にまとめられている。部品は一箇所に集められていて、この数分間で床が少し綺麗になっていた。どうやら、見かねた天馬くんが片付けてくれていたらしい。紙の束をテーブルに置いて、彼がちょこん、とテーブル前の床に座る。
「もし、神代さんが迷惑でなければ、少し掃除しても良いですか?」
「………それは、有難いけど…」
「先程のお礼もしたいので、是非」
「…なら、お願いするよ」
「はい!」
任せて下さい!と胸を張る天馬くんが、立ち上がった。大事な部品は先にしまってください、と言われ、ネジなんかの小さいものをケースにしまう。その間に、天馬くんは床に落ちているものを拾って一つひとつ片付け始めた。ゴミはゴミ箱へ、作りかけの装置や修理中の機械は端へ。設計図や書類はサイズを揃えてまとめてテーブルへ。本は本棚に戻し、普段着は洗濯機へ放り込まれた。手際のいい天馬くんに、つい魅入ってしまう。掃除機をかけて軽くテーブルや台を拭いて、彼は満足そうに笑った。
「どうでしょうか?」
「すごいね。こんなに短時間で片付けてしまうなんて…」
「これでも、昔から家事は一通り習ってきましたので」
「天馬くんは、料理だけでなく掃除も出来るなんてね」
散らかっていたのが嘘のようだ。寧々が今ここに来たら、驚くだろうね。嬉しそうな天馬くんに、僕はもう一度お礼を言ってソファーへ促した。彼が座ってから、その隣に腰を下ろすと、ビクッ、と天馬くんの肩が跳ねる。また緊張してしまった様子の天馬くんは、膝に揃えた手を強く握りしめた。
「お、お役に立てて、良かったです…!」
「ふふ、なんだか、まるで素敵なお嫁さんの様だね」
「およっ…?!」
ぼふっ、と爆発音の様な音がしそうな程一気に顔が赤くなった天馬くんは、僕から顔を逸らす。綺麗な髪の間から覗く耳まで赤く染まっていて、可愛らしい。先程よりも緊張させてしまったのが分かって、苦笑する。
とん、とテーブルに参考書を置くと、天馬くんがビクッと小さく肩を揺らした。
「これ、さっき言った参考書だよ」
「…ぁ、あり、がとう、ございます………」
「天馬くんさえ良ければ、僕が勉強を教えてあげようか?」
「………ぇ…」
ぱっと顔が上がって、天馬くんが僕を見る。それになるべく優しい笑みを浮かべて見せた。英語はそれなりに出来るし、天馬くんに教えるくらいなら大丈夫だろう。仕事のスケジュールは寧々にお願いして空けてもらう必要があるけれど、どうにかしてもらおう。
なんとなく彼の手元を見て、視線をテーブルへもどす。天馬くんと少し開いた距離がもどかしい。くっつく程体を寄せたいけれど、そこまでしては、彼を余計に緊張させてしまうかな。もう一度彼の方へ目を向けると、視線が泳いでいた天馬くんは、ほんの少しだけその視線を下へ向けた。
「…その、忙しい神代さんを、付き合わせるのは……」
「天馬くん、進路はもう決まっているのかい?」
「ぁ、はいっ…、𓏸𓏸、専門学校に…」
「あそこなら、英語は重要視されているね」
「…ぅ……」
演劇関係に向かう人が多く通う専門学校の名前に、納得してしまう。そこならば、英語は必須だ。短大や大学という選択肢もある中で、彼は専門学校にしたらしい。本当に、役者を目指してくれているのが分かって、とても嬉しいね。自然と緩む口元はそのままに、彼の方へ少しだけ体を向ける。
「あまり休みは合わせられないかもしれないけれど、僕は君の力になりたいんだ」
「………ぁ、…ぇ…」
「弟子の成長を、傍で見させてくれないかい?」
「……わ、分かりました…」
小さく頷く天馬くんは、少し眉を下げて顔を俯かせた。緊張で動けない様子の彼に、小さく苦笑する。残念なのか、喜ばしい事なのか複雑だ。いつもの元気な彼を見たいと思う反面で、僕の前で緊張する程意識されているのはとても嬉しいと思ってしまう。
仕方なくソファーを立ち上がると、天馬くんがまたビクッ、と体を跳ねさせた。パッと上げられたその顔に一つ笑みを向けて、「飲み物を用意するね」と一言伝える。僕も緊張していたようだ。彼になんのおもてなしもしないままだった。
「お、お構いなくっ…!」
「天馬くんはジュースでいいかい?」
「はい」
「ふふ、良ければ、今から少し勉強を見てあげようか?」
「…ぇ、……ぁ、…」
冷蔵庫の中に入っているのは、前に撮影先で貰った林檎ジュースくらいだ。開けていなかったそれを開けて、コップに注ぐ。僕の分と二つ用意したコップを持ってリビングのテーブルに置くと、天馬くんがお礼を言ってくれた。英語の参考書を指先でとん、と軽く叩いて見せると、彼は慌てたように鞄を開く。
「天馬くんが苦手なのは、英語だけかい?」
「…いえ、…恥ずかしながら、そんなに勉強は得意ではないというか…」
「なら、分からない所は聞いておくれ。君が役者になるためなら、僕はいくらでも力を貸すからね」
「………ぁ、ありがとう、ございます…」
とりあえず出した英語の教科書やルーズリーフをテーブルの上で開いて、天馬くんがペンを構える。参考書を開いて、一ページ目から順に彼が解いていった。所々おしい回答は丁寧に説明すれば、天馬くんはすぐ飲み込んでくれる。前々から感じていた彼の真面目さが、よく伝わってくる。教えがいのある天馬くんに、僕も教えるのが楽しくなっていった。
―――
気付けば窓の外が暗くなっていて、いつの間にか時刻は七時に差し掛かっていた。流石にこれ以上遅くなるのは彼の親御さんが心配するかもしれない。真剣に問題を読む彼の肩を軽く揺すると、きょとんとした顔が僕へ向けられる。
「天馬くん、そろそろ帰らないと、親御さんが心配するんじゃないかい?」
「え、あ、…もうこんな時間か……」
「すまないね、僕も集中し過ぎて、気付くのが遅くなってしまったよ。連絡した方が良いんじゃないかな」
「両親は帰るのが遅いので大丈夫です。それより、神代さんの貴重な時間を貰ってしまってすみません…!」
「言い出したのは僕だから、気にしなくて良いよ」
広げたルーズリーフや教科書を慌てて片付けていた天馬くんが、僕の方へ頭を下げた。彼の両親は帰宅が遅い事が多いみたいだ。前も帰らない日なんかがあったけれど、天馬くんはお留守番が多いのだろうか。妹さんもいるはずだけど、大丈夫なのかな。
荷物を片付け終えた彼が、ほんの少し視線を下げた。
「………あの、神代さんは、この後はお仕事がないんですよね…?」
「そうだね」
「……夕飯、とか、どうするんですか…?」
「あぁ、そういえば、考えてなかったな。君を家に送りがてら、何か買ってこようか…」
そわそわとした様子の天馬くんの言葉に、視線を上へ向ける。元々今日は、天馬くんに会うために夕方あのお弁当屋へ行くつもりだったからね。天馬くんが休みなら、そこにこだわらなくてもいいかもしれない。いや、他のお店のご飯を食べるくらいなら、あのお店のお弁当がいいけれど。
口元に手を当てて黙った僕に、隣で天馬くんが大きく息を吸い込んだ。
「も、し、ご迷惑でなければ、オレが何か作りましょうか?!」
「本当かい?」
「あ、材料とか、買いに行かないといけませんが…」
「天馬くんの料理が食べられるなら、嬉しいね」
「…っ………」
願っても無い申し出に、つい表情が緩んでしまう。毎週月曜日のお弁当も毎回とても美味しいけれど、彼の作りたての手料理が食べられるなんて貴重だ。きゅ、と口を引き結んだ天馬くんは、赤い顔のまま僕からほんの少し体を離して顔を逸らしてしまう。そんな照れ隠しをする姿がとても可愛らしい。もごもごと口ごもりながら、視線を泳がせる彼は、鞄の持ち手を強く握りしめた。
「で、したら、…少し、買い物に…」
「それなら一緒に行こうか。近くにスーパーもあるしね」
「え、ぁ、一人で行けますがっ…!」
「外はもう暗いし一人で出歩くのは危ないからね。それにこのマンション、セキュリティがしっかりしているから、一緒に出入りした方が良いと思うよ」
「………ぅ…」
彼が断りづらくなる言葉を選んで、言いくるめる。前にストーカーの事件があったから、天馬くんを一人で出歩かせるなんて出来るわけがない。その時に僕に迷惑をかけたと思っている彼は、こう言えば断れなくなってしまうからね。僕としては、あの時真っ先に頼ってくれたのがとても嬉しかったから気にしていないのだけど。
ソファーを立ち上がって彼に手を差し出すと、一瞬躊躇ってから手を取ってくれる。そろそろ天馬くんとは一年程の付き合いになってきた。出かける際やちょっとした時に僕が手を繋ぐようにしていたからか、彼は戸惑いはしても抵抗すること無く手を繋いでくれる。
ここまで本当によく頑張ったと、自分を褒めてあげたいね。
「ご両親が遅いのは聞いたけれど、妹さんはいいのかい?」
「あ、咲希…、妹は、友人と食べて帰るって言っていたので大丈夫です。今帰っても、オレも一人で食べることになるので、…神代さんが、良ければ…ご一緒、に、どうかと……」
「それなら、遠慮なくご一緒させてもらおうかな」
俯きがちなせいでいつもより声が小さかったけれど、なんとか聞き取れた。彼が一人で食べることになるのなら、いくらでもご一緒したいくらいだ。なんなら高級料亭に連れて行っても良いね。今度提案してみようかな。高校生男子なら、焼肉とかも好きそうだからね。野菜を食べなくて済むなら僕も外食くらいできる。
(…あぁ、でも、天馬くんがご飯を作ってくれると言ってくれたら、それ以外の選択肢は消えてしまいそうだな)
うんうん、と一人頷くと、きょとんとした天馬くんが首を傾げた。それすら可愛らしくて、緩みそうになる表情を引き締める。いつものコートや帽子、眼鏡なんかを身に付けて、天馬くんと一緒に家を出た。彼の荷物はまた戻るからと、部屋に置いて。