メインディッシュは俳優さん以外テイクアウト不可能です!× 27(類side)
「……類、いい加減その緩んだ表情を引き締めなよ」
「おや、すまないね、寧々」
「そんなんじゃ、天馬くんに気持ち悪がられるんじゃない?」
「それは困るなぁ。けれど、彼ならどんな僕も受け入れてくれるんじゃないかな」
「…………惚気話はいらないんだけど」
はぁ、と隣で溜息を吐く寧々に、にこりと笑って返す。
遊園地の下見に来ていた僕と寧々は、そこで偶然天馬くんと彼の友人に会った。今回は本当に偶然だ。今日彼が出掛けるのだというのは前に聞いていたけれど、行き先は知らなかったからね。それに、一応僕も用事があってここにいる。下見だけのつもりだったのですぐに帰るつもりだったけれど、天馬くんがいるなら話は別だ。
最近は二人きりの時間を作るために、沢山誘うようにしている。主に受験勉強だけれど、彼が頑張る姿が見られるのでとても楽しい。まだ緊張しているのか、中々彼から甘えてくれることはないけれど、それでも十分満足出来ている。
(……満足、というには、まだ少し物足りなさはあるけれどね…)
恥ずかしがり屋な天馬くんは顔を寄せるだけで真っ赤になるし、手を触れ合わせれば身体を固くしてしまう。僕との会話も、時折カタコトになる程緊張しがちだ。嫌がられている訳では無いと分かってもいるから、不安に感じることもない。けれど、そろそろもう少し先に進みたいとは思ってしまう。
まだ彼は高校生だ。大人の僕が手を出すのは良くないと分かってはいる。分かってはいるけれど、愛らしい彼を前にして、このままお預けをされ続けるのも耐えられる気がしない。高校を卒業するまである程度は我慢するとしても、せめてキスくらいは許されないだろうか。
「………類、そろそろ二人が帰ってくるんだから、その百面相をやめなさいよ」
「そんな顔をしていたかい?」
「何考えてんのか知らないけど、すごく怖い顔してたわよ。天馬くんが見たら泣き出すんじゃないかってくらい」
「どうやら、僕も余裕が無いようだね」
寧々の言葉に苦笑をし、口元を手で覆う。可愛らしい恋人と距離を詰める事で思考がいっぱいの様だ。こんな事では仕事に影響が出かねないし、そろそろ進展する術を検討しないといけないね。
そうしている間に、販売所の方から二人が戻ってくる。桃色の髪の少女が両手を振ると、天馬くんが少し慌てたように声をかけているのが見えた。仲の良さそうな二人の姿に、ほんの少しモヤッとしてしまう。恋仲であるというのに、彼が友人と一緒にいる姿を見るだけで嫉妬してしまうとは、僕はなんとも心の狭い男か。
たたた、と目の前まで二人が来ると、桃色の髪の少女が僕の隣にいる寧々へ手に持ったそれを差し出した。
「お姉さん、これどうぞ!」
「ありがと。…って、二個貰っても困るんだけど」
紙に包まれたチョコ味とプレーン味のチュロスを受け取った寧々が、眉を寄せて少女へ目を向ける。そんな寧々に、彼女はきょとんとした顔の後、ふわりと嬉しそうに笑った。
「だって、どっちも美味しそうだったから、どっちも食べてもらいたくて!」
「…なら、半分こにして、片方は食べてよね」
「うんっ!」
寧々の隣に座って嬉しそうにする少女に、寧々も満更ではなさそうだ。この前天馬くん達がスタジオにお弁当を差し入れてくれたことは知っているけれど、その時に会っただけでここまで寧々に懐くなんてね。それとも、他にどこかで会ったことがあるのだろうか。二人の様子を見ていた僕の方へ、天馬くんがそっと寄ってくる。それに気付いて顔を上げると、視線を少しさ迷わせながら彼が手に持ったチュロスを差し出してくれた。
「神代さんは、どちらにしますか…?」
「それなら、僕らも半分づつにしないかい?」
「はい」
片方を受け取って、半分に分ける。天馬くんに片方を渡すと、彼も半分に折ってそれを僕へくれた。ベンチに並んで、貰ったそれを口に入れる。表面がサクサクしていて、中はふわりと柔らかい。ほんのりとチョコの風味が口の中に広がって、甘さとほろ苦さに自然と頬が緩む。
「ん、悪くない」
「ふふ、寧々は素直じゃないね」
「なによ。類こそ、気の抜けた顔してんじゃん」
「さくさくふわふわでとってもとーっても美味しいっ!」
寧々も気に入ったようで、どこか嬉しそうだ。そんな寧々の隣で、彼女もにこにこと嬉しそうに手に持ったチュロスを頬張っている。そんな二人を横目に、僕は反対側へ目を向けた。僕の隣にちょこんと座っている天馬くんは、あ、と口を開く。
「んっ…、んん…!」
パッ、とその表情が綻んで、柔らかな頬がもぐもぐと動き出す。閉じられた唇に軽く砂糖が付いているのが見えて、指先でそっと拭ってあげた。ふに、と予想よりも柔らかい感触に、思わずゾクりと背が震える。指先が触れた瞬間、ビクッ、と彼の肩が跳ね上がり、赤い顔がこちらへ向けられた。手の甲で口元を隠してしまった天馬くんは、信じられないものを見るような目で僕を見上げている。それがまた愛らしくて、つい小さく笑ってしまった。
「すまないね、とても美味しそうで、つい触れたくなってしまったんだ」
「…っ、……、ぉ、同じものを食べているんですから、自分のを食べてくださいッ…!!」
「おや、はぐらかされてしまうとは、残念だね」
真っ赤な顔で叫ぶ天馬くんに、くすくすと小さな笑いが溢れる。本当に、彼は見ていて飽きないね。指先についた砂糖をぺろりと舐めとれば、びゃっ、と彼はまた身体を跳ねさせた。真っ赤な顔がさらに赤く染まっていくのが愛らしい。これ以上からかえば、拗ねられてしまうだろうね。仕方なく自分のチュロスに齧り付くと、わなわなと震える天馬くんは俯いてしまった。ほんの少しだけずり、と体を横へズラして、天馬くんに距離をとられてしまう。些細な事ではあるけれど、なんとなく寂しくて僕も距離を詰めた。困った様に眉をしかめる天馬くんは、視線をさ迷わせて震えている。
(……柔らかかったな…)
指先に触れた感触が、まだ残っている。柔らかい唇の感触。もし、僕のと触れ合わせたら、どんな感じだろうか。口の中の甘いものを飲み込んで、食べ終わった後の紙はくしゃくしゃに丸める。最後の一口を口に入れる彼は、まだ赤い顔を手でおさえていた。風で揺れる金糸がきらきらしていて綺麗だ。指先でそっと前髪をはらうと、パッと驚いた様な顔が僕へ向けられる。
ぶわわっ、と首まで赤く染めた天馬くんが、ベンチから勢い良く立ち上がった。
「っ、…え、えむとごみを捨ててきますっ…!!」
「ほぇ…?ぁ、待って、司くんっ!」
僕の手から紙ゴミを奪い取って、天馬くんが駆け出していく。それを追うように、寧々の隣から桃色の髪の少女が立ち上がった。そんな二人の後ろ姿を見送って、背もたれに体をもたれさせる。照れ隠しに逃げてしまうところが可愛らしい。僕がほんの少し触れただけで、あんなにも意識してくれる彼が愛おしい。
はぁ、と息を一つ吐いて額を手で押えると、寧々は二人の方を向いたまま口を開いた。
「……………逃げられてんじゃん」
「とても可愛らしいでしょ。今すぐ抱き締めて頭を撫でてしまいたいよ」
「それ、扱い方が完全に小動物なんだけど。ていうか、恋人なのに天馬くんが微妙によそよそしいのは気の所為?」
「寧々が怖いんじゃないかい?」
「どういう意味よ、それ」
じと、と僕を睨む寧々にへらりと笑って返す。僕にとっては、前からそうなので違和感もない。彼は、僕と一緒にいる時は緊張してしまうみたいだからね。その内慣れてくれればいいかな。それに、あからさまに意識をしてくれているのが伝わってくる彼の態度が、僕はとても好きだ。慣れてほしい反面、彼が僕の事で困る姿をいつまでも見ていたい。
「寧々も、随分彼女に気に入られたようじゃないか」
「…あんた達二人に気を遣ってんでしょ」
「そういう事にしておこうか」
ふい、と顔を背けてしまった寧々にそう返して、顔を上げる。友人に腕を引かれてこちらに戻って来る天馬くんは、どこかそわそわとしているようだ。
仲の良い友人なのも知っているし、今回二人がここに来ているのも、きっと僕が渡したチケットを使ったからだろうしね。まさか下見の時に偶然居合わせるとは思わなかったけれど。二人にデートのつもりはなくとも、どうも僕は嫉妬深いようだ。彼の隣にいるのは、僕がいい。
帰ってきた二人に「おかえり」と言えば、天馬くんは少し視線を逸らして「お待たせしました」と返してくれる。
「司くん、次は何に乗ろっか!」
「…そうだな……」
「司くんの特別のお客さんは何がいいですか?」
「……………ていうか、その、“特別のお客さん”ってなに?」
少女の言葉に、寧々が顔を顰めて首を傾げる。確かに、彼女が今日何度も僕をそう呼んでいたのを思い出す。“特別のお客さん”とはどういう事だろうか?
ちら、と天馬くんを見ると、彼はビクッ、と肩を跳ねさせて顔を逸らしてしまった。じわりと赤く染まる耳が、金糸の間から覗いている。そんな彼の隣で、少女がへらりと笑った。
「特別のお客さんは、司くんの特別のお客さんだよ。毎週水曜日の夕方五時半くらいに来てくれる、背の高いお客さんの事なの」
「…………僕…?」
「不思議なお客さんが来るようになったって、司くんがいっつも言っててね、お名前が分からないから、特別のお客さんって呼んでるの!」
「え、えむっ…!」
天馬くんが慌てて少女の腕を掴むけれど、にこにこと笑う彼女はそう教えてくれた。名前の分からないお客さん。それはつまり、僕が名前を教える前から彼が僕を意識してくれていた、という事だろうか。じわ、と胸の内に熱がゆっくりと広がっていくのを感じて、そっと手で胸元を掴む。
天馬くんの方へ顔を向けると、彼は赤い顔のまま困った様に眉を下げた。
「もしかして、毎週楽しみにしてくれていたのかい?
あの雨の日よりも前から」
「そ、……、…そ、うです…」
「光栄だね」
立ち上がって、照れてしまった彼の手をそっと掴む。まだ、顔を隠して必要以上に接しないよう気を付けていた時から、気にしてくれていたなんてね。毎週水曜日に通うお弁当屋さんの、いつも元気な店員さん。笑顔がきらきらしていて、声が凛としたその姿が印象的な、バイトの子。そんな少し変わった彼に会うのが、僕も楽しみになったのはいつからだったろうか。
恥ずかしそうに視線をさ迷わせる天馬くんに、自然と口元が緩む。掴んだ手を引き寄せて、ギュッと腕の中に抑え込むと、彼の体がビクッ、と大袈裟に跳ね上がった。
「か、神代さんっ…?!」
「そんなにも前から君の特別だったなんて、嬉しいな」
「ぇ、…いや、えむが言い始めた事で、特別、は…」
「違うのかい…?」
「……その、尊敬、は、してます…けど、…変な、意味は…」
もごもごと口篭る天馬くんは、腕の中で固まってしまっている。服の隙間から覗く白い首が赤く染っていて愛らしい。中々抱き締め返してくれない天馬くんは、少し困っているようだ。どうやら、意地悪しすぎたのかもしれない。彼は人目を気にするから、こんな所で素直に答えてはもらえないかな。
そっと腕の力を抜いて彼から体を離す。ちら、と僕を見た天馬くんは、どこか寂しそうに見えた。
「嬉しい話も聞けたけれど、“特別のお客さん”は長いからね。僕の事は、類と呼んでくれて構わないよ」
「ならあたしはえむって呼んでね!類くん!」
「ふふ、ありがとう、えむくん」
「「え…」」
にこにこの少女、えむくんが両手を上げたので、僕も手を肩の高さまで上げる。と、ぱちん、と元気よくハイタッチをされた。ノリの良い子みたいだ。彼女のお兄さん達が妹さんを大切にする気持ちが何となくわかる気もするね。順応力もある彼女は、僕の手を掴んでぶんぶんと上下に振って握手してくれている。
そんな僕らを横で見ていた寧々と天馬くんが、声を揃えてこちらを見た。ぽかんと口を開けて信じられないものを見ているかのような顔だ。やっぱり寧々も、なんだかんだ言いつつえむくんの事を気にしていたようだね。
「類、そんなあっさり名前で呼ばせていいの?」
「今更じゃないか。それに、その方が僕も楽だからね」
「…そうじゃなくて、……はぁ…」
「寧々も意地なんて張らないで自己紹介したらどうだい?」
「うるさい」
ふん、と顔を背けてしまった寧々に、息をひとつ吐く。隣でそわそわと寧々を見ているえむくんには気付いてないのかな。彼女も中々面白い子のようだ。あの寧々を相手に怯まず向かっていけるなんてね。人見知りしてしまう幼馴染が懐かれている様がなんだか微笑ましい。
「お姉さんのことはなんて呼んだらいいですか?」
「草薙」
「え―…」
「嫌なら呼ばなくていいけど」
「……お姉さん…」
「よろしい」
しょんぼりと肩を落とすえむくんは、渋々天馬くんの方へ向かう。ぽんぽんとそんな彼女の頭を撫でながら、天馬くんは苦笑していた。彼に甘えられるのは、少し羨ましい、かな。胸の奥がほんの少しチリチリと痛んだ気がして、眉を下げる。そんな僕を、寧々はじとりと睨んだ。余計なことをするなと言わんばかりの顔だね。
「オレも、草薙さんって呼んだ方が良いですよね」
「別に、司はそのままでいいよ」
「ぁ、はい…。じゃぁ、寧々さん、で…」
天馬くんの言葉に、寧々は優しくそう返した。そんな寧々に、天馬くんも照れたように返している。どことなく雰囲気の違う2人の様子に、僕もえむくんも思わず「え」と変な声が出てしまった。
僕をちら、と見た寧々が、ふふん、と口角を上げる。
「それじゃぁ、司。次はわたしとあれに乗って」
「へ、…ぇ、…え……、はぃ…?」
「なんでなんでなんでっ…?!あたしもお姉さんと乗りたいよっ〜!」
「待って寧々、天馬くんは僕のなんだけど…?!」
「はいはい、聞こえない聞こえなーい」
首を傾げてまだ理解が追いついていない天馬くんの腕を、寧々がぐいぐいと引っ張っていく。そんな二人を僕とえむくんは慌てて追いかけた。僕だってまだ『天馬くん』と呼んでいるのに、何故寧々が彼を名前で呼んでいるのだろうか。少しの悔しさに、胸の奥がギュ、と苦しくなる。隣で追いかけるえむくんも半分涙目だ。寧々が天馬くんを気に入っているのは知っていたけれど、これは意地が悪い。
どこか不機嫌な幼馴染の背中を、僕は恨む様に見ながら追いかけた。
―――
(司side)
「足元気を付けてくださいね」
係の人の声を聞きながら、揺れるゴンドラに足をかける。少し狭い中へ乗り込んで、右側の椅子へ座った。ぐらりとゴンドラが揺れる。視界の隅で、入り口からもう一人乗り込んで来るのが見えた。慌てて視線を足元へ向けて、膝に揃えた手を握りしめる。視界に、オレより大きな靴が映った。それが目の前で止まって、ゴンドラがぐらりと揺れる。オレの向かい側に座ったのが分かって、自分の足を少し体の方へ引き寄せた。
「それでは、行ってらっしゃい」
係の女性の声で、小さなゴンドラの扉が閉まる。鍵のかかる音が、やけに大きく響いた。密閉された空間は、シンとしていて、心臓の音が大きく鳴り響く。
何故か、また神代さんと二人で観覧車に乗っている。
(………近い…)
少し動けば、靴がぶつかってしまう距離。息遣いの音すら聞こえてしまいそうで、無意識に息を止めてしまう。じわじわと顔が熱くなっていく。握り締める手に力を込めると、じっとりと手汗が滲んでいた。震える視界が、右へ左へと揺れ、ゆっくり上がる。一瞬見えた神代さんの喉に、ドキッとして急いで顔を窓の外へ向けた。夕暮れに染まる空の色に、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
前一緒に乗った時は、もっと暗かったな。
「妬けてしまうね」
「…んぇ……」
「僕の方が先に天馬くんと知り合って、ここまで関係も築いてきたのに、寧々の名前を先に呼ばれてしまうなんてね」
「ぁ、…ぇ、と…」
「まぁ、礼儀正しい君の事だから、寧々の名字を知らなくて、仕方なく名前で呼んでいたのかな?」
「………そぅ、です…」
くす、と小さく笑う神代さんの声に、そっと頷いた。初めて寧々さんに会った時、神代さんからの紹介では『寧々』という名前しか分からなかった。だから、寧々さんと呼んでいた。そんな事も分かるとは、流石神代さんだ。
神代さんは、オレの気持ちや考えを察するのが上手い。全て見透かされているのでは無いかと、思ってしまう。気にしてもらえるのは嬉しいが、オレのこの気持ちまでバレてしまわないか不安になる。駄目だと分かっているのに、神代さんに邪な気持ちを抱いてしまっている、と。
「それでも、なんだか悔しいかな」
「…神代さん……?」
「僕も、名前で呼んでくれないかい?」
「……で、すが…」
ぐらりとゴンドラが揺れる。神代さんが、オレの隣に座った。腕がぶつかって、背を伸ばす。ほんの少し横へズレると、神代さんの手がオレの腰を引き寄せた。ぶわわっ、と一気に顔が熱くなり、身体が強ばる。
(……な、んでっ…?!)
状況が全くわからん。腰に添えられた手が熱くて、心臓が痛いくらい煩く鳴り響く。さら、と柔らかい神代さんの髪が耳を擽った。肩が小さく跳ねて、息を飲む。膝に揃えていた片手に、神代さんの手が重なった。熱くて、オレより大きな大人の手。なんでこうなった。なんで…。
ぐるぐると視界が回っている気がする。とん、と側頭部に神代さんが頭を預けてくるのが分かって、思わず身体が大袈裟に跳ね上がった。
「寧々ばかりずるいじゃないか。僕も、君に名前で呼ばれたいよ」
「……ぁ、…ぇ、…っ、………な、…ぇ…??」
「君が周りの目を気にしてしまうのは知っているけれど、僕は君が隣にいてくれるなら、いつだって触れていたいんだ」
「…、………ぅ、…、…ぇ…」
ぷしゅぅ、と脳から煙が出てしまいそうだ。
すぐ隣で、溶けてしまいそうなほど甘く低い神代さんの声が聞こえてくる。恋人に向けるかのような、そんな男性の声。それが、オレに向けられている。思考が全然追いつかん。このままでは、心臓が破裂してしまう。ぷるぷると震える身体は、全身に力が入りきっていて石のように固まったまま動けない。
視線が、膝から動かせない。オレの手に重なっているのは、誰の手だ。優しく腰を抱く手は、誰の手だ。鼓膜を震わせるこの声音は、誰の声なんだ。すり、と髪に何かが擦り寄せられる。くすぐったい様な、少し重たい感触にぶわりと背が粟立った。
(………お、れは、…夢でも、見ているのか…?)
もしかしたら、今日の事は全部幸せな夢なのではないだろうか。神代さんに触れられる感触も、熱も、声も、全部まやかしなのではないだろうか。そう思うのに、確かに腰や手は熱くて、髪は擽ったくて、心臓は苦しいままだ。じわりと涙が滲んで、止めていた息を吐き出した。頭の中が、めちゃくちゃだ。あまりに考え込み過ぎて、頭がボーッとしてきた。このまま意識が消えてしまいそうになったオレの耳元で、ちゅ、と聞き慣れない音が大きく聞こえてくる。
「…ッ………?!」
ひゅ、と喉が引き攣った音をさせた。ビクッ、と身体が跳ね上がって、更に体温が上がっていく。耳の縁が、じん、と甘く痺れた気がした。
今のは何の音だ。ぐるぐると思考が現実逃避を繰り返しながら、たった一つの答えを消して必死に考えを巡らせる。ネズミか、はたまた舌打ちされてしまったか。布擦れの音か、それとも、スマホの着信音か。
有り得ないと分かっているから、それだけは絶対に無いと脳が否定を繰り返す。声が全くでなくて、体は指一本動かせない。抵抗も、逃げることも、何も出来ない。何も、したくない。
「天馬くんにそんな緊張されてしまうと、僕にも移ってしまうよ」
「…っ、………ん、…」
「前に、君が言ってくれた事、覚えているかい…?」
「………ぇ、…あ…」
くす、と神代さんの笑う声が耳元から聞こえてくる。それだけで、胸の奥がきゅぅ、と音を鳴らした。重なる神代さんの手に、力が入る。細い指が、オレの指の間をそっと撫でた。繋ぐか、迷うような手つきに、鼓動がばく、ばく、ばく、と早る。
手に意識を集中していたからだろう、ぐらりと体が傾いたことに、気付くのが遅れた。
がたん、とゴンドラが大きく揺れる。視界が反転して、硬い椅子に背が当たった。ゴンドラの天井をバックに、神代さんの顔が目の前にある。
「…っ、……」
窓の外は夕暮れで、橙色の様な、赤い様な、少し紫がかった空の色をしている。眉を寄せて、どこか余裕のなさそうな表情の神代さんも、頬が赤く見えた。じっとオレを見下ろす月色の瞳に、喉がごくん、と大きな音を鳴らす。
(…ま、って……)
咄嗟に出た言葉は、音にならなかった。
薄く開いた唇を、引き結ぶ。じんわりと涙の滲んだ目が、神代さんの瞳から逸らせなくなる。まるで、夢の中にいるかのようだ。重なっていた手は、いつの間にか指を絡めて握られていた。腰に触れていた熱がなくなって、少し肌寒く感じる。
大きな手が、そっとオレの頬を優しく撫でた。親指の腹が、すり、とオレの引き結んだ唇を撫でる。心臓が飛び出すんじゃないかと思う程うるさい。いつの間にか止めていた呼吸が苦しくて、はぁ、と熱い息を吐き出した。
むに、と唇を優しく神代さんの親指の腹で開かされる。
「……そんな期待するような顔、してはいけないよ」
「…ん、……っ、…」
眉を下げた神代さんが、そう小さく笑った。額が触れ合い、あまりの近さに焦点が上手く合わない。熱い吐息が、唇を撫でて擽ったい。さら、と柔らかい髪が頬を撫で落ちていく感覚に、一層鼓動が早まる。
「これからゆっくり覚えていこうね。僕とのキスの仕方」
「…………、…ぁ、…」
ぎゅ、と強く目を瞑る。とろりと甘い声音に、思考が溶かされていくようだ。鼻先が、すり、と触れた。頭のどこかで、『駄目だ』とストップがかかる。なのに、意識の全てが唇に集まって、触れる瞬間を期待してしまう。唇を掠める吐息が熱い。真っ暗な視界の中、いつ来るか分からないその時を、今か今かと身体が待ち望んでいる。
くん、と顎を指先で上げさせられたのと同時に、ガチャン、と大きな音が辺りに響いた。
「お疲れ様でした〜」
そんな軽快な声で、雰囲気が一気に一変する。
ぱちぱちと瞬きを繰り返すオレから、ゆっくりと神代さんが顔を離す。呆然とするオレの目の前で、神代さんがふわりと笑った。
「失礼」
そう聞こえたのと同時に、体が浮遊感に襲われる。ぽす、と神代さんに抱えられたのだと気付いたのは数秒後で、ふんわりと香る匂いに息を止めた。微動だにしない身体を抱えたまま、神代さんがゴンドラをゆっくり降りていく。先程まで元気で明るい声を発していた係の女性は、小さな声で「さようなら」と言っていた。
閉園間近な為、人影はもうほとんど見当たらない園内を、神代さんはまっすぐ進んでいく。呆然としたままのオレは、そっと指先で自分の唇に触れた。
じん、と熱を持つそこは、柔らかい。
「明日が休みなら、このまま連れて帰りたい所なのだけどね」
「……、…」
「おや、寧々かな。すまないけれど、一度おろすね」
「…………は、…ぃ…」
鳴り響く軽快な音楽に、神代さんが困ったように笑う。ゆっくりと体が下ろされ、ふらふらした足でなんとか立つ。気を抜けば、このまま崩れ落ちてしまいそうだ。「もしもし」とスマホで通話を始める神代さんの横顔をちら、と見て、顔を背けた。まだ、唇が熱い。
(……………ま、…た…)
熱が出たと言われても信じられるほど、顔が熱い。オレのスマホも、ポケットの中で震えていた。きっと、えむからだ。分かっているのに、今は言葉が出る気がしない。寧々さんと一緒にいるなら、神代さんが今場所を話してくれれば伝わるだろうか。
神代さんの甘い声音が、頭から離れてくれない。熱い耳をそっと手で覆って、目をきゅ、と瞑った。唇が、まだじんわりと熱い。
(……して、しまった…)
ゾク、と背が震えて、涙が薄く膜を張る目でもう一度神代さんを見る。スマホを耳に当てて話をしているその横顔は、とてもかっこいい。夜空に浮かぶ月のような金色の瞳が、不意にオレへ向けられる。
ぱち、と目が合ったと気付いた瞬間、神代さんの綺麗な唇が弧を描いた。嬉しそうな、どこか悪戯の成功した子どものような顔で。
「…っ、……」
ぶわわっ、とまた体が熱くなる。
唇に残る柔らかい感触も、熱も、全部覚えてしまっている。頬を撫でる掌の感触や、しっかり握られた掌の熱も、掠める吐息の熱でさえ。背中が少し痛くて、足は震えて立つのがやっとだ。
それでも、胸の奥に感じるのは隠しようもない多大な幸福感で。
(……神代さんと、…キス、し、て、…しまった…)
きゅぅう、と胸が音を鳴らす。
夢の様な、そんな一瞬の出来事。だと言うのに、それが何時間にも感じた。ぼろ、と涙が溢れて、慌てて袖で拭う。何故こうなったのか、全くわからん。分からんが、たったそれだけがこんなにも嬉しい。もっと大事な事が沢山あるはずなのだが、今は他の事なんか考える余裕がなくて、ただ溢れる涙を必死に袖で拭った。
ぐす、と鼻を鳴らすオレの手に、そっと温かいものが触れる。
「…、……」
優しく繋いでくれる神代さんの手を見て、オレはまたぼろぼろと涙を溢した。
―――
「………………で、何この状況…」
「感極まってしまったみたいでね」
「つ、司くん、大丈夫?!」
ぼろぼろと涙を流す司を見た寧々が、じとりと類を睨む。そんな寧々の隣にいたえむは、両手を広げて司に駆け寄った。ぼろぼろ泣く司の隣で、類は困った様に、けれどどこか嬉しそうに笑う。そんな類を見た寧々は、盛大な溜息を吐いた。
「…暫く仕事増やすから」
「それは困ってしまうな。僕はもっと天馬くんとの時間がほしいのだけど」
「子どもを泣かせた罰よ」
「ちょ、ちょっと寧々、誤解だって…!」
司の肩をそっと抱いて、寧々が類を睨む。慌てて弁明しようとする類の傍で、えむがハンカチを司に差し出した。未だに状況を上手く把握出来ず感情がめちゃくちゃの司が、えむに宥められる様に涙を拭かれる。ぐす、と鼻を鳴らした司が、心配そうにするえむに小さく「すまん」と謝った。
「……と、突然で、驚いた、だけだ…、…」
「痛いとこない?大丈夫?」
「…背中、が少し、痛いが…問題ない…」
「……………類…?」
ぐす、ぐす、と少し落ち着いてきた司の言葉に、えむがホッと息を吐く。背中を優しく擦りながら宥めるえむを横目に、寧々がにこりと笑った。その笑顔に、類がビクッと方を跳ね上がらせる。珍しく怒っている幼馴染に、冷や汗が背を伝い落ちた。
「だ、だから、誤解だよ、ほんの少し触れた、だけ、で…」
「暫く会う時間なんか作ってあげないから、反省しなさい」
「待って、一度ゆっくり話をしないかい?ね?」
「今日は二人をわたしが送るから、類は一人で帰りなさい。分かった?」
「え、いや、それは…」
ぴしゃん、と寧々にそう言い切られ、類が眉を下げる。よく分かっていない司とえむの腕を引いて、寧々は自分の車の方へずんずんと歩き始めた。
こうなっては、類の意見などもう寧々には通らないだろう。そう悟った類は肩を落として、園の出口に向かっていく。ここで駄々を捏ねてはかっこ悪い所を想い人に見せることになってしまう。それだけは避けたかった。
「天馬くん」
車に乗り込む司に、類が声をかける。振り返ったその顔は、まだ涙で濡れていて、けれど赤く染まったその表情は決して暗いものでもない。視線が彷徨う愛おしい人に、小さく類が笑いかける。
「おやすみなさい」
「…ぉ、やすみ、なさい…」
ぺこ、とお辞儀をして車へ逃げるように乗り込む司に、類は苦笑する。ひらひらと手を振って、車体が見えなくなるまで見送った。空には星が輝いている。
「………次は、邪魔が入らないといいかな」
そう小さく零して、類は夜道をゆっくり歩いて帰った。