メインディッシュは俳優さん以外テイクアウト不可能です!× 小話(司side)
バイト先に週一回来るお客様は、若手人気俳優の神代類だった。
そんな神代さんと、偶然仲良くなってしまったオレの、ある日の話。
―――
「天馬くん、こんにちは」
「いらっしゃいませ、神代さん」
扉を開ける鐘の音を店内に響かせて、見慣れたその人が入ってきた。帽子を目深に被って、ガラスの厚い眼鏡をしたその人は、カウンターの前まで来るとふわりと笑ってくれる。
人気俳優の神代類さん、その人である。
「今日も元気だね」
「ありがとうございます!」
「ふふ、店員らしくていいね」
お互いに名前を呼び合う仲だ。それに、連絡先も交換した。文化祭で劇をやるのだと言った時、快く指導も引き受けてくれた。そんな優しいお客さんだ。この週一回バイト先で神代さんに会うのが、オレの楽しみの一つでもある。
(…そんな神代さんを、好きになってしまった)
優しくてかっこいい神代さんに、絶賛片想い中だ。失恋確定の、決して叶わぬ恋であるが。なにせ、神代さんはもう相手が決まっている。指輪だってしている。そんな神代さんに、恋情を抱いてしまった。隣にいたいと、思ってしまった。
これは、オレが死ぬまで秘密にしなければならないものだ。
「丁度お預かりします」
カチャン、とレジを開けて、受け取ったお金をしまう。レジ袋を手渡すと、神代さんはふわりと笑った。その優しい表情に、胸がきゅぅ、と音を鳴らす。オレの好きな、神代さんの表情の一つだ。たった数分のこの時間は、オレにとってとても大切な時間だ。
「そうだ、天馬くん」
「…む……?」
「口を開けてくれるかい?」
にこ、と微笑む神代さんに、オレは黙って口を開ける。神代さんに言われると、何故だか従わなければと思ってしまうから不思議だ。あ、と開けた口を見て、神代さんはポケットをゴソゴソと探ってなにやら個包装の袋を取りだした。ピッ、とそれが開けられて、長い指で口の中に何かが入れられる。
「…ん、………、…んんっ…!」
「ふふ、スタッフの子が教えてくれたお菓子屋さんのクッキーなのだけど、どうだい?」
「……ん、とっても美味しいですっ!サクサクしていて甘さも甘過ぎず、紅茶の香りも口いっぱいに広がってっ…!」
「気に入ってくれた様で良かったよ」
さくさくと口の中で良い音がする。じわりと広がる程よい甘さと紅茶の風味で口の中が幸せだ。ごくんと飲み込んだ後もほんのりと後味が残る感じが楽しい。思わず頬を掌で抑えて、きゅ、と目を瞑る。美味しいものを食べた後の余韻に浸っていれば、カウンターの上に小さな袋が置かれた。
目を瞬くと、神代さんが嬉しそうにふわりと笑ってくれる。
「お土産だよ。バイトが終わったらどうぞ」
「え、いや、貰えませんよっ?!」
「月曜日のお弁当のお礼だから、気にしないでおくれ」
「…ぅ、………それ、なら…」
そう言われてしまうと、受け取らざるを得ない。そろそろと袋を手に取って、エプロンのポケットへしまった。月曜日にお弁当を作るようになってから、神代さんにはお菓子を貰ってばかりだ。申し訳なさと、ほんの少しの嬉しさに複雑な気持ちになる。そんなオレを見て、神代さんは満足そうに笑った。
「それじゃぁ、また来週、ね。天馬くん」
「は、はい…!ありがとうございましたっ!」
「こちらこそ」
ひらひらと手を振ってお店の扉を開ける神代さんに、慌てて頭を下げる。「またのお越しをお待ちしております!」といつもの挨拶を口にした。扉が閉まるのをぼんやりと見つめて、胸元を握りしめる。
「………はぁ、…相変わらず、かっこいぃ…」
さらりとこういう事ができる人なのだ、神代さんは。優しくてかっこよくて頭が良い。家事が苦手だと言っていたが、それが気にならない程良いところが沢山ある人だ。神代さんの婚約者さんは、とても幸せ者だろうな。神代さんとずっと一緒に居られたら、どれ程幸せだろうか…。
「…いやいやいやっ…!何を考えているんだっ!元より諦めるつもりだったのだ!そんな事を考えていても仕方がないではないか!」
ぶんぶんと頭を左右へ振って、パチンと頬を両手で挟む。こうして神代さんがオレを気にかけてくれるだけでも十分すごいことだ。なにせ、あの人気俳優神代類なのだから。熱狂的なファンですら、週一回会うなんて叶わないだろう。そう考えれば、オレはなんて幸運なのだろうか。
「手作りのお弁当を気に入ってもらえて、しかもお礼にお菓子まで貰えて、日々些細な事でも連絡をくれて、勉強は見てもらえるし、演技の練習や分からないところはアドバイスだって貰えて、友人を通り越して師匠と弟子みたいな関係で…」
考えてみれば、オレはかなり神代さんに良くしてもらっているな。行きつけの店のバイトにここまで良くしてくれる神代さんは本当に優しい人だ。あと数十分程で忙しくなるだろう店内で、小さく息を吐く。
こんなにも良くしてくれる神代さんが相手だからこそ、いつまで経ってもこの想いを諦めきれないのだろうな。
そう結論付いて、オレはもう一度大きく息を吐いた。
―――
「お兄ちゃん、最近良くお菓子食べてるね」
「…む……?」
たまたまリビングのソファーに座っていた時に、咲希からそう言われた。手に持っていたのは、神代さんから貰ったクッキーだ。そんなに頻繁に食べていたつもりは無いのだが…。ここ数日のことを思い返してみても、ピンと来ない。首を傾げるオレに、咲希が近寄ってきた。
「この前はマカロンを貰ったって言って食べてたし、その前はパウンドケーキも貰ってたよ?」
「………そういえば、そうだな…?」
「バウムクーヘンとかゼリーとかも貰ってたことあるし、チーズケーキを貰って帰ってきてみんなで食べたこともあるよ?」
「ぅ…、それは、…」
全部神代さんがくれたものだ。会う度に何かしらお菓子を貰っていた気もするが、そんなに色々食べていたのか。オレより覚えている咲希がすごい。だが、ここで神代さんに貰った、なんて言えるはずもなく。友人から貰ったと誤魔化してきたが、そろそろ本当に考えねばならぬだろうな。
うむむ、と一人口元に手を当てて顔を顰めると、それを見た咲希が慌てて手を顔の横で振り始めた。
「あ、違うの!太ったとかそういうことが言いたいんじゃなくてっ…!」
「え」
「あ」
オレが顔を向けると、咲希が慌てて手で口を抑える。
たっぷり三秒ほど咲希と見つめ合ってから、オレは慌ててソファーを立ち上がる。
「ふ、太っているのか?!」
「違うよっ…!お兄ちゃんにお菓子を分けてもらうようになって、アタシが最近増えてきたなって感じてっ…!」
「咲希より食べているのだから、オレも増えているということでは無いかっ!!?」
ピシャーンッ、と雷が落ちてきたかのような衝撃を受けて、慌ててリビングを飛び出した。咲希が止めていた気もするが、そんなものに構っていられん。慌てて洗面所に向かって行って、体重計を出す。いや、男のオレがあまり体重なんか気にしても仕方がないのかもしれん。だが、将来神代さんのようになりたいと決めてからは、それなりに体型にも気を遣ってきていた。
最後に乗ったのは三年生になった時の身体測定以来だ。ビピッ、と電子音が鳴ったのを確認して画面を見たオレは、思わず息を飲んだ。
「…ふ、増えているッ……!」
体重計の画面に映った体重は、前よりもそれなりに増えてしまっていた。確実にお菓子の影響だろう。それはそうだ。毎週と言っていい頻度で神代さんからお菓子やケーキを貰っていて、大事に食べてきたのだから。量が多ければ日を分けて、毎回しっかりと食べきっている。そんなことをしていればこうなるのは必然だ。
「……し、…暫く、減量しなければっ…!」
ぐっ、と拳を握りしめて、オレは小さくそう声に出した。
神代さんの様なかっこいい大人の男になる為に、体型維持と筋トレに励むしかない。バッ、と顔を天井へ向け、拳を突き上げる。
「そうとなれば、元に戻るまでお菓子は禁止だっ!」
決めた目標を声を高々に掲げ、オレは部屋に戻って筋トレを始めた。
―――
(一週間後)
「天馬くん、こんにちは」
「いらっしゃいませ、神代さん!」
パッ、と顔を上げて笑顔を向ければ、神代さんも笑い返してくれる。いつものようにカウンターで注文を受けて、軽く世間話を交わす。明日は早くから仕事があるとか、今度上演される映画が面白そうだとか、そんな話だ。
お会計も済ませレジ袋を手渡すと、神代さんがポケットから箱を取りだした。
「天馬くん、もう少しこっちに寄って、口を開けておくれ」
「は、……はっ…!」
癖になったかのように手招きする神代さんへ、『はい』と返事を返しそうになって我に返る。これはいつものあれだ。お菓子を食べさせられるやつだ。パッ、と口を塞いで、首をぶんぶんと左右に振ると、神代さんにきょとんとされてしまう。
「い、今はバイト中ですのでっ…!」
「おや、それはすまなかったね」
「その、お気持ちは嬉しいのですが、お菓子はもう…」
受け取れません。そう言おうとしたオレに、神代さんはふわりと笑った。口を塞ぐ手が取られて視線を向けると、優しい瞳と目が合う。
「仕事中でなければいいのかい?」
「…ぇ、…あ、…その…」
「すまなかったね。天馬くんは真面目に仕事をしていたのに、迷惑をかけてしまったみたいだ」
「そ、そういうわけではっ…!」
「それでは、またね、天馬くん。お仕事頑張っておくれ」
「え、…ぁ、……」
ひら、と手を振って、神代さんがさっさとお店を出ていってしまう。その後ろ姿に手を伸ばしかけて、オレは何も言えずに手を下ろした。ありがとうございました、も、またのお越しをお待ちしております、という挨拶も出来なかった。神代さんは、オレのために毎回用意してくれているのに、断ってしまった。
「………迷惑とかでは、…ないのだが…」
じわりと目頭が熱くなるのを、瞬きでやり過ごす。
お菓子は食べないと決めた。つまりそれは、神代さんからもうお菓子を貰わないと言うことだ。自分で決めたのだから、これで合っているはずだ。合っているはずなのに、胸の奥がツキツキと痛む。
きっと、理由を話せば分かってくれる。神代さんは優しいから、『そうだったんだね』と笑って返してくれるはずだ。だからこそ、理由を説明しなければいけなかった。あんな断り方をしたら、優しい神代さんを傷付けるだけだ。
迷惑だなんて思っていない。毎回美味しいものを、オレの為に用意してくれているのだ。有名店のケーキとか、人気のクッキーや、見た目が綺麗なゼリーとか、オレが喜ぶからと用意してくれている。
そんな神代さんの優しい所が、好きなのに…。
「……っ、…仕事が終わったら、謝らねば…」
じわぁ、と滲む視界を袖で擦って、大きく頷く。
太ってしまったのはオレの怠惰が原因なのだ。神代さんのせいにしてはいけない。神代さんを悲しませてはいけない。謝って、しっかりと理由を説明せねば!
拳をギュッと握って、仕事終わりになんと連絡するか考えながら残りの時間を乗り過ごした。
―――
「お疲れ様でした!」
バッ、と頭を下げて店を出る。すっかり暗くなった夜空を見上げて、ゆっくりと息を吐いた。緊張する胸を手で押えてから、スマホを手に取って使い慣れたメッセージアプリを起動させる。相手はもちろん神代さんだ。断って傷付けたことに対しての謝罪と、断った理由を説明しなければならないからな。
よし、と意気込んで、仕事中に考えていた文字を打ち込もうと指を画面にタップさせる。と、前方から「こんばんは」と声をかけられた。
「……ぇ…」
「こんな時間までバイトお疲れ様。天馬くん」
「か、神代さんっ…?!」
顔を上げると、夕方と同じ装いの神代さんがオレへ向けてひら、と手を振ってくれている。驚いて足が止まったオレの目の前まできた神代さんは、ふわりと目の前で笑った。差し出された手を見て、思わず息を飲み込む。
「家まで送るよ」
そんな優しい言葉に、小さく頷いて手を取った。
こういう時、子ども扱いされているのだと悔しく思う反面で、どうしても嬉しくなってしまう。どんな理由であれ、神代さんと手が繋げるのは嬉しいからな。
引かれるままに、夜道を並んで歩く。なんでいるんですか?とか、なにか用がありましたか?とか、聞きたいことは沢山あるのに言葉が出てこない。視線をあげることも出来ず、足元を見つめてしまう。
街灯の光を何回か通り過ぎた辺りで、神代さんがオレの名前を呼んだ。
「天馬くんは、チョコレートは好きかい?」
「…ぇ、…あ、はい」
「そう、それなら、はい」
「んむ…!」
ピッ、となにかの包装を破く音の後、口に固いものが押し付けられた。粉が唇について、少しくすぐったい。慌てて口を開くと、口内に甘いものが転がり込んだ。舌の上で、とろりと溶けていくその味は、ほんのりほろ苦いチョコレートだった。ココアパウダーを纏っていて、口内の熱でとろとろと溶けていく。ほろ苦さとカカオの香り、後から溢れるチョコレートの甘さに頬が緩んでいく。
「美味しいかい?」
「っ〜〜…!」
「ビターチョコレートなのだけど、中心にもう一層別のチョコレートが入っているから味が変わって面白いらしいよ」
こくこく、と頷くと、神代さんが嬉しそうに笑った。ほろ苦いチョコレートから、とろりと溶けだす甘いチョコレートの味がたしかに面白い。甘い味に塗り替えられていく口内に、口元が緩んでいく。ごくん、と飲み込んだ後も、口内の甘さは消えない。ほんの少し暖かくなったように感じて、お腹に手を当てた。
そんなオレに、神代さんが満足そうに笑ってくれる。
「喜んでもらえたようで良かった」
「あ、ありがとうございました…!」
「良ければもう一つどうかな?君に食べてもらいたくて、帰りを待っていたんだ」
「ぅ……、その…」
にこにこと笑う神代さんに、思わず言葉を濁す。
まさか、仕事中なので、と断った結果、仕事終わりまで待たれるとは思わなかった。忙しいはずなのに、オレの為にここまでしてくれるのか。むずむずと胸の奥が擽ったくなり、嬉しさに口元が緩みそうになってしまう。唇を引き結んで、視線を逸らした。
たしかに美味しい。チョコレートの後味が口に残っていて、もう一口食べたいと思ってしまう。少し照れくささはあれど、神代さんからもらうのも嬉しいと思ってしまう。素直に頷いてしまいたい。
だが、それではダメなんだ。
「……も、らえ、ません…」
「………嫌だったかい?」
「違います。その、…実は、最近、少し食べ過ぎていて…」
足が、止まる。
夜道は人の通りが少なくて、大通りから離れた住宅街の通りは余計に静かだ。オレが立ち止まったから、神代さんも立ち止まった。ぎゅ、と服の裾を掴むと、神代さんが体をオレの方へ向けてくれる。
静かにオレの言葉を待ってくれる神代さんに、オレは一度深呼吸をしてから顔を上げて視線を合わす。
「太ってきたので、減量するまでお菓子は控えようと思っていたんですっ!!」
「……………ぇ…」
「神代さんから頂くお菓子はとても美味しいのですが、少し控えようと思うので、御協力をお願い致しますっ!!」
バッ、と頭を下げてそう言い切った。
決して神代さんから貰いたくないとか、迷惑とかそういうわけでは無い。むしろ嬉し過ぎて食べ過ぎたんだ。これはそんな自分の怠惰に対しての戒めでもある。ぎゅ、と目を瞑ったまま数秒頭を下げていれば、目の前で、小さく笑う声が聞こえた気がした。パッ、と顔を上げると、口元を手で押えて、神代さんが肩を震わせている。
「……神代、さん…?」
「っ、…すまないね、…ふふ、…随分と、可愛い悩みだったものでね…」
「わ、笑い事では無いっ…!!」
かぁあ、と顔が熱くなって、つい大きな声が出てしまう。こっちは真剣なのに、笑うことは無いだろう。ふふ、とまだ笑っている神代さんの様子に、どんどん恥ずかしくなっていく。むすぅ、と唇を引き結んで顔を顰めると、繋いだ手をぎゅ、と強く掴まれた。ついで、その手がくん、と引かれて足が一歩前へ出る。
ぽすん、と神代さんの胸元に体が傾いて、何故か抱きとめられた。ぶわっ、と顔が熱くなって、慌てて抜け出そうともがいてみる。が、しっかりと抱き締められてしまっては、抜け出すことが出来ない。
「な、ななななッ…?!」
「…天馬くんは細過ぎるくらいだから、もっと食べた方がいいよ」
「へぁ…?!ど、どどこ触ってっ……!?」
「ほら、腰とか細すぎて折れてしまいそうだし、体重もとても軽いじゃないか」
「…ひぇっ、……わ、分かったっ!分かったから下ろしてくれっ!」
ぺたぺたと腰を触られたり、体を持ち上げられてしまう。前にもあったが、神代さんはオレを軽々と横抱きにできるのだな。オレだってそれなりに体重はあるはずなのに、神代さんのどこにこんな力があるのだろうか。やはり筋力の差なのだろうか。近い距離にある神代さんの顔に、心臓が破裂しそうな程煩く鳴り響く。バタバタと足を暴れさせたせいで、落とさないように神代さんにしっかりと抱き抱えられてしまい、ピタッ、と抵抗をやめた。さっきより近くなった距離に、息を詰める。
固まったオレに、神代さんが頭上で小さく笑った。
「あぁ、でも、前より背は伸びたね。腹筋も少し鍛えたのかな、前よりしっかりしてきているよ」
「……………ぇ…」
「多分、体重が増えたのは身長と筋力が増えたからではないかい?君自身が丸くなった感じはしないからね」
「………そ、…ぅなの、か…?」
「僕と共演するために、頑張っているんだね、天馬くん」
ふわりと目の前で笑う神代さんの言葉に、目を瞬く。
確かにそう言われれば、服の丈が少し合わなくなってきたようにも思う。前より体力はついてきたし、それなりに身体作りに力を入れている。その成果が出た、ということか。自分ではあまり実感がなかったが、神代さんにそう言われると、そうなのかもしれないと思えてくる。嬉しさで、さっきまでの恥ずかしさや情けなさが塗り替えられていく。緩みそうになるのを必死に耐えて、ほんの少し視線を逸らした。
どうやら、太ったわけではないようだ。その事に安堵すれば、神代さんがオレの体をそっとおろした。
「安心したかい?」
「はい」
「それなら、頑張っている君に御褒美をあげないとね」
「…む……?」
ピッ、と個包装を開けて、神代さんの指がチョコレートを摘む。それがオレの口元に当てられて、綺麗な声で「開けておくれ」とお願いされる。断れるわけがなく、恐る恐る開くと、ころりとチョコレートが口内に転がる。まぶされたココアパウダーと、とろりと溶けるチョコレートのほろ苦さが口いっぱいに広がっていく。ころんと転がるチョコレートを歯で噛むと、中からとろりと甘いチョコレートが溶けだした。そんなオレの唇を、神代さんの指がつい、と撫でていく。
ほろ苦いココアパウダーが、ゆっくりと唇の上に擦り付けられていく。触れられた唇が、じわりと熱くなっていく気がして、きゅ、と引き結んだ。そんなオレからそっと指を離して、顎を指先で掬われる。
「 」
ちゅ、と聞こえた音に、思わず口の中のチョコレートを飲み込んだ。頬と唇の間に触れた柔らかい感触と、とても近い距離にある神代さんの顔。細い指先がゆっくりと離れていき、目の前で神代さんがふわりと笑った。
「ご馳走様」
呆然とするオレに、神代さんはそう言った。握った手が引かれて、足が自然と動く。誰も通らない暗い夜道を、手を引かれるまま進んでいく。甘いチョコレートの味が口いっぱいに広がっていて、くらくらする気がした。繋いだ手が、熱くて仕方ない。触れられた場所がじわり、じわりと熱くて、擽ったさが消えてくれない。
黙ったままのオレに、神代さんが振り返って笑った。
「それじゃぁ、またね、天馬くん」
「…ぇ、……ぁ、…はい…」
「ふふ、おやすみ」
「………ぉ、やすみ、なさい…かみしろ、さん…」
繋いだ手が離れていく。遠ざかる後ろ姿を見えなくなるまで呆然と見送ってから、ふらふらした足取りで家の中へ入る。ガチャン、と玄関のドアを閉めて、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。手に持ったチョコレートの箱を膝に置いて、両手で頬に触れる。
熱があるのかと思う程熱くなった顔を、ごち、と膝に押し付けた。
「…………………あれは、…ずるぃ……」
ふしゅぅ、と湯気が出ているだろう思考が、漸くその言葉を押し出した。チョコレートを食べさせられただけ。それだけのはずだったのに、最後のあれはなんだったんだ。唇を撫でた指の感触も、まだはっきりと残っている。外国の挨拶はキスだとぼんやりと聞いたことがある。それならば、神代さんのあれも挨拶なのだろうか。そうだ、そうに違いない。最後の『ご馳走様』だって、きっとチョコレートが頬に付いていたのだろう。それを舐めとってくれたのかもしれん。そういうことだ。決して他意があるわけではない。神代さんはそういう所があるからな。
「………本当に、ずるぃ…」
はぁ、と息を吐く。
オレばかり、神代さんを意識していて悔しい。思わせぶりな態度を取る神代さんは、本当にずるい。ずるいと思うのに、そういう所も好きだと思ってしまう自分がいて、怒れないんだ。どんどん好きにさせられてしまう。
悔しいような、情けないような、嬉しいような、そんなぐちゃぐちゃな気持ちのまま、オレはゆっくりと家の中へ入った。
お風呂で顔を洗うか暫く逡巡したのは、また別の話。