メインディッシュは俳優さん以外テイクアウト不可能です!× 31(類side)
「………………………」
じと、とした寧々の視線が痛い。
理由は分かってる。分かっているけれど、こればかりは仕方ないじゃないか。スマホを片手にソファーで項垂れる僕の背を、寧々が強めに叩いた。
「いい加減、こっち手伝ってよ」
「………やる気が出ない…」
「あんたねぇ…、一昨日まで気持ち悪いぐらいにこにこしてたじゃん」
「…あれから天馬くんと連絡がつかないんだよ、心配になるじゃないか…」
メッセージアプリには既読すらつかない。たった二日とはいえ、彼は真面目な性格をしている。返事はそこまで遅くなることがないというのに。いや、彼が悩んでいる時は比較的連絡が来なくなることもあるけれど…。それでも、送ったメッセージに返信がないことなんてなかった。スマホが故障したとか? 彼は物を大切にするから、確率が低い。何か事件に巻き込まれたとか? それなら真っ先に連絡をくれそうだけど…。
思い当たる事と言えば、あの日泣く天馬くんが可愛らしくて何度もキスをしてしまった事だ。僕としてはもう少し恋人らしい事をしたかったけれど、彼には刺激が強過ぎたのだろうか…。学生で、しかも彼はそういう事に慣れていなさそうだからね。
「…………はぁあ…」
学生の内は、なんて考えはもうどこかへ行ってしまったかのように、彼を前にすると自制が効かなくなってしまう。観覧車での、彼のあの顔がいつまでも残ってしまっている。倉庫に閉じ込められた時、あれが天馬くんとなら、と、何度思ったことか。そんな事になっていたら、きっと安心させる為と理由をつけて、めちゃくちゃにしていたかもしれない。正直一昨日も、寧々が止めてくれなかったらあのままもっと手を出した自信はある。いや、あまり外で恋人らしい事が出来ないから、もう少し触れたかったというのが本音ではあるけれど。
はぁ、ともう一度深く溜息を吐く僕を、寧々がじとりと睨んだ。持っていた紙の束で、べち、と頭をはたかれる。
「悩むくらいなら、呼び出せばいいじゃない」
「……呼び出せって…」
呆れた様な顔をする寧々の言葉に、目を瞬く。呼び出せ、なんて、寧々にしては珍しい提案だ。僕が彼に頻繁に会うのを、あまり良く思っていなかったのに。いや、僕がここで悩んでいるから、面倒くさくなったのだろうね。
苦笑すると、寧々が僕の胸元にピ、と人差し指を押し当てた。
「避けられてる理由が知りたいなら、直接聞きなさいよ。司だって、あんたが会いたいって言えば逃げないでしょ。遠回しなメッセージばっかしてないで、男らしく抱かせろ、くらい言ってきなさいよ」
「…ね、寧々さん、…それ、今度やる映画の台本にある台詞では…?」
「子ども相手に余裕なくしたあんたには丁度いいじゃない」
「う、…」
寧々の言葉が真っ直ぐ胸に刺さる。ズキズキとした痛みに顔を顰めると、追い討ちをかけるようににこりと微笑まれた。
「まぁ、愛しい天馬くんと恋人になれたことに浮かれて、罠に嵌められたどこかの誰かさんのせいで、今わたしは仕事が大変なわけだけど?」
「…………今度、お礼に何か奢るよ」
「良い機会だし、相手の子が諦められるよう、今度ぺしゃんこに潰してきなさいよね」
「…はい」
寧々の言葉が次々胸に刺さる。ゲーム画面なら確実に僕の上に『K.O.』の文字が浮かんでいたことだろうね。今回の件で、寧々が相手の子を相当恨んでるのは知っている。仕事量が増えたのだから仕方ないだろう。
今度えむくんを呼んで彼女に寧々を任せようかな。寧々は微妙な顔をするけれど、結構相性がいいと思う。彼女は寧々をとても気に入っているみたいだしね。
(それに、歳下の子は良い意味で気が抜けるだろうからね)
僕が、天馬くんの前で気が抜けるみたいに。彼の傍は、不思議と落ち着くからね。赤い顔でへにゃりと笑う天馬くんを思い出して、つい口元が緩む。寧々の言葉で抉られた胸の痛みが、不思議と消えていくようだ。
この前は沢山泣かせてしまったけれど、もう大丈夫だろうか。なにか困った事はないかな。勉強は捗っているだろうか。
今度、触れるだけではないキスがしたいと言ったら、受け入れてくれるかな…?
「……やっぱり、手を出す前に手順は踏まないとかな…」
「結婚するなら、マスコミがうるさいからこっそりしなさいよ」
「その時は、僕についてきてくれるだろう?寧々」
「…………はぁ、…あんたに振り回されるのは慣れてるわよ」
僕をよく分かっている寧々ににこ、と笑みで返して、ソファーに座り直す。受け取った書類に目を通すと、それを横目で見てから寧々もノートパソコンに目を落とした。カタカタ、とキーボードを叩く音が部屋に落ちる。
と、寧々が驚いた様な顔を僕へ向けた。
「…って、…まさか…?」
信じられないものを見るような顔をする寧々に、僕はそっと首を傾げて見せた。
―――
(司side)
咲希が部屋に閉じこもってから三日が経った。学校も休んでいて、母さんがとても心配している。理由は、『神代類の逢い引き』の件で、だ。
『今立ち直れないから、放っておいて…』
そんな風に言っていた咲希の落ち込んだ声を思い出す。
咲希が神代さんの熱狂的ファンなのは知っている。家族全員が周知の事だ。そんな神代さんが、若手アイドルと楽屋側の倉庫で逢い引き、なんて記事を見れば、それはショックだろう。引きこもりたくなる気持ちも分からんでもない。
が、“兄妹揃って”落ち込んでいられるはずもなく。
「………………はぁあ、…」
大きな溜息が出るのは、今日は六回目だ。教室の机に突っ伏して、スマホを見る。通知欄についた数字を見て、スマホをそっと閉じた。もやもやとした気持ちが、全く晴れない。咲希は今、こんな気持ちなのだろうか、とぼんやり思いながら窓の外へ目を向けた。
綺麗な青空に、きゅ、と顔を顰める。
(………オレに、キスするくせに…)
うぐぅ、とカエルの潰れた様な声が喉を出る。
記憶の中で何度も再生されるのは、あの観覧車の時の事と、この前神代さんの家で起こった事だ。甘やかすような声音も、当たり前のように触れる唇も、愛おしい人に触れる時のような優しい触れ方も、何故か神代さんは、それをオレにしてくれる。まるで、オレが神代さんの恋人かのように。それを思い出す度に、心臓が破裂しそうな程ドキドキして、落ち着かなくなるんだ。なのに、神代さんは会う度平然としていて、オレばかり意識させられているみたいで少し寂しくなる。
(…もし、本当に意識されてないとしたら、馬鹿みたいではないか……)
他の女性にも、こんな風に接するのだろうか。神代さんのファンサービスの一つなのか。女性ファンには嬉しいものだろうな。本当に愛する人には、もっと特別な事もするのだろうか。倉庫の中で、あのアイドルの人と…?
そこまで考えて、慌てて首を左右へ振る。よくよく調べてみたが、彼女はオレより一つ歳下だった。そんな相手に手を出す程、神代さんは不誠実な人には見えない。
(大人の神代さんが、学生相手に手を出すわけないだろうからな…!)
それくらいの常識は弁えてる人だと信じられる。例え恋人相手でも、無理矢理触れるような人ではないだろう。うんうん、と一人頷いて、はた、と気付いた。最初と論点が大きくズレている、と。
そう、問題はそこでは無いだろう。神代さんの婚約者さんが寧々さんではなく、あのアイドルの人だったという事だ。いや、だが、その方が納得出来てしまう所もある。指輪をつけていながら、今まで婚約者についてはぐらかしていた事。相手が未成年だから、という事なのだろう。それに、オレを特別扱いしてくれることも、だ。オレが、彼女と歳が近いから、親近感が湧いたのかもしれん。
「…………そんな事で、見てほしいわけでは、ないのだがな…」
ぽつりと零れてしまった言葉に、隣の席のやつが顔をこちらへ向けた。「どうかしたか?」と小さく問いかけられ、慌てて首を振る。今が授業中だというのを完全に忘れていた。慌てて黒板の方へ顔を向けると、かなり板書が増えてしまっている。慌ててペンを握ってノートへ向き直った。
隣のやつは、不思議そうにした後授業に集中していた。
(……確かめたい…)
もやもやとした気持ちが消えない胸元を掴んで、大きく息を吸う。このままでは、勉強が進まない。この際ハッキリさせよう。神代さんの婚約者さんが誰なのかも、オレが神代さんにとってなんなのかも。それで、出来るなら、もう、あんな事はしないでほしい、と。
(スキンシップだろうと、舞台の練習だろうと、……誰かの代わりでも、…もう、神代さんとキスはしない)
そうしたら、諦められるはずだ。
神代さんを、憧れの俳優として見ていたい。追いかけていたい。片想いの相手ではなく、妹が大ファンの、人気俳優として。
えむの店のバイトも、もう少ししたら終わりになるのだしな。
(…そうしよう……)
そっと心の中で決意をし、ポケットからスマホを取り出す。こっそりと机の下でメッセージアプリを開いた。沢山届いているメッセージは読まずに、急いで用件だけ打ち込んだ。『今日の放課後、会って話がしたいです』と。それだけを打ち込んで、送信ボタンを押す。
「…よし」
うん、と一つ頷くと、隣にいたやつがまたチラ、とオレを見てから、授業に意識を戻していた。
―――
「じゃぁ、えむ、また明日!」
「うん!今日も類くんに会うんだよね?行ってらっしゃい!」
「あぁ、行ってくる」
ぶんぶん、と手を振るえむに笑って返し、オレは教室を出た。
神代さんからは、『校門の所へ迎えに行く』と返信がきている。まだ人が多い廊下を小走りで通って、階段を駆け下りた。下駄箱で靴を取りだし、上履きをしまう。履き慣れた靴をしっかり履いて、昇降口を出た。部活に行く生徒も多いようで、グラウンドの方へ走っていく姿が見える。それをちら、と見てから、校門の方へ向かう。
「……まだ、いないか…」
門のそばに神代さんの姿はなかった。下校する生徒が横を通り抜けていくのを見ながら、そっと息を吐く。心臓が、少し煩い。スマホの画面を確認するが、その後の連絡はなかった。授業が終わったことだけ連絡して、端の壁に背を預ける。ゆっくりと息を吐くと、ほんの少し気持ちが落ち着いた気がした。
(神代さんの婚約者は、誰なんですか)
そう聞けばいい。その答えを聞いた後に、『オレは、誰かの代わりですか』と、問えばいいんだ。ふぅ、と細く息を吐いて、スマホに目を向けた。通知欄に『もう少しで着くよ』と返信が来ている。それを見ただけで、心臓が大きく跳ねた。緊張で、手に汗がじわりと滲む。
大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出すオレの後ろから、肩に誰かが触れた。
「あの、天馬先輩っ…!」
「っ…?! ぇ、…あ、…」
「ぁ、突然話しかけてすみません」
驚いて振り返ると、知らない女子生徒がそこにいる。オレより少し背の低いその女子生徒は、じっとこちらを見上げていた。髪をサイドで一つにまとめて、大きな眼鏡をしている。制服を見るからに、多分二年生なのだろう。どこかで会ったことがあっただろうか。
首を傾げて言葉を待つと、彼女は大きく息を吸い込んでから、オレの手を掴んだ。
「こっちに来てくださいっ!」
「は…?! いや、オレは……!」
ぐい、と腕を引っ張られて、思わず足に力を入れる。彼女の力に比べれば、まだオレの方が力は強いらしい。抵抗すると、彼女は少しムッとした顔をオレに向けた。
「お話があるんです!」
「オレはここで人を待っているんだ! すまないが、話なら今度…」
「その待ち人に、もう会わないでって言いたいのっ!!」
「っ…」
大きな声で言葉を遮られ、ビクッ、と肩が跳ねた。
大きな眼鏡の向こう側から睨むようにオレを見る彼女は、握る手に力を入れる。強く握られた手首が痛んで、眉を少し寄せた。下校中の生徒達が、驚いた様にオレ達を見ている。
周りがざわざわとし始め、オレは小さく息を吐いた。
「…分かった、場所を移動しよう……」
「言っておきますが、類さんに連絡するのは無しですよ」
「…………」
「ついてきてください、こっちなら、人が少ないので」
“類さん”とはっきり彼女が言った。オレの待っている人が神代さんだと、本当に知っているようだ。スマホをポケットにしまって、仕方なく手を引かれるままついて行く。せめて、用事が出来ました、と断りだけでも入れておけばよかったな。
そんなことをぼんやり考えながら、心の中で神代さんに謝罪した。
―――
「で、話とはなんだ?」
ついてこいと言った彼女が止まったのは、学校から少し離れた場所にある公園だった。彼女の言うとおり、人がほとんどいない。聞かれたくない話なのだろう。手を離した彼女が話し出すのを待っていれば、くるりと彼女は振り返った。サイドに結った髪が解かれ、ふわりと長い髪が風で揺れる。大きな眼鏡が外されると、見たことある顔に変わった。
(……神代さんと一緒に映っていたアイドルの…)
見覚えのある顔を見て、無意識に一歩後退る。彼女は怒っている様だった。眼鏡を胸ポケットにかけると、キッ、と睨むようにオレを見る。そんな彼女の様子で、彼女が何を言いたいのか察してしまった。
大きく息を吸い込むのが見えて、視線が少し下へ向く。
「類さんに近付くのはやめてくださいっ!迷惑です!」
予想通りの言葉に、ほんの少し眉間に皺がよる。
神代さんとこの人がどういう関係なのか、神代さんに聞いたことは無いが、この感じでは知り合いとかではないのだろう。だが、オレも下心がないとは言えないが、神代さんと友人として仲良くさせてもらっているんだ。仲良くするなと言われて、はい分かりました、なんて言いたくない。
それに、いつか神代さんの隣に立つと言ったんだ。今ここで頷くわけにはいかない。
「神代さんとは友人として良くしてもらっているだけです」
「なら、手を繋ぐのも、類さんの家に行くのも、友人としてなんですか?」
「っ、…そ、れは……」
思わず言い淀んでしまったオレに、彼女は更に顔を顰めた。
視線が泳いでしまう。手を繋ぐのは、いつも神代さんからだ。歩く時に自然と手を握られ、振り解けないままその内それが当たり前になってしまった。最初は戸惑った。けれど、あまりに自然に手を繋がれるから、それが嬉しかったんだ。神代さんと手を繋ぐのが、好き、だから。
黙ったオレに、彼女は大きく息を吐いた。
「とにかく、私の婚約者なので、勝手に会いに来ないで下さい!」
「…っ……」
彼女がオレの前に右手を出した。その薬指に嵌められた銀色の指輪を見て、息を飲む。神代さんが前に着けていた指輪に似ていた。シンプルなデザインの指輪。オレが指輪から視線を逸らせずにいると、彼女が一歩こちらへ踏み出してくる。反射的に一歩後退るオレに、彼女は口角を少し上げた。
「これで分かりましたよね。あの人は私のなんです。これ以上邪魔しないで」
「………、…だが、オレは役者として神代さんの隣に…!」
「素人の貴方が類さんの隣に立っても、笑い者になるだけですよ。それに、私は貴方と違って類さんから直々に指導してもらってるんだから」
「……ぇ…」
思わず声が零れた。
胸を張って宣言した彼女の言葉に、ツキ、とした痛みが走る。神代さんが、彼女に指導しているのか。いつかの放送で言っていた『弟子』とは、オレではなく、彼女の事なのでは…。そんな考えが脳裏を過り、言葉を飲み込んだ。
オレは、神代さんの隣に立ちたいと、そう思って役者を目指す事にした。文化祭の舞台で演じたのが楽しくて、神代さんが、オレが舞台に立つ姿を見たいと言ってくれて、オレもいつか、神代さんみたいな役者になりたいと、そう思ったから。神代さんが待っていてくれるなら、と、そう思って…。
(……ただの、社交辞令だったのだろうか…)
オレなんかに期待してくれていたわけでは、なかったのだろうか。ただ、オレが勝手にその気になっていただけで、本当は…。
俯いたまま黙るオレの手が、強く掴まれた。顔を上げると、オレを睨む彼女はスマホを取ろうと手を伸ばしている。慌てて抵抗すると、ムッ、と表情を顰められた。
「連絡先、消してください!」
「っ、…そこまでする必要はないだろう?!」
「類さんの特別は私一人なんですっ!だから、貴方にはもう…」
彼女の指先がスマホに触れて、バランスが崩れる。ぐら、と大きく後ろへ傾いた視界に目を強く瞑った。襲い来る衝撃を覚悟するオレの耳に、女性の「きゃっ…」という甲高い声が聞こえた。
と同時に、背中がとん、と誰かにぶつかる。
「………………ぇ……?」
恐る恐る目を開けると、オレの胸元に倒れ込んできた彼女が固く目を瞑って倒れ込んでいた。背後からお腹のところに回された誰かの腕が、しっかりとオレを支えてくれている。痛みはなく、温かいものに包まれるような感覚に、胸の鼓動が早まった。ふわりと、安心する匂いがした気がして、振り返った。
「…かみしろ、さん……?」
「間に合ったようで安心したよ、天馬くん」
「………なんで、…ここに…」
ぎゅぅ、とお腹に回された腕に力が込められた。安堵した様子の神代さんに、一層ドキドキしてしまう。ここにいると、伝えていなかった。待ち合わせ場所は校門の前で、連絡はするなと言われていたから何も出来なくて。自分から呼び出しておいて待ち合わせ場所に居ないなんて、怒って帰ってしまっても不思議では無いのに。
目を丸くさせるオレを見て、神代さんがふわりと笑う。その優しい表情に、心臓が大きく跳ねた。
「君がいないから、何かあったのかと思って探してたんだ。ここに向かうのを見ていた子がいてね、すぐ見つけられたよ」
「そう、ですか…」
「無事で良かった。今度からはもっと早く迎えに行けるようにするね」
「んっ…」
胸の内が擽ったくなる様な甘い声に、頬が熱くなっていく。耐えきれずに視線を逸らすと、触れるだけのキスをされてしまった。呆然とするオレの目の前で、神代さんが優しく微笑む。ぶわりと顔が一気に熱くなり、慌てて両腕で顔を隠した。心臓が破裂してしまいそうな程煩く鳴り、声が出なくなる。はく、はく、と口を開閉させながら、必死に言葉を探した。何するんですか、も、何故キスしたんですか、も、声にはならない。嬉しい様な気持ちと、困惑がぐちゃぐちゃに混ざり合う。
そんなオレの体にかかる重みが、急に無くなった。
「類さんっ、迎えに来てくれたんですね!」
「……………ぁ、…」
体勢を立て直した彼女が、オレから離れて神代さんの方へまわる。神代さんの腕を抱き締めて顔を寄せる姿に、胸の奥がツキ、と痛んだ。
真っ先にオレを助けてくれたのは、彼女の姿が見えなかったからだろう。彼女がいると知ったら、神代さんは、オレより彼女を優先するのでは…。
オレに向けてくれるような顔を彼女に向ける神代さんが見たくなくて、視線を逸らす。そんなオレの耳に、神代さんの低い声が聞こえた。
「君にその呼び方を許したつもりは無いよ」
「……ぇ、…あの…」
「名前を売る為に近付いているだけなら適当にやり過ごそうと思っていたけれど、彼に手を出したなら話は別かな」
「………わ、私っ、…だって……」
お腹に回された手が離れていくのが分かって、一瞬ドキッとした。寂しい様な気持ちが、胸の奥に広がっていく。嫌だ、と声が出かけたオレの肩に、腕が回された。くる、と体が反転して、顔が布に押し付けられる。ふわりと神代さんの匂いが鼻先について、息を飲んだ。
「この可愛い恋人が名前で呼んでくれないのだから、無関係の君が勝手に呼ばないでおくれ」
「…………………………は……?」
「…………む、無関係って、私は、類さんの…」
「君とはただの共演者だ。仲良くするつもりは一切ないよ」
ぴしり、と体が固まる。聞き間違いでなければ、神代さんは『恋人』と言っていなかっただろうか。彼女に対して、強く拒むような事も言っている。つまり、神代さんの婚約者さんは、彼女ではなかったということか? だが、神代さんに恋人がいるというのは今の発言で明らかになった。なってしまった。神代さんの恋人だと言っていた彼女に、ここまで冷たく突き放すような事も言っている。それが、少し怖い。もし、オレも神代さんに片想いしているのだと気付かれたら、こんな風に突き放されてしまうのだろうか。
(……それ程、その人が大切なのだろうな…)
切り裂かれるような痛みに、ぎゅ、と胸元を強く握り締める。諦めなければと分かっているのに、ここまで現実を突き付けられても諦めきれない気持ちが胸の奥で燻っている。神代さん自身から聞いたというのに、『好き』が、消えてくれん。
肩を抱くように回された腕の熱が熱くて、目を強く瞑った。このまま、時が止まってしまえばいいのにな。答え合わせなどせずに、勘違いさせられたまま、この腕の中にいたい。
「でも、私に色々教えてくれたじゃないですか…!」
「それは共演者としてアドバイスをしただけだよ」
「…だって、私は……」
ぼろぼろと泣き出す彼女の手元を見て、神代さんが目を瞬いた。左手の薬指に嵌められた銀色の指輪が、陽の光を反射させて光る。「…それ、」と言いかけた神代さんの声に、彼女がパッと顔を上げた。嬉しそうに笑って、指輪の嵌った手を神代さんの方へ向ける。
「そう! 類さんのと同じ指輪! これがあれば、マスコミも世間も私と類さんが恋人だって信じてくれるでしょ?」
彼女のそんな言葉を聞いて、ぞわりと背が粟立つ。
本当の恋人でもないのに、そんな事をしたら、神代さんがただ困るだけだ。神代さんの恋人が、悲しむだけではないか。彼女はそれが分かっていて、言っているのだろうか。嬉しそうに笑ってそっと指先で指輪を撫でるその様が、異様なものに見えてしまう。
ぎゅ、と神代さんの腕を握ると、神代さんの手がオレの手に重ねられた。
「知らないかもしれないけど、その指輪では無理だと思うよ」
「……ぇ…」
「前から、君みたいに僕の恋人だなんて言い張る子が多くて困っていてね。その対応策としてこの指輪を作ったんだ」
「…………つく…た…?」
神代さんが、指輪を嵌めた右手を前に出す。至ってシンプルな、銀色の指輪。その表面に、薄く線が彫られているのが微かに見えた。緩やかな曲線を描くその線は、羽根のようにも見える。
「対になる様に作ったんだ。着け始めたばかりの時はこれを知らずに何人も真似してシルバーリングを着けてね。一時期大騒ぎになっていたんだけど、この細工の話をしたら、そんな事する人も居なくなったよ」
「………そんな話、知らない…」
「八年くらい前だったかな? きっと君たちは幼くて、知らないかもしれないね」
「…八年……」
ぺたん、とその場にへたり込んだ彼女に、神代さんがにこりと笑う。八年前と言えば、オレは小学生だろうか…。それなら、知らないのも無理はない。彼女もオレより歳下なのだから尚のことだろう。あの指輪はそんなにも前から着けていたものだったのか。キラキラと陽の光を反射させる、羽根の様な模様の入った銀色の指輪。
神代さんの恋人とお揃いの、大切な絆の証。それも貰ったであろう相手の人が、少し羨ましいな。
ぼんやりとそんなことを思いながら見つめていると、神代さんが手を上着のポケットへ入れた。再び出てきた掌には、小さな小箱が乗っている。
「で、これの対になる指輪がこれだよ」
黒い箱がカパ、と開いて、中から銀色の指輪が顔を出す。薄らと羽根の模様が彫られた、銀色の指輪。オレも彼女も、その箱を凝視してしまう。神代さんの指に嵌められた物と同じ指輪の入った小箱。その小箱が、すい、と近寄ってくる。
目の前に差し出された指輪から目が逸らせなくなったオレに、神代さんがふわりと笑った。
「そして、これは今から僕の恋人である天馬くんの物だよ」
「「……………え…?」」
さらりと落とされた言葉に、素っ頓狂な声が零れる。言われた言葉が理解出来ず、唖然と神代さんを見つめた。そんなオレに優しい笑みを向けたまま、ゆっくりと神代さんの首が傾けられる。
「てことで、受け取ってくれるかい?」
“受け取る”とは、何をだ。優しい声音で問いかけてくれる神代さんの手にあるのは、指輪の入った小箱のみ。オレではない誰かに言っているのだろうかと、視線を左右へ向ける。が、神代さんに肩を抱き寄せられたままのオレ以外には、前方でへたり込む彼女しかいない。
もう一度小箱の中を見るが、キラキラと輝く指輪しか入っていない。新手のドッキリかなにかだろうか。じっと見つめてみるが、びっくり箱のような仕掛けは発動しない。
黙ってしまったオレに、神代さんは困ったように眉を下げて笑った。
「デザインが気に入らないかい?」
「…ぇ、いや…そうではなくて……」
「元々誰かに贈るつもりがなくてね、サイズは僕のと同じだから、天馬くんには少し大きいと思うんだ」
「………ぁ、…え…」
肩を抱く手が離され、オレの右手が取られる。神代さんが小箱から指輪を抜くと、それをオレの右手の薬指にそっと通した。根元まで入れてもぶかぶかのそれは、すぐにでも落ちてしまいそうで、慌てて手をぎゅっと握り締める。指輪の嵌った指を、ゆっくりと神代さんの細い指先で撫でられ、心臓が大きく跳ねた。
「結婚指輪は君に似合うものを用意するよ。その婚約指輪は、後でチェーンに通してお揃いのペンダントにしようじゃないか」
「……こ、んやく…?」
「これがあれば、もう不安なんか感じないよね?」
ちぅ、と指先に口付けた神代さんが、ふわりと嬉しそうに笑う。ぶわりと顔に熱が集まって、くらくらと思考が揺れた。何を言われたのか、全く理解が追いつかない。
何故神代さんとお揃いの指輪がオレの指に嵌められたんだ? 何故、指先にキスをされているんだ? 婚約とはどういう事だ? 結婚…?誰が、誰と……?? 頭の中を疑問がぐるぐると回り続けている。
そんなオレを見た神代さんが、眉をそっと下げた。
「もしかして、怒っているのかい? 君以外との関係を騒がれてしまうような失態をしてしまったから、不安になってしまったかな?」
「……そ、のまえ、に…、…ぇ、……?」
「今すぐにでも籍を入れたいけれど、君が卒業するまでは待っておくれ。卒業したら、もう不安になんてさせないから」
きらきらと輝く様な神代さんの顔が目の前にある。言いたいことも聞きたいことも沢山あるが、言葉が全く出てこない。怒る?何をだ?オレ以外、とは、もしかしてあのニュースの事なのか??不安とは、どういう事だ?何故、“恋人に言う”様なことを、オレは神代さんに言われているんだ?? まさか、夢を見ているのか?幻か何かなのだろうか??
はく、はく、と音の出ない口が開閉を繰り返す。沢山の“何故”を音にしようと大きく息を吸うと、神代さんの唇が音を紡ぐ前のオレの口を塞いだ。
ぴし、とその瞬間、オレの体が固まる。まるで時が止まったかのように思考が停止して、指先ひとつすら動かせなくなった。そっと離れていく神代さんが、目の前でふんわりと微笑むのを見て、ゆっくりと指先から体温が戻っていく。
「…………だ、……」
わなわなと指先が震えて、喉から音を絞り出す。やっと出た音に、神代さんがそっと首を傾けた。優しくオレの言葉を待つその表情から目を逸らすように、ぎゅっ、と固く瞼を閉じる。
そのまま、大きく息を吸い込んで、腹から声を吐き出した。
「誰かこの状況を説明してくれーっ!!」
バサバサ、と近くの木々に止まっていただろう鳥たちが一斉に飛び立つ音が公園に響いて、ちょっとした騒ぎになったのは言うまでもない。
その後、寧々さんが呼んでくれた事務所の人達に、放心状態の彼女が連れて行かれた。
オレは意味もわからないまま神代さんと一緒に、寧々さんの車へ乗せられたのだった。