この瞬間、世界に2人だけ書き損じ②
「乾杯!」
急に酒の山を抱えて赤葦の家に乗り込んできた黒尾が、家主を放置して勝手に酒盛りを始める。
「ちょっと、どういうつもりですか?」
「ん? ちょっと頼まれたから」
「木兎さんですね」
「過保護な先輩だよなぁ」
「俺があの人の後輩だったの、もう十年くらい前なんですけど。まぁ気にかけてもらえるのは嬉しいですけどね」
「はいはい。たまには旦那にも惚気てやれば? 喜ぶだろ。単純だし」
「黒尾さんまでそんなこと言って…… そもそも恋人ですらないですし、嫌ですよ、あの人の嫁なんて。振り回されるのが目に浮かぶ」
「嫁って言い出しだのは俺じゃねぇし」
「それは知ってますよ。だいたい俺みたいなのが嫁って言われてたら、あの人だって迷惑でしょうに」
「それはどうかなぁ……」
訳のわからないことを言いだした黒尾がケラケラと陽気に笑ってビールを呷った。人の家であまりに自由奔放すぎる。それを仕方ないと許してしまえるのも、この人の人徳なのかもしれない。
我が家のようにくつろいでいる黒尾を放置して、赤葦はテレビをつけた。そろそろ木兎の出るバラエティが始まる時間だ。これを見るためにわざわざ定時退社してきたのだ。
「バラエティまで確認してんの? ただの先輩後輩にしては甲斐甲斐しいねぇ」
「今の俺はただのあの人のファンですよ」
揶揄するように笑う黒尾を無視して、赤葦は目の前の画面に集中した。そこに満面の笑顔で映るあの人から目が離せなくなる。
始まりは、確かに憧れだった。それがいつ恋に変質したのか解らない。だけどもうずっと長い間、赤葦はあの人に恋をしている。
きっと一生、これ以上の恋なんてできない。どうしようもなく一方通行なそれは、もう魂にまで根付いてしまったから。
あの人が卒業した時、癒着していたように高校時代を過ごしたあの人と距離ができてしまうと覚悟していた。あの人の興味はバレーだけに向けられていたし、実際、中学時代の交友関係なんて一切匂わせもしなかった。そんな人だから、バレーを続けない赤葦のことなんてすっかり忘れてしまうと思っていた。そうして距離ができて時間が流れたら、ただの後輩に戻れると信じていた。
なのに。それがただの夢だったと気付いたのは赤葦が大学に進学した頃だった。バレーを止めてあの人と違う大学を選んだ赤葦に、まるで忘れるなと釘を刺されているかのように、何度も木兎から連絡が入った。そのうちに、距離感のおかしい関係の終わらせ方が解らなくなってしまった。
ぼんやりと眺めている画面の向こうで私生活でのこだわりだとか、最近のマイブームを笑顔で話していた。赤葦はその全てを知っていた。それほど木兎の生活に赤葦が入り込んでいる。果たしてそれは、後輩として適切な距離なのだろうか。
いつになったら、この謎の関係が終わるのだろう。
終わらせたいのか、進みたいのかも解らない。わかることが怖くて。何も考えたくなくて、赤葦は黒尾が持ってきたビールを勝手に拝借して一息で空にした。
「いい飲みっぷりだねぇ」
「呑まなきゃやってらんないだけですよ」
「そういう砕けたとこ、もっと見せてやればいいのに」
「嫌ですよ。好きな人の前でくらいカッコつけたいじゃないですか」
「お、やっと好きな人だって認めるんだ」
「お見通しのくせに白々しい」
「気付いたのは俺じゃないけどな」
「どうせ孤爪でしょ」
「それはどうでしょう」
にんまりを表情を読ませない笑みを浮かべた男に、かつて散々くえない男と称された頃の記憶を思いだす。
この人の、この顔は駄目だ。ネットの向こうで散々見てきたからこそわかる。こちらを観察して、読み取って、ロクでもないことを企んでいる顔だ。
バレーを引退した者同士という意味で黒尾と赤葦は同類だ。それなら別に反抗する必要もない。今さら赤葦を出し抜く必要もないだろうし。
「お、」
不意に黒尾がテレビを見て姿勢を変えた。赤葦もつられて座り直す。
何度かSNSでバズっているのを見たことがあったから、この番組にゲストに呼ばれた人たちが過去の自分に言いたいことを手紙を書いて発表するのは知っていた。だけど、それを木兎が上手くできるとは思えなかった。
だって、あの人はいつも、あるがままを受け入れて今を全力で生きていた。そのせいか、無意識に必要のないものを切り捨てるのがとても上手なことも、痛いほどよく知っている。あの人に過去を振り返るなんて企画はミスマッチにも程がある、と思うのに。
――どうしてあの人は、絶対にこれを見てほしいと言ってきたんだろう。
『さて、ここからは恒例企画! 昔の自分に活を入れろのコーナーです。今回は天照ジャパンのエース、木兎光太郎さんが手紙を書いてきてくれました。それではお願いします!』
騒がしいほど明るい司会者の横で、あの人に不似合いな真っ白な便箋を持つ木兎と目が合った、気がした。
大きな手に不似合いな小さくて薄い便箋。それと同じ光景を見たことがあったのを思い出す。
ちょうど赤葦が正セッターになった頃だ。部活が始まる直前、小さくてかわいい女の子があの人を呼び止めて、それを渡していた。緊張で手が震えている女の子からそれを受け取ったあの人が、にっこりと笑う。
そこまで見て、赤葦は我慢できなくて逃げ出した。だってその頃にはすでに赤葦もあの人のことが好きだったから。好きな人が告白されるところも、お似合いな女の子と並ぶところも、返事を返すところも。何もかも見たくなかった。だから、あの女の子とどうなったのか知らない。ただ、あれからもあの人は何も変わらなかったから、きっと何もなかったのだろうと思うことにした。
どうして、今さらあの日のことを思い出すのだろう。ついさっきまで、すっかり忘れていたはずなのに。
『昔の俺に言いたいことなんて一つだけ。《いくじなし》それだけで十分』
『と言うと?』
『あのさ、俺、高校の時に好きな人が居たんだ』
『そんなことまで暴露してもらっていいんですか?』
『うん。たぶん、こうでもしないと色々と考えて逃げちゃう子だから。
ねぇ、これどのカメラ見ればいいの? あ、これ? よし。
――赤葦、見てる? 絶対、俺から目を離さないで』
テレビの中から名前を呼ばれる。顔を上げると、黄金色の瞳が真っ直ぐ、赤葦だけを貫いていた。
空っぽになったビール缶を握る手が震えた。頭が真っ白になって、完全に酔いが冷めてしまった。
ただ確かに赤葦を見つめている木兎から目が離せない。
『すきだよ。高校の時からずっと。俺が意気地なしで、今まで宙ぶらりんにしててごめん』
聞いたことのない甘やかな声に何故か唇が震えた。
本当は、心のどこかで気付いていた。あの人が俺のことを好きなことも。俺があの人のことを好きなことに気付かれていることも。臆病なのはお互い様だ。仲の良すぎる先輩後輩の立ち位置があまりにも居心地がよすぎて、一過性の熱病で失うにはこの十年があまりにも幸せすぎた。 目の前で画面が潤んで歪む。黒尾からタオルを渡されて、そこでようやく自分が泣いているのだと気付いた。
「さすが、かっこよし男だな」
「……昔からあの人は格好良かったですから。
ねぇ黒尾さん。怖く、ないんですかね」
「何が?」
「ああやって、本音をぶちまけること。あの人はあんなにも注目されている人なのに」
「さあな。俺はアイツじゃないし。
……続きがあるみたいだ。どうせだから、最後まで聞いてやれ」
「……はい」
涙腺が壊れたのか、タオルで目尻を押さえながらテレビを見る。
『お相手さんにお伝えしたいことは?』
『お前にやれなかった金メダル持って帰るから、待ってろよ!』
ぺかり、といつものごとく眩しい笑顔を最後に番組が終わった。
「……よかったな」
「よくないですよ。人の名前を勝手に出して」
「なら、なんで泣き笑いしてんの?」
黒尾の言葉に赤葦は目を伏せる。
どうしてだろう。自分の心なのにさっぱり分からない。
あの人に応えてもいいのか。何を伝えるべきなのか。言いたいことはたくさんあるのに、それをどう言葉にするべきなのかもわからない。もうずっとずっと長いあいだ考えているのにわ未だに答えが解らないままだった。