幸せの象徴 五条先生に、子どもが居る。
そう聞かされた時は目玉が飛び出るかと思った。だって、なんだか似合わない。
先生のことを昔から知っている伏黒に聞いたら、般若のような顔で溜息を吐きながら、俺はまだ認めてない、と言うだけだった。
会ったことがあるという釘崎に聞いたら、顔は先生にそっくりな天使みたいな子よ。見た目はね、と言われた。
色々なことがあったせいで、先生の子どものことなんて頭から抜けていた。けれど、ふとした瞬間に思い出しては背中がそわそわする。
だって。先生って、何だか他の人と違う。他の大人にはこんなこと思ったことはない。けど、先生だけは、俺らと違う次元に居るような気がした。
宿儺に委縮することもなく、笑って勝つよ、なんて言える人を先生しか知らない。みんな、最初に俺の中の宿儺を見る。分かるよ。あの邪悪な存在を無視なんてできない。
それでも。ありのままを告げるような平坦で気負いのない声音で、まるで宿儺なんて居ないように振る舞う先生が居てくれる。それだけで、ちょっとだけ救われる気がしたんだ。
自分の意思で、俺は宿儺の指を食べた。あの時は呪いのことなんて知らなくて、無我夢中だった。でも、時間を巻き戻したとしても、きっと同じことをする。後悔なんてしてない。だって、そうしないと、助けられない人が目の前に居たんだから。
でも、本当は。宿儺のことしか見ない人たちに囲まれるとしんどくなる。俺は虎杖悠仁なのに。みんな、俺個人のことを見てくれない。それが、ほんのちょっとだけしんどかった。
だからかもしれない。先生と居るのは楽だった。
先生が居れば、俺が気を抜いたせいで宿儺が暴走しても、何とかなるかもしれない。そんな下心もあった。でも、一番は。先生が、俺の名前を呼んでくれるのを聞きに行ってた。先生が呼ぶ名前は、ちゃんと俺の名前だったから。
宿儺の器じゃない俺を呼んでくれる人は、だんだん増えていった。伏黒は器になる前の俺を知ってるたった一人だから除外して、たぶん、先生が最初に俺を呼んでくれた。だから、先生が悠仁って呼んでくれるのが好きだった。
そのくせ、先生が俺と同じ人なんだって思えなかった。
甘いものが好きなことを知ってるし、サプライズが好きなところも知ってる。いつもふざけた顔で笑ってばっかり。でも、先生が笑っているのを見ると安心できた。
けど、見てしまった。先生以外、誰も敵わないような強い呪霊を前にしても、笑いながら嬲るところを。俺たちの前で笑うときと、おんなじ軽薄な笑顔だった。
その時、少しだけ背筋に冷たいものが落ちた。もしかして、先生の中で、呪霊と俺たちの価値は同じなんじゃないかって。そんな馬鹿なことを考えた。
それ以来、俺は少しだけ先生が怖かった。前まで、隣に居たらすごく安心できたのに。ふとした瞬間に、あの夜を思い出して怖くなる。
そんな時に、ナナミンと出会った。
ナナミンの横に居る時の先生は、いつもと少しだけ様子が違う。なんだろう。距離かな。その時はよく分からなかったけど、直感的に、俺とおんなじだって思った。
とにかく、二人は距離が近い。思い返せば、先生が俺たちを無下限の内側に入れてくれるのは危険なときばかりだったけど、ナナミンだけは当たり前のような顔をしていつも無下限の内側に居た。
そんな二人を見るのが、俺は大好きだったんだ。
それから、見事に滑った俺の生存サプライズの後、京都の人たちに命を狙われたり、野球をしたり、東堂に追いかけまわされたり、色々なことがあった。楽しかった。なんだか、まるで、普通の学生みたいだ。
きっとナナミンが居たら、君も普通の学生なんですよ、なんて言うんだろうな。嫌そうな顔をするところまで簡単に思い浮かぶ。
でも、俺は高専に入ってから、伏黒たち以外の学生を見たことはなかったし、普通の学生じゃ絶対に学ばないようなことを勉強する以外は任務で駆け回ってばっかりだった。だから、子どもだって言われても納得できなかった。だって、大人と同じことをしてるんだもん。
そのせいかもしれない。大勢で野球するなんて、普通の学生みたいなことがとても楽しかった。
学長たちみたいな大人は端っこの方でいやに真面目な顔をして話していたのは知ってる。でもさ。俺たちには関係ないんだよ、って顔で先生が笑うから、それでいいんだって思った。
久しぶりに腹の底から笑った。俺もまだ子どもだったんだって、やっとあの時、ナナミンが言ったことが分かった。
「ねぇ、悠仁。次のサプライズはどうする?」
「もう当分はいいよ」
「え~、そんなん面白くないじゃん」
先生が不意に口を噤んだ。今までけらけらと子どもみたいに笑っていたくせに、サングラスの向こうで、見たことがないくらい瞳を蕩けさせた。
「七海、」
そう呟いた瞬間の、先生の顔を俺は一生忘れないんだろう。
先生の目って呪術界の至宝なんだって、誰から聞いたんだろう。よく分からないけど、すごく特殊な目なんだって。いつもの変な目隠しのせいで、あんまり見たことがなかったんだけど。晴れた空の色と、深い海の底の色。それから光の色が混ざった、不思議な色の目に、甘い色を滲ませた。
それが目が潰れそうなほど眩しくて何回も瞬きしてたら、いつの間にか隣に赤ちゃんを抱っこしたナナミンが立っていた。
「ナナミン、子どもが居たの?」
「五条さんから聞いてないんですか?」
「え、恵から聞いてない? 有名な話だから知ってると思ってたんだけど」
「……五条さん?」
「ごめんって、そんな怒んないでよ」
ねめつけるようなナナミンの視線に、慌てて機嫌を取る先生と、よく見る、田舎でよく見た、妻に頭の上がらない情けない旦那さんが重なって見えた。
でも、そのやりとりで分かってしまった。この子が誰の子どもなのかってことも。噂で聞いた、先生の子どものことも。伏黒があんなに嫌そうな顔をしていたことも。全部が一本の線で繋がる。
「ねぇ、ナナミン。その子、抱っこさせてくんない? あ、でも人見知りで泣いちゃうかな」
「誰かさんに似ず、人懐こい子なので泣かないと思いますよ」
笑って渡された赤ちゃんを慌てて抱き直す。
腕の中で、にっこりと笑った赤ちゃんは、釘崎が言ってたみたいに、ほんとに天使みたいに可愛い。
柔らかくて、壊しちゃいそうなくらい小さいのに、俺を怖がらずに笑うあたり、先生の子どもだなぁって思った。なのに、目も髪も全部ナナミンの色で。ああ、二人の子どもなんだなって、ちょっとだけ寂しくなった。
「虎杖くん、ずいぶんと抱っこに慣れてるんですね」
「こっちに来る前に、同級生が何人か母親になってさ。そん時にお世話したことがあるんだ。
ねぇ、名前はなんていうの?」
「晄です」
「そっか、ひかりちゃんか。良い名前だね。二人にそっくりだ」
両腕でしっかり抱えて、思い切り空に近付ける。きゃっきゃと声をあげて笑う晄ちゃんは、光を反射させて、とっても綺麗だ。
ふと感じた視線に隣を見ると、整った顔を脂下がった顔をさせた先生と目があう。
「先生?」
「悠仁は良い子だね。みんな僕に似てるって言うんだよ。晄はこんなに七海に似てるのに」
「私も産んだ時はアナタに似てるって思いましたよ」
「僕は七海に似てるって思った。硝子も七海に似てるって言ってたかな。でも、他はみんな僕に似てるって言うんだよね。
恵なんてひどいもんよ。七海さんに似た方が幸せになれるのに、って言うだもん」
「それはアナタが昔からあの子を揶揄いすぎたからでしょう」
「いいじゃん、別に。だって恵なんだし。
だから、僕たち二人に似てるって言われたの初めてなんだよね」
ねぇ、晄。そう呼んで、蕩けた笑顔の先生が俺から晄ちゃんを取り上げる。この子も父親の方がいいのか、笑顔で先生の腕の中に戻っていった。
見上げるほど背の高い先生が晄ちゃんを抱っこしていると、何だか余計に子どもが小さく頼りなく見えた。でも、俺が抱っこしてるときには大人しかった晄ちゃんは、先生の腕をよじ登ったり、暴れまわったりと我儘放題にしていた。そんな二人を呆れた目で見ながら寄り添うナナミンに、三人は家族なんだって実感して、目の奥が熱くなる。
先生は、この世界のことを地獄だと言った。実際に正しい救いなんて何処にもないことも分かった。
でも、その地獄の真ん中で、先生はとても幸せそうに笑ってる。ナナミンと、晄ちゃんと。大切なものを無下限の内側に抱え込んで、見たことのない顔で笑っている。
ねぇ、先生。幸せになってもいいの。順平を助けられなかった、人を殺してしまった俺でも、幸せになってもいいのかな。
先生とナナミンの間に飛びこんで、泣き喚きたくなった。
俺を見て。俺も家族の中に入れて。そんな馬鹿な言葉が喉の奥につっかえている。
俺は、家族を知らない。爺ちゃんは居たけど。父親と母親が居て、その真ん中で子どもが愛されるような、普通の家じゃなかった。
不満なんてない。俺は爺ちゃんに愛されていた。胸を張ってそう言える。でも、心のどこかはいつも空虚だった。
思い出すのは、誰も居ない公園に伸びる一つの影と、遠くで母親と手を繋いで笑う友達の足から伸びる二つの影。
いいな。晄ちゃんは、いいな。だって、先生からも、ナナミンからも愛されるんだろ。そんなん、普通に羨ましいに決まってる。
だって俺は、二人が大好きなんだから。
「ね、ナナミン。俺もいれて」
「虎杖くん?」
「なに、悠仁。寂しくなっちゃった?」
「うんって言ったら先生、怒る?」
「馬鹿だねぇ。そんなことで先生、怒んないよ」
にっこりと笑った先生はどこにでもいる、ただの父親の顔をしていた。そんな先生に頭をぐちゃぐちゃにかき回されて、ナナミンに整えられて。そんな俺を晄ちゃんは不思議そうな目で見ていた。
ごめんな。本当は君だけの愛情のはずだったのに。
ずっとじゃなくていいよ。でも寂しいからさ。たまには俺も仲間にいれてよ。そしたらこれからも、この地獄で俺らしく生きていけるから。
その後、京都校の人たちにナナミンと晄ちゃんが取られて先生が不機嫌になったり、三人の輪に飛びこんだ俺を伏黒が引きはがしにきたり、相変わらず東堂が愛を叫びながら追いかけてきたり。本当に色々なことに振り回されることを、束の間の幸せに浸っている俺は、まだ知らない。
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