あなたのうえにきらきらうんと昔、字が読めるようになり文章を理解できるようになった頃、よく面倒を見てくれていた人から数冊の書を貰ったことがある。何か特別な贈り物だった訳ではなく病気がちだった幼い子供を憐れんで寄越してくれたのだろうがそれでも十分嬉しかった。内容は文人が読むようなもので難しかった気がするが、それでも必死に読み込んだ。臥せっていても読書だけは咎められなかったからそれもあるのかもしれない。
子供に与えるにしては貴重なものだったように思う。当時はその意味を理解しておらず大切に扱っていた記憶はあるものの、いつしか開くことも減っていって今となってはどこに仕舞ったのかも覚えていない。生家のあった地域は黄巾の乱の折に焼けてしまったから一緒に燃えて無くなってしまったはずだ。
実を言うと貰ったこともそれの行方も大人になるまで忘れていた。荀彧と再会してしばらくしてからふと思い出した郭嘉はなんとなく悪いことをした気がして正直に話し、謝った。彼から貰った初めての贈り物だったのに、と寂しい思いと合わせて吐露すれば彼は困ったように笑っていた。仕方のないことだと言うその顔は、どこか昔を懐かしんでいるようだった。
「形として残ってしまうものは、あまり好きではないかな」
卓の横を通り過ぎる給仕から良い香りが漂ってくる。香ばしい匂いとほのかに甘い空気がいい具合に腹を刺激した。それでも大して空腹ではないから普段通り水分ばかり口にしてしまう。本当なら美酒へ行きたいところだがまだ時期尚早である。今は何の味もない水で誤魔化していた。
「いきなり何の話?」
「贈り物。貰うならさ、食べ物とか花束とか残らないものの方が嬉しいなって」
郭嘉が答えると向かいに座る賈詡から納得し切っていない声が上がる。突然出した話題だということもあり曖昧な返事しか出てこない。
「可笑しいかな」
「いや、まぁ分かるけど。急にそんな話するから、ついて行けてないだけ」
渋い顔をされたが郭嘉は微笑むだけで何も言わなかった。
寒さで指が痛む季節、昔はよく体調を崩し寝込んでいた。今だって気温差の激しい日が続くと具合が悪くなりがちだが子供の頃はもっと酷かった。冷える手足、乾燥する喉と痛む胸を労わる最中、幼いときに貰った「贈り物」のことを思い出したのだ。済んだ話だがやはりいつまでも心の内に残っている。
「……意外ですね。郭嘉殿は比較的、物にこだわる方だと思っていました」
「誰かに贈るときはこだわっているよ。特に女性へ渡す物なんて、ね」
「そうですか……では貰う側になったときに限る、ということですか」
賈詡の隣で黙ったままだった荀攸が口を開いた。無表情だが普段よりかは饒舌である。冷静に郭嘉の話を傾聴しつつ酒家の空気に当てられたのか少々隙が窺えた。それをつつく賈詡に対し荀攸は目もくれずやり過ごして、けれども結局負けてなんやかんやと言い合っている。勿論本気の口喧嘩ではないから郭嘉も止めるような真似はしない。
「それで、結局その話の意図は何だったの」
「そうですね、そこは俺も気になります」
「うん?別に特別な意味はないよ。何となく、お酒や食べ物を見ていたら思っただけ」
郭嘉の言葉に向かいの二人は揃って信じていないようだった。そんな筈が無かろうと、顔に出ている。妙なところは息が合うのだと失笑すればそのままニヤニヤとした顔と仏頂面に戻ってしまい、それで郭嘉への質問は止まった。
なくなるから美しい、そこまでは思わないが結局手元に残らない方が情が湧かなくていい。杯に口を付けながら郭嘉はうっすらと考えていた。特に意味はないと答えたものの根本には己の長くない身体がある。つい、残されるものへと思いを馳せてしまうのだ。まだ先の話だろうが明日を無事に迎えられるとも限らない。ならば刹那的なものを沢山浴びた方が性分に合っている。
「ところで、満寵殿は遅いね?荀彧殿もまだ来ないなんて珍しいな」
空いている二つの席は名前が出た人らの場所だ。五人だけの宴はそれこそ特別な理由などない、ちょっとした集まりだから開始も終了もきっちりしていない。定刻は無いのだがそれを踏まえても遅いと賈詡は言う。
「文若殿は分かりませんが、満寵殿なら間もなく」
大きな気配を感じ、振り返るまでもなく彼が来ていることが分かった。軽く手を上げる賈詡と頷く荀攸、そして背後から聞こえる明るい声はすぐそばまで来ていた。
「や、遅くなってすみません」
がたがたと音を立てて椅子を引いて座った満寵はさっそく卓の上の杯を倒した。幸い空だったため被害は無かったがやや大きな音に荀攸の肩が跳ねたのが見えた。いるだけで賑やかだと、皮肉を賈詡に言われた満寵本人に気にした様子はない。
「ちょっと色々ありまして。ああ、そうだ!郭嘉殿、荀彧殿が呼んでいましたよ」
「え?彼、もういるの?」
「ええ、たまたま途中で会ったんですが……『店の外で待っているので、いらしてください』とのことです」
妙な呼び出しに郭嘉は思わず黙ってしまった。心当たりが、然程ない。何かしらの小言はあるだろうがわざわざこの場で呼ばれる意味が分からない。
郭嘉が黙ると何かを察した賈詡らも口を噤んだ。周囲の楽しそうな明るい物音が響く中、この場だけ静まり返っている。
「……外で待っているって?」
「そうみたいですよ。行かれた方がよろしいんじゃないですか」
「うん、そうだね」
すっかり自分の方が待ちぼうけを食らっている気分であったが聞く限りではこちらの方が寒空の下で待たせているようである。わざわざ満寵に言伝を頼むとは一体どういう了見なのか。
行くしか選択肢は無かった。緊急性は低くとも大切なひとが待っていると言うのだから向かうしかない。
「そういう訳だから、みんなは楽しんで」
もしかするとすぐに戻ることになるかもしれない。行った先で何が待っているのか見当もつかないがこの集まりの約束を反故にする人ではないし、恐らく彼も郭嘉が美酒に口を付けていないことを見通しているはずだ。
立ち上がり、するりと椅子から抜けて少しばかり速く歩く。郭嘉が思っている以上に自身は動揺しているようで足を進めるごとに心臓がどくんどくんと五月蠅かった。後方からは「気にするな」といった類の声が聞こえてくる。
残された彼らは自分たちのことを話すのだろうか。贈り物の話という、なんて間の悪い話題を出してしまったのだろう。多くは語らずともきっと皆には悟られてしまう、けれどもそれも大して悪い気分ではなかった。
人が集まっている分、店の中はそれなりに温かい。そこから風除けも何もない外へ出ると一気に体感温度は下がり冬の冷たい風が全身を覆う。突き刺されるような鋭い寒さに体を震わせ、人通りの中へ視線を移せば目当ての人物はあっという間に見つかった。
「なぜ、そのような薄着なのです」
「薄くはないよ、首元は確かに寒いけれど……」
「また風邪を引きますよ。もう雪だって降るでしょうに」
郭嘉と目が合った荀彧は一目散に駆け寄ってきた。姿を見るなり寒そうだと指摘して、彼自らがしている襟巻を外しそのまま差し出すと無防備な首に掛けられた。
「貴方を冷やす訳にはいきません」
遠慮して逃げようと試みたが半ば無理矢理巻かれてしまった。厚手で柔らかく直前まで荀彧の首元にあったおかげでかなり温い。
「ありがとう……それで、どうして外で待っていたの」
断って襟巻を返したところで荀彧が受け取らないのは目に見えている。こういったところは頑固で、そして未だに現れる子供扱いには郭嘉も苦笑いを浮かべるしかなかった。借りたそれを優しく撫でると心地良い。
呼びたてた訳を尋ねると荀彧は考え込むようにやや間を置いて、それから眉を寄せて緩く微笑んだ。
「少し歩きませんか」
冷えてしまわないか心配するくらいだから、始めからそのつもりだったのだろう。断る理由もない郭嘉は構わないと返したが今ひとつ腑に落ちていなかった。荀彧がそういう誘いをするのも珍しいのだが元々今日は他の人らとの先約があるのだ。真っ先に向かわないところが不思議でならなかった。
「少しだけですから。あまり長く出歩くと……」
「うん、いいよ。体調を崩すつもりも、今の私にはないからね」
「ありがとうございます。では参りましょう」
夜と言ってもまだまだ人の往来はある。華やかな街は活気で溢れてしばらくは眠らないだろうし荀彧の口振りからして大して時間はかからなさそうである。
寒いけれども耐えられない温度ではない。それでも指先は徐々に冷えてくるため郭嘉はそっと手を丸めて袖へと収めた。
「郭嘉殿は寒がりなのに昔から着込むのを嫌がりますね」
「着ぶくれするの、苦手だから」
「ふふ、だから幼い頃はよく羽織を脱ぎ捨てていたのですね。襟巻は拒否をされないようで安心しました」
言われてみれば小さな頃から何枚も重ねて羽織るのを好んで来なかった。暑さ寒さに関係なく、なるべく身軽でいたいと無意識に思っていたのかもしれない。ある意味それも物に対する執着が薄いからなのだろうか。
「貴方の中の私はいつまで経っても子供なんだね」
そんなことはないと間髪入れずに返って来た。言うや否や荀彧の手が首の辺りに伸びてくる。郭嘉の襟を直したかったようで歩きながら軽く引っ張られ、そのまま会話が続く。
「きちんと郭嘉殿として見ていますよ」
指先が頬に触れる。冷えた郭嘉の顔に当たった荀彧の指は大して冷たくなかった。外気に触れているのにかじかむこともなく正確に襟巻を整えるとそれ以上言葉を重ねることはせず、お互い黙ったまま夜空の下をゆっくりと進んでいった。
何処まで行くのか、最初は不思議でならなかった郭嘉だったが散策自体が目的だったのだと途中で気が付いたため尋ねるようなことはしなかった。特にこれといった話はしないが決して気まずい間柄ではない。店から離れたとは言え賑わいは遠くないし、街から出る気配もなさそうだ。
「ほら郭嘉殿、見てください。今宵は星も月も見事ですよ」
空気が澄んでいて、深く呼吸すると喉と胸がつんと痛むが確かに夜空は綺麗だった。荀彧が指さす天は、光る星々と輝く月がよく見える。月は欠けてはいるものの煌々と明るく美しい。真冬の空に見惚れてため息を零せば白く立ち上ってふんわりと消えていく。
寒さを忘れてしばらく見上げていると背中を撫でる手に意識が戻された。
「こういう景色を、貴方と沢山見たいと思ったんです」
「それは嬉しいけど……随分と急な話だね」
「贈り物をするとあれこれ気にしてしまうでしょう?郭嘉殿は、こういう方がよろしいのかと」
何度か背を撫でられ視線を寄越すように促される。薄暗い外では遠くにある灯りが頼りだ。冷たさで潤む瞳が視界に入る彼の輪郭をぼやけさせる。それでもしっかりと荀彧の表情は見えて、遠い昔に書物をくれたときと似た優しい顔をしていた。
「思い出を大事に、ということかな」
軽く笑って頷かれる。愛でしかない視線に刺された郭嘉は話を続けるのも無粋かと思い、同じように微笑みだけで返した。
どれくらい経ったのか、ふと指先同士を擦るとひどく冷たくなっていた。首は守られているため体の芯までは冷えていないがそろそろ限界だろう。さすがに空腹を覚え、騒がしい場所で飲む美酒が恋しい。
「もう戻りましょう……ああ、寒いのでしょう、やはりもっと着込んでいただかないといけませんね」
じんわりと流れていた愛おしい時間が日常に戻ったようだった。慈愛より心配を大きくした荀彧は呆れた様子で郭嘉の二の腕を掴む。案外、力が強い。
「皆も待っているでしょうから早く戻りましょうね」
「ううん、大丈夫。それよりも、ねぇ荀彧殿」
ゆっくり歩きたいと郭嘉が我儘を言えば凍えた片手は取られて、彼の手に強く握り締められてしまった。