10 炎 逃げちゃおうか、と微笑むびわの瞳が、きらりと揺れる。理人はそれがどこか恐ろしく感じて、何も言えないまま呼吸を止めていた。
びわの言葉は、おそらくは後ろの警備の武士には届いていない。二人いる警備は夕飯の相談をしているようで、こちらの様子には気付いていないようだ。窓から見える外の警備たちも、気が緩んでいるのか二人で談笑などをしている。主人の目が無いからなのか、びわがこのようなことを考えているなどとは夢にも思っていないからなのか。
理人は確かにこれを好機と悟った。びわの目を見て、小さく頷く。
(でも、どうやって逃げるつもりなんだ?)
その答えは、思いの外早く出た。
びわは服の袷に手を差し込むと、紙切れのようなものを取り出した。それは?と尋ねると、ラブレターのようなものかな、とだけ言って、それを蝋燭の火にかざした。一瞬にして紙に火が燃え移り、びわはそれから手を離した。あっという間の出来事で、止める隙もなかった。
「びわ、さん……?」
目を見開く理人を見て、びわはにっこりと笑った。
「大丈夫だよ、この屋敷の中には、何もなかったから」
何が大丈夫だというのだろう。いや、予想はできる。きっと、びわの眼鏡にかなう楽器がなかったのだ。しかし、まさかこんな手段に出るとは思わなかった。
黒い煙が静かに立ち昇り、ふわりとびわの顔にかかる。ここに留まっていては危険だ。理人は咄嗟に立ち上がり、びわの腕を掴んだ。
「何をぼうっとしているのです!」
「ふふ、ごめん。煙って、吸ったら良くないんだっけ」
「何を呑気なことを!死にたいんですか!?」
理人たちのやりとりに目を向けた警備の二人は、そこでやっと、部屋に火がついていることに気がついた。急なことで狼狽えている二人に、理人は「火事です!早く逃げて!」と叫んだ。びわは、我関せずと悠々と階段を降り始めている。
警備達は、廊下の奥にあるチャオの寝室へと走って行った。おかげで、こちらの監視は無くなった。ホッとした理人は、びわを追って階段を駆け降りる。
前を歩いているびわに追いつくと、理人は少し強い口調で問いかけた。
「なぜこのようなことを」
「混乱に乗じたら、逃げやすいと思わない?」
「確かにそうかもしれませんが……!」
理人の苛立ちに気付いているか否か、びわは悪びれもなくそう言った。
「君も逃げたかったんでしょ?ならいいじゃない」
「それは……!」
そう言っている間に、屋敷の出口が見えた。急ぎ足で出てくる理人達の姿にギョッとした警備達だが、その後ろで屋敷に火がついているのを見て、それどころでは無くなっていた。
この隙に逃げるべきということなのだろう。しかし理人は、どうしても後ろが気になって仕方がなかった。
「やまぶき。急がないと、逃げられなくなるよ」
「それは、そうですが……!」
自らが手を下したわけではないとはいえ、この火事に責任を感じているのは確かだ。何より、これによって死人でも出てしまっては、寝覚めが悪いし、何よりこのまま放っては置けない。
理人は、警備の目を盗み、屋敷の様子が窺える茂みの中へと身を隠した。どういうわけか、びわも理人に続いた。
「なんで、こんなところに?」
「しっ。気付かれないように」
理人がそう言うと、びわはそれ以上何も言わなかった。
屋敷の火は既に屋根にまで広がっている。焼け落ちる前に、全員が避難できれば良いのだが。
するとすぐに、先ほど上にいた二人の警備と、厨房にいた料理人が急ぎ足で出てくる。良かった、逃げ切れた、と理人は胸を撫で下ろした。残るはあと二人。チャオと、チャオの警備を担当していた武士だけだ。しかし、その二人はなかなか降りてこない。
(何故だ?この二人が火事を知らせたはずなのに)
焦燥感が理人の胸を覆う。無事さえ確認できれば、あとは逃げるだけなのに。それなのに、いくら待っても二人は出てこなかった。武士の間にも動揺が流れる。時間にしてほんの数秒が、とんでもなく長く感じる。早く、早く出てこい、そう念じながら出口を見つめるも、二人の姿は現れない。
その時、微かにだが、屋敷の中から声が聞こえた。
「……っ!」
「どうしたんだい?」
「今、中から……」
「ああ、聞こえたね、やまぶきって」
「やはり……!」
びわは耳が良いと言っていた。ならば、間違いはないだろう。
(呼ばれている。きっと、上で自分を探しているんだ)
理人はいてもたってもいられなくなり、立ち上がった。
「やまぶき」
「びわさんは先に逃げていてください。自分は後で逃げるので」
そう言うと、びわの反応を待つことなく、屋敷の中に飛び込んでいった。
屋敷の中は、既に煙が降りてきていた。まともに呼吸しては肺が焼けてしまうし、服に火が燃え移る心配がある。理人はまず、厨房を目指すことにした。
一階に厨房があることは知っている。そしてそこに、水が溜められていることも。厨房にたどり着いた理人は水瓶を持ち上げ、思い切り頭から被った。これで少しは火の中に行っても大丈夫なはずだ。
厨房にあった布巾を口に当て、階段を駆け上がると、チャオの声が少しずつ大きくなってくる。やはり、自分を呼んでいる。
「チャオさん!」
辿り着いた部屋の中では、うずくまっているチャオの姿があった。その傍らにいるのは、チャオについていた警備の武士だ。
「何をしているのです、早く逃げて!」
「やまぶき様……」
見れば、チャオの様子がおかしい。まるで熱に浮かされているかのように、声がうわずっている。それに、どうやら足を庇っているようだ。
「まさか、足を怪我して」
「はい、梁が落ちてきて、それが当たって……」
なるほど、その痛みもあるのか。仕方がない。
「あなたは動けますね?先に逃げてください。チャオさんは自分が背負って行きますから」
警備は一瞬迷ったようだったが、自身よりも理人の方が力がありそうだと判断したのだろう。「チャオ様をお願いいたします!」と言って、駆けていった。
我ながら、矛盾したことをしている、と思う。ずっとこの屋敷から、否、チャオの元から逃げたくて機会を窺っていたはずだったのに、いざこうしてチャンスができてもふいにしてしまう。しかし、目の前で人が危険な目に遭っていて、それを助けずにいられるような性格でもなかった。ましてや、その原因の片棒を自分が担いでいたともなれば。
とにかく、さっさとチャオを屋敷の外へ連れていく。その後のことは警備にまかせれば良い。理人はそう考え、チャオを背負った。持っていた布巾を渡し、口を覆うように指示を出す。
「やまぶき……」
「喋らないでください。さっさと逃げますよ」
「俺が、死ぬ前に……言いたいことが」
「はあ?何を言っているんですか」
理人はチャオを背負いながら、階段へと向かって歩いている。勝手に死ぬなどと言われても困る。こちらは、生かすために助けに来たのだから。
「君の服とタイムワープガジェットは……本邸の、俺の寝室の金庫の中に入れてある」
「……は?」
一瞬、思考が止まった。
タイムワープガジェット、と言っただろうか。チャオが?
「どういう、ことですか」
「最初は、ただ単にTPAへの憂さ晴らしと、ついでにガジェットをくすねるだけのつもりだったんだ……なのに、君を本当に好きになってしまって」
本当に、一目惚れだったんだよ、と、掠れたチャオの声が耳元で聞こえる。
理人は、返す言葉が見つからず、ただ頭の中でチャオの言葉を反芻していた。
(どういうことだ?チャオは、未来人だったということか?まさか、タイムジャッカー……)
「俺は元々窃盗集団にいてね、たまたま来たこの時代を気に入って、住み着いていたんだよ。……つまり、TPAの敵……犯罪者というわけ」
途切れ途切れのその声は、理人が想像もしていなかった告白をし続ける。
「自分の人生というものを送ってみたくて、家族が欲しくて……やっと、見つけて。俺は、幸せ者だよ」
だから、俺のことは見捨ててくれていい。もう、十分だから。そう語るチャオの声は、確かにひどく満足そうだった。
しかし、それではいそうですかと置いていくような理人ではない。
「それを聞いたら尚のこと、貴方を置いてはいけなくなりました」
「それは……どういう……?」
「自分は、TPA特殊部隊の最強隊員、暁さんのバディです。タイムジャッカーを前にして引き下がることなど、できません」
理人は、背負っていたチャオをさらに強く抱え込む。
必ずチャオを連れて、未来へ戻る。この一瞬で、そう心に誓ったのだ。
「絶対に生きて連れて帰ります。死なないでくださいよ!」
理人は浅く息を吸うと、さらに姿勢を低くし、階段へと向かった。
最初にびわが火をつけてから、既に十分は経過している。もう建物全体に火が回り始めているが、今すぐ外に出られるならばギリギリ間に合うだろう。
ようやく階段にたどり着いた理人は、壁の火から距離を取りながら足元を確認した。しかしそこには、あるはずのものがなかった。
「そんな……」
梯子状の階段は焼け落ちてしまっていた。
二階から地面までは二メートル半程度。理人一人なら何ということはない高さだが、人を背負って降りるのは不可能だし、怪我人を落として良い高さではない。
(どうする?どうしたら良い?くそ、煙が……)
そう逡巡している間にも、黒い煙は二階に充満し、強い熱を放つ炎は理人に迫ってくる。
(ああ、暁さん……お許しください。自分は、ここまでのようです)
背中のチャオも、いつの間にか気絶している。このまま二人揃って死んでしまうのかと思うとどうにもやりきれなかったが、もうこの場をどうにか出来るほどの力は、理人には残っていなかった。
(出来ることなら、最後に貴方に会いたかった。貴方の顔が見たかった。貴方の声が聞きたかった……)
理人は、その場に伏してしまった。ごうごうという音がうるさい。全身が熱い。目の前が霞んで、何も考えられない。
「人……理人……!」
朦朧とした意識の中、理人はナハトの声を聞いた。ぼやけた視界に、ナハトの姿を見た。これが幻聴でも幻覚でもどうでも良かった。
「あかつき、さん……」
理人は、幸せそうに笑った。