愛に恋を混ぜ込んで③「はよーっす。」
辻から話を聞いた翌日。
今日も今日とて開店準備に勤しもうと、二宮が早く出勤すると、指定した出勤時間の遥かに早い時間に影浦が顔を見せた。
「おはよう……早いな。」
「あー……まあ、ちょっと。」
「?」
影浦は言葉を濁して、さっさと更衣室に引っ込んでしまう。そしてものの数分で着替えてくると、スマホを片手にホールに出てきた。
むやみに写真を撮ったりするわけでなければ、勤務時間外にスマホの使用を制止する理由もない。カウンターに腰掛け何やらスマホを操作している影浦を横目に、二宮は一日の仕込みを始めた。
「仕事してっとこ悪ぃ、ちょっと聞きてぇんだけど、」
「なんだ。」
「『ジガー』ってどれのことだ?」
黙々と仕事を進めていた二宮だったが、控えめに声がかかりそちらを向く。すると、影浦から使い慣れた器具の名前が飛び出すので、二宮は近くにあったそれを手に取り、影浦に見せる。
「これだ。」
「ほーん………。」
「カクテルを作る際に、酒を計量するためものだ。メジャーカップという名前の方が一般的かもしれねえから、そっちも覚えておくといい。」
「わかった。」
二宮の解説を聞くと、影浦はそれをいそいそとスマホに打ち込む。その様子を見れば、彼が何をしているのかなど火を見るより明らかで。
「…器具の名前を覚えているのか。」
「おー。何か頼まれる度に説明してもらうのもアレだしな。」
「………………。」
バーカウンターの中には、数多くの器具や道具が存在する。以前まで実家のお好み焼き屋で働いていた影浦には、そのどれもが初めて見るものであったし、当然名称も用途も知らないものばかりであった。
それゆえ、出勤時間より前に来て、せめて名称と用途を覚えようと思ったわけで─その姿勢は、二宮にとってひどく好ましいものだった。
「それなら、まずはグラスの種類から覚えるといい。俺が教えてやる。」
「まじ?助かるわ、頼む。」
部下の成長を促すのも上司の仕事である。自分だって、右も左もわからなかった頃、東に色々なことを教わってきた。
だからこそ、その指針を影浦にも与えたい。
二人でカウンターに腰掛け、実物を見ながら一つ一つ確認していく。影浦は学校の成績こそ良くなかったものの、比較的物覚えは良いようで、あっという間に知識を吸収した。
「おはようございます。」
勉強会に集中していれば、時が経つのはあっという間で、気づけば他のスタッフが出勤する時刻になっていた。
ドアを開けた氷見に二人で挨拶を返すと、どちらかともなく、立ち上がり開店の準備にかかる。このまま肩を並べておくのは、ほんの少しだけ気恥ずかしかった。
「影浦くん、届いてる荷物運ぶの手伝ってもらえる?」
「おう、今行くわ。」
週に何度かの仕入れの荷物は、酒類が多いこともありかなりの重量である。男女関係なく、一人で運ぶには物理的にも骨が折れるだろう。
バックヤードの扉の隙間から顔を出し、ちょいちょいと手招きをする氷見に声を返し、影浦はそちらへ身体を向けた。
「影浦、」
そして扉に手をかけた時、背中に二宮の声が刺さる。
振り返ればいつもの仏頂面─いや、ほんの少しだけ和らいだ顔がそこにあった。
「今日も頼むぞ。」
刺さった"それら"が、影浦を優しく包み込む。伝わる期待や信頼は、悲しいかな、影浦があまり感じてこなかった感情たちで。
「…おう、任せとけ。」
つい影浦は、顔を綻ばせた。
◇◆◇
─そして東との約束の一週間は、あっという間に過ぎ去った。
二宮は影浦の働きぶりに満足しており、犬飼を除く二人のスタッフとも仲良くやっているようだった。犬飼とは仲良しとまではいかなくとも、仕事中は揉める様子を見せないし、お客様とのトラブルもなかった。
一週間を経つ頃には店の業務をほとんど覚え、ホールの仕事だけであれば一人で任せても問題ないまでに成長している。
「二宮、影浦はどうだ?」
例のごとく、東のお気に入りの店で集まり、グラス片手に顔を突き合せる。
─一週間前、ここで影浦の話を聞いた。
接客の経験があるものの、少し気難しい少年だと。コミュニケーション面で少々問題を抱えているらしいと。
そしてそれらは、たしかに事実であった。
粗野な口調は誤解を生みやすいし、彼の容貌がよりいっそうそれを加速させている。
何より影浦は、人から向けられる視線に過敏すぎる節があった。きっとそれが、辻の話していた「人の心が読める」という噂の起因だろう。
それは接客中にも見受けられて、恐らくそれがコミュニケーション面に蟠りを生んでいるのだと考えられる。
─運用するには、あまりに手のかかるスタッフであることは、二宮も東も、そして何より影浦も、よくわかっていた。
「…東さん、」
「なんだ?」
二宮は真っ直ぐに東の瞳を見つめ、そして。
「影浦を、うちの店に頂けないでしょうか。」
無駄のない動きで、ゆっくり頭を下げた。
「ハハハ、何だか義父と婿みたいなやり取りだな。」
「…茶化さないでください。」
「悪い悪い、お前があまりに真剣だから、こっちも緊張してな。」
東はふわりと笑うと、二宮を真っ直ぐに見る。そしてそのチェスナットブラウンに揺れがないのを確認して、よし、と小さく呟いた。
「わかった、影浦を正式にお前のところのスタッフにしておこう。」
バーテンダーの世界にも、いわゆる「協会」というものが存在している。そこではバーテンダーの技術の練磨などを目的とした取り組みが行われており、東や二宮ももちろん参加していた。
東に関してはそこで中核を担っており、多方面に顔が利くのもそのせいだ。
影浦もその協会を通して声をかけたらしく、影浦を本腰入れてスタッフにするとなれば、そちらに提出する書類等がいくつかあると聞いている。
東の紹介ということで、影浦に関する多方面への掛け合いに二宮は関係していない。そのため、影浦を雇うのであれば東に諸々を頼む必要があるのである。
「最も、既に手続きは済んでいるんだがな。」
「え?」
「お前が影浦を気に入るのはわかっていたから、あとはお前の判子を貰うだけにしてある。」
─用意周到過ぎる元上司に、二宮は面食らう。が、確かにこの人はそういう人だと、すぐに頬を緩ませた。
「二宮、影浦を頼むぞ。」
「…はい、お任せ下さい。」
◇◆◇
「影浦、」
「あ?」
「この後、少し残れるか。」
終業後─すっかり慣れた立ち回りを見せる影浦に、二宮は声をかける。
すれば影浦は、何かを悟ったような顔を見せて一言「わかった」と言った。
その表情を見て、二宮は自分が伝えようとしていることに気がついているのだろうと、安堵の感情を抱く。
─それを見て影浦は、何故か暗い表情を見せていたことを、二宮は知らない。
◇◆◇
「こっちに座れ。」
いつものパーカー姿に着替えた影浦に対して、二宮は未だいつものバーテン姿であった。
影浦をバーカウンターに座らせて、二宮はふぅ、と息をついた。
─そしてシェイカーを一つ取り出すと、メジャーカップでラム酒を計り始める。
「よく見てろよ。」
影浦が覚えたばかりの器具たちが、二宮の手の中で華麗に踊る。そしてシェイカーの蓋は閉められ、次はシェイカー自体が舞い始めた。
「ぅ……わ……、」
─その無駄のない動きに、影浦の瞳は捕らわれた。シェイカーと共に揺れる二宮は、あまりに優雅に見えた。
二宮はシェイカーを下ろすと、氷を入れておいたあのゴブレットグラスにカクテルを注ぎ、スライスしたオレンジを飾る。
「どうぞ。」
美しく仕上げられたカクテルは、やがて影浦の前に置かれる─が、その瞬間影浦の瞳が陰った。
「…なるほど、お疲れ様会ってことかよ。」
「?どういうことだ。」
「どういうことも何も、コレはそういうことだろ。試用期間オツカレサマデシタ、やっぱりてめぇは要らねえよってことだろーが。」
─その言葉に、二宮は眉を顰めた。彼の思惑は、影浦の全く真逆をいっていたからだ。
「…俺は、この仕事に向いてねえ。おめぇらとは、多分、生きてきた世界も、生きていく世界もちげぇ。お客…さんが、俺を場違いなやつだって思ってんのもわかってる。そんでそれは、てめぇの店とっては要らねぇ"感情"だ。」
俯いてしまったせいで、影浦の表情はわからない。けれど、その声は、聞いたことの無いくらい重く、平坦だ。
「東のおっさんと会ってたみてぇだし、もう次の奴は見つかってんだろ?わざわざ悪かったな、ンな洒落たモンまで作らして。」
やっと顔を上げた影浦は、いつものように挑発的に笑って見せた。でもその瞳はふるふると揺れていて、この少年の抱く不安や自責の念がひしひしと伝わってくる。
「…言いてえことはそれだけか。」
呆れ半分、罪悪感半分の二宮は、ため息を一つついて影浦の正面へと移る。そして、そのジョンブリアンの瞳をしっかりと捕らえて、ゆっくりと口を開いた。
「影浦、」
「………………。」
「ウチで働かないか。」
─その言葉に、影浦はぽかんと口を開けた。いつもは獰猛な牙が、今は間抜けに口内から覗いている。
「お前の"感覚の過敏さ"は、他の誰にもねえもんだ。お前にはそれを、俺の店で活かして欲しい。」
運用するには、あまりに扱いづらいスタッフである。そのことは、二宮も重々承知であった。
「お前の力が、俺の店には必要だ。」
─それでも二宮は心から、影浦の力を欲した。そしてそれは、影浦にも充分に"刺さっている"。
「このカクテルは、それに対する祝杯だ。よって、首を横には振らせねえ。」
二宮はグラスの足に指をかけ、今一度影浦の前にグラスを出す。すれば、影浦は喉の奥で小さく笑い、グラスの足に震える指で触れた。
「…お前、マジで偉そうだよな。」
「この店で正真正銘一番偉いのは俺だからな。」
「そーいう話してんじゃねえんだけど。」
そしてそれを優しく持ち上げて、ジョンブリアンの瞳でグラスの中を愛おしそうに見る。
「これ、なんてカクテル?」
「スコーピオンという、ラムベースのカクテルだ。口当たりがいいから、飲みやすいと思うぞ。」
「ふーん。」
まだまだ専門知識の乏しい頭の引き出しに、影浦は「スコーピオン」を大事にしまい込む。きっとこのカクテルは、一生忘れないものになるから。
「…二宮ぁ、」
「なんだ。」
グラスの向こうから、影浦の瞳が覗く。
その瞳はもう、揺れていない。
「…さんきゅ、んで……その、これからも、よろしく。」
そう呟いた口にカクテルが注ぎ込まれていくのを見て、二宮は目を細めた。
この時影浦に抱いた感情の正体を、二宮はまだ知る由もないのだ。