本田/灼カバ ガスバーナーのつまみを回して火を起こす。
その間に、握り飯を口に入れる。1個目は梅干し、2個目は昆布。
湯を沸かし、蜂蜜をたっぷり淹れた紅茶を淹れる。
身体を温めるようにゆっくりと、たっぷりと飲む。
白い息を吐きながら、顔を上げる。眼前には、青く、どこまでも広がった空。その下に薄く広がった雲海を、無数の山の頂が突き刺している。
——ここはとても静かだ。
高校に入って、新しい部活を始めた。
未経験の、ほとんど聞いたこともないスポーツだった。
「いい身体をしているな」
初めて監督から声をかけられたときも、そんな言葉だったと思われる。肩をぐっと掴まれた。見た目よりもずっと強い力をしていた。
「何かやっていたのか?」
「登山を少々」
返答はなく、厳しい眼光がこちらを見た。続きを促されている、と直感で分かった。
「——父が、好きでして」
「そうか」
反応は端的だった。肩から手が離れる。
「親御さんに感謝することだな」
「……山のことですか?」
「いいや」
監督は首を横に振った。
「恵まれた身体というものには、食事が欠かせないものだ」
父を亡くした後、母は多忙になったが、食事の世話だけは手を抜いたことがなかった。
山に行く日の朝は早い。もう準備も慣れたものだ。昨晩のうちに用意したものを最終確認する。
「……また行くの?」
「おはよう、母さん」
物音を立てたつもりはなかったが、家を出る前に母が起きてきた。彼女は嫌な顔をして、荷が詰まったリュックサックを見やった。
「おにぎり、作るから」
「今日は休みだろう。無理しなくていい」
母は答えず、キッチンに入って炊飯器を開けた。無視をするわけにはいかず、荷物を下ろしてソファに座る。
テレビをつける。早朝のニュースが流れる。今日は全国的に快晴。
「夕飯には帰る。きっと飯が美味いから、楽しみだな」
そう言ったところで、母が出てきた。おにぎりの詰まったタッパーを差し出し、暗い顔のままこちらを見上げた。
「……美味しいわよ、ご飯は。いつだって」
「そうだな」
それを受け取り、頷いた。目をまっすぐに見つめる。
「それが当たり前だと、感謝を知らないままでいなくてよかった」
母は何も答えなかった。ただ顔を歪めて目を伏せ、そのまま自室に戻っていった。
母の握ったおにぎりは、よく塩気がきいていた。
「うむ、美味い」
思わず声に出る。指についた米粒まで食べきって、満足して頷く。
腹を満たすと、蜂蜜を淹れた紅茶を飲む。たっぷりと、ゆっくりと。水分を摂り、身体を温めるように。
決まった山の食事で、どちらも父が好んでいたものだった。
強い風に吹かれて薄れゆく雲の向こう、遠く離れた街並みが見える。
「——行くか」
小さく呟き、立ち上がる。
登るのだ。あの場所に帰るために。