三分祈れswap麺埋め
その日は朝から酷く暑かった。身体に纏わりつく熱気が不愉快で鬱陶しかった。だから自分はずっと苛立っていたし、それも仕方無い事だった。
「はー、はあ、…」
ぎらぎらと照りつける陽光の鋭さに喘ぐ。流れた汗で三つ編みが左頬に張り付いて、叩くように手で払い除けた。それで……そう。日が高くなった頃に来客があったのだ。
客と呼ぶのも憚られる不躾な人間だった。口争いになるのにそう時間は掛からなかった。切っ掛けは…何だったか、忘れてしまった。ただ兎に角非道い事を言われたのだ。
「…………」
額に浮かんだ汗を拭う。視線を落とすと、警告色らしい鮮やかな赤が散っている。雲ひとつ無い青空と薄く淡い黄色の地表が広がる景色に似合わないその色は不快な存在感を放っている。
「あー……」
茹だる暑さと渦巻く苛立ちを体の内から逃すように、口元から低い音が漏れる。嫌気が差している。不安定な精神は自身の衝動的な行動を止める事は出来ず、気が付けば全てこの通り後の祭りだ。
ただいつまでも熱暑の下で項垂れている訳にもいかないので、ようやく重い足を引いて振り返る。
「ああ、『開祖様』!此処にいらっしゃったのですね」
「……『助祭さん』。よく此処が分かりましたね」
艶のある黒髪の男が軽い足音と共に駆け寄ってくる。焦燥していた思考が少し凪いで、そして初めて自身が憔悴していたと知る。
彼は直ぐに目前へ来て、僅かに低い位置にある黒々とした目と視線が合う。黒い瞳は世界の色を……目下の赤色さえ映さない。視界には入っている筈だが、きっと彼の意識には開祖たる此方の姿しか無いのだろう。今に始まった事ではない。
「教会の中にお見えになりませんでしたから、随分探しました。手伝います」
袋麺教の助祭である彼は迷わず言った。この状況に疑問も抱いていないようだが、実際今回が初めてでもない。彼も慣れているのだ。
「……棺を。運んで来てください」
彼の平静に応えるように此方も淡々と指示を送ると、彼は嫌な顔ひとつせずに踵を返して走り去る。その後ろ姿を見送って、滴る汗を拭い落とした。
「では、彼の平安を祈りましょう」
人の形は保っていた其れを簡素な棺に横たえて、雑な手取りで十字を切る。助祭もそれに続いて形式的に十字を切ると、傍に伏せていた蓋を抱え上げた。
「……何も聞かないのですか?」
凄惨な死体が画一的な棺桶に代わり、開祖はやっと尋ね掛ける。周囲に血痕が残っていないか視線を走らせていた助祭はきょとんとした顔で首を傾げた。
「何をでしょう?私が知りたい事などありませんが」
言ってから突き放したように聞こえる、と気が付いたらしく、彼は少し慌てたように手を振って見せた。
「いえ、興味が無いとか、そういう訳では。そうではなく……貴方の為すことは正しいですから、これも神の思し召しに違いないのです。だから尋ねることなど何も」
ぺらぺらと弁解する彼は随分人間らしく見える。発言の内容に目を瞑れば、の話だが。馬鹿げた発言だが、それを彼に求めたであろう自分も馬鹿げている。
「そうですか」
思考の渦を呑み込んで、その返答に納得顔を返す。実際彼がそれ以上踏み込むことは無く、そのため開祖もそれ以上は語らず内に抑える。棺を共同墓地へ運ぶ間、全く関係の無い会話の応酬を続けた。
「それにしても、今日は暑いですね。後で水浴びしましょうよ」
助祭が言う。そもそもが墓地なので用意されている墓穴を掘り返すだけなのだが、たった二人がかりで穴を掘るのは重労働だ。増してやこの灼熱の中である。彼も普段前髪で隠している顔の半分を曝け出していて、濡れた髪が邪魔だったのだろうと察せられる。引き攣れた跡からは流れないのだろうが、頭頂部から垂れてきた汗が既に機能していない青眼の際に沿って落ちるのが鬱陶しいのか皺を寄せて目を細めている。
「……ええ、そうですね……」
せめて祭服は着替えておくべきだった、と後悔するがもう遅い。肌にじっとりと纏わりついた衣服は内側から水分を吸って重さを増している。視界がぐらぐらと揺れている錯覚さえ覚えるが、後でよく水を飲もうと思う。
土を抉る腕が次第に上がらなくなるが、中断したところで直に終わらせなければいけない作業だ。これが終われば水を浴びられると思えば多少の汚れは気にせずに居られる。
「貴方のお陰で、多少早く済みそうです」
殆ど独り言のように呟いたのだが、彼の耳には届いていたらしい。助祭は手こそ止めなかったが、顔を此方に向けて口角を吊り上げた。
「光栄です。少しでもお役に立てるのなら」
張り付けたようにも恍惚にも見えるその表情に、彼を引き取って間も無い日を思い出す。それが初めてだった。
「手伝います」
今日と何も変わらない表情で彼は言った。自身を引き取った教会の主がどう見ても目前で人を殺していたと言うのに、彼は顔色ひとつ変えずに言ったのだ。
「……え?」
どう切抜けるか、どころか何を言われるか身構えていた所にそう言われて唖然とする。
「何も……思わないのですか」
およそ手を染めた側の台詞では無いが、彼があまりにあっさりと事を受け入れるので思わず口走った。今思えばこれも今日と同じだ。もうずっとそんなことを繰り返している気がする。
「私にとっては手を差し伸べてくれた貴方だけが全てですよ」
明らかに焦点のずらされた答えは態とだろうか。彼はそれ以上続けようとしなかった。本音を秘しているという訳でもなく、本当にそれで全て、と言うように。
「開祖様?」
物思いに耽っていた間に随分時間が経っていたようだ。ちょうど棺を収める匣の蓋が露出していた。下ろしたシャベルの先がカツンと音を立てる。
「いえ……そうですね、暑くて。お手伝い、ありがとうございます」
そう言って誤魔化したが、実際開祖も助祭も通り雨にでも遭ったような出で立ちと化していた。一刻も早く湯浴みをしたい。
息を切らせながら棺桶を匣の中に収める。一度手元が狂って大きく揺らしてしまったが、どうせ元から損壊している。今更変わらないだろう。鈍く響いた粘ついた水音には目を瞑り、脇に避けていた土を上に乗せ始める。掘り返すよりは楽だが炎天下の消耗が激しい。
「助祭さん。先に戻って水浴びの用意をしていてください」
匣の蓋を覆った辺りで呼び掛けると、助祭は今日初めて不服そうな顔を見せた。
「あなたお一人にこんな負担を掛けられましょうか。開祖様こそ先にお戻りください」
助祭は強がっているが、彼の方も息を上げていて限界が窺える。開祖は少しでも余裕があるように見せようとゆったり首を振った。
「ええ、確かに私は疲れています。ですから、私が戻ってすぐ水を浴びられるよう準備していてください」
「……そういう事でしたら。そうと決まれば直ぐにご用意致しましょう、早く戻ってきてくださいね」
助祭は未だ不満気な様子だったがひとまず納得したようで、再び軽い足音を立てて走り去った。見る間に遠ざかるその姿を横目で確認して、開祖は墓に立てられた十字架へ向き直る。
こんなものだろう。
頻繁では無いが初めてでもない。幾度か繰り返してきた重労働をようやく終わらせた開祖は、溜め込んだ疲労を吐き出すように長く溜息を吐いた。墓地は何の問題もなくその役割を果たしていて、その下の身元が分かるものは最早無い。
墓地には様々な人間が埋まっている。その全てが開祖の仕業では当然無い。殆どは元から身元の分からない遺体か身寄りの無い遺体である。……開祖の罪はその内にほんの少し混じっているだけだ。
「三分祈ります。安らかに、アーメン」
吐き捨てて、助祭が待っているであろう自身の教会へ足を向けた。