英雄少女「…あ?」
見知らぬ少女に名前を呼ばれ、突然訪れたまるで映画の冒頭の一場面のような突拍子も無い展開に、ロロは思わず間の抜けた声を漏らす。少女はロロの反応に首を傾げた。
「私は今日から君とコンビの…」
「聞こえなかった訳じゃねえよ」
律儀に名乗り直そうとする少女を制して、頭痛を抑える様に指先を顬に当てる。月並みなボーイミーツガールの如く現れた金髪の少女はロロの反応が理解し難いようだった。
「君には通達済みだと聞いてたんだけど…もしかして届いてなかった?」
そう言えば、とロロは昨晩受け取った封筒の事を思い出す。
日は沈み、月も高く昇った頃に現れた封筒の配達人は妙に神秘的な容貌をしていたので、記憶を手繰るのにそう時間は掛からなかった。褐色の肌に月光を淡く弾く白の長髪を携えて、睨め付けるような底知れない目をしたロロよりも大柄な男は一昼夜でそう忘れられるものではない。
「…アレか…」
…ああ、確かに。確かにあの封筒の中身にはコンビがどうだという文言があった気がする。だからといって、昨日の今日どころか昨夜の今日で来るとは誰が予測できただろうか。
百歩譲ってそこは流すにしても、だ。改めてソラと名乗る少女に目を向ける。
彼女は軽く結われた黄金色の髪にLOOK MEと記された赤いヘッドホンを身に付けており、髪と同色の瞳は澄んでいるが何処か心奥を覗かれるような得体の知れなさがある。どう見ても成長途中の小柄な身体には、SMILEと書かれたシャツに、その名を象徴するかのような快晴を思わせる空色のパーカーを羽織っている。少し緩い朽葉色のズボンと深い藍色のスニーカーは、彼女に活発な印象を与えていた。
「何で俺がガキのお守りを…」
ロロが小声でぼやく。ソラのまだ幼い風貌は、英雄ごっこに憧れる子供という感想をロロに抱かせた。すると、ロロの愚痴に対してソラがツンと口を尖らせる。
「もう十五だよ、子供じゃない」
「十五はガキだろ。…聞こえてたのか」
反射的に言い返したが、真逆聞こえていたとは思わなかった。聞き取れない声量のつもりだったが、この少女は随分と耳聡いようだ。
「うん、聞こえたよ。私は耳が良いんだ」
そこで、ソラはふと何かを思い出したようにあ、と声を漏らした。
「そういえば、ちゃんとした自己紹介がまだだったね」
気取った調子の咳払いをひとつして、ロロを真直に見据える。陽光を受けて輝く鮮やかな黄色の瞳に、何もかもを見透かされているような錯覚に囚われて、ロロは少し気圧された。
「それじゃあ改めて。番号は五十六、名前はソラ。異能は超聴力。君の独り言くらい澄まさなくても聞こえるよ。これからよろしく、ロロ」
耳聡いのは彼女の能力だったらしい。道理で、と納得しつつロロは敢えて辛辣じみた問いを投げる。期待に満ちた目をしているこの少女には悪いが、ロロに子供一人を常に気にして戦う程の余裕は無い。
「その能力で、お前は如何やって役に立つんだ?」
「そうだね。確かに直接戦闘に用いる能力じゃないけど、でも大体のことは出来るよ。遠くても壁があっても私には関係ない。敵も救助者も探せるし、情報を集めることも出来る。君の役には立てるでしょ?」
要するに、完全支援型ということらしい。
「矢っ張りガキのお守りじゃねえか」
「なんで!?」
溜息混じりにロロが言うと、不満を主張する様にソラが頬を膨らませる。
「お前を守って戦えって事だろ。お守りじゃなかったら何だってんだ」
そう膨れられても、負担するのはロロである。ロロは呆れ顔で主張を述べるが、それを聞いたソラは膨れ面を止めて自信ありげな表情に戻った。
「それは大丈夫だよ、自衛くらい出来るから。心配してくれたんだね」
「お前…」
「おっと」
自信ありげに言うソラを未だ疑いの目で見ながら、また言葉を返そうとしたロロをソラが制す。
「こういうの、噂をすればって言うのかな」
「…何の話だ?」
文脈が見えず、ロロは首を傾げる。ソラは言葉を返す代わりにロロの後方、住宅の角を指し示した。
「だから何が…あ?」
その角から、ずるりと黒い泥の塊のようなものが這い出てくる。成程、自慢の聴覚はこの異音を捉えたらしい。
(この短い時間に二度も…?)
普段こうも立て続けに現れることは無いのだが、珍しい事は続くものなのだろうか。何はともあれ怪物が出たならロロの仕事である。
「下がってろ」
ソラを後ろ手に庇いつつ、怪物と相対する。半流体の怪物は大方楕円球を保ったまま移動しており、触れられた住宅の塀や道に跡が残っている様子は無い。 短く触手を伸ばし、地を掴んで体を引く…という具合に前進している。
処理が早いに越したことはない。臨戦態勢に入ったロロの髪は再び意志を持ったように拡がり始めた。
対する怪物は知覚能力が鈍いのか、此方に気付いていない…と思ったのも束の間で、突然動きを止めたかと思えば触手を勢い良く伸ばしてきた。どうやらロロの後ろ…ソラを狙っているらしい。
「!」
「チッ…」
短く舌打ちして、髪の一束で触手を地に叩き付ける。その勢いで切断された触手は、蠕動すら無く動きを止めた。分裂再生の気配は見られない。それなら何も気にする必要は無い。
「話の途中に割り込むんじゃねえよ」
先程触手を防いだ髪を槍状に変化させ、そのまま怪物に突き立てて貫く。濡れ羽色の槍は貫いた体の内部で分かれ、抵抗させる間も与えず怪物を四散させる。断末魔すら無く内側から裂かれた怪物だったものに再度動く気配は無い。
「無事だな?」
背中越しに確認する。一先ず目立つ傷も無いので及第点だろう。すると、そこで自分を見つめるソラの瞳がやけに輝いていることに気が付いた。
「ど…」
「君、凄いね!能力は聞いてたけど、それをこんなに自由に扱える判断力も反応速度もすっごく優秀だ!」
ロロが如何した、と問うより前に、早口で賞賛を捲し立てられる。一切の嫌味や皮肉を含まない純粋な賛美にロロが怯んでいると、ソラが更に続けた。
「うん、私達良いコンビになれると思うよ!きっと何だって出来る、沢山の人を救えるしどんな怪物だって敵じゃない!」
興奮した声色で紡がれるその言葉を聞いている内に、ロロは次第に冷静さを取り戻す。
「そんな大敵と戦う機会もねえよ、お前の手助けも必要無い」
放っておけば日が暮れるまで如何に素晴らしい事が可能であるか延々と話し続けそうなソラに、素っ気ない調子で言い放って背を向ける。
「どこ行くの?」
「帰るだけだ。お前ももう帰れ」
「うん、そうだね」
ソラが矢鱈すんなりと頷くので、多少の違和感を感じつつその場を後にした凡そ数十分後。
「………何で着いてきた?」
「え?」
コトコトと小気味良いリズムで揺れる路面電車の座席に体を委ね、色とりどりの屋根が後方に流れていくのを横目で見送りながらぼそりと投げた問は、がらんとした車内に溶けていった。
興味深そうに車窓を覗き込んでいたソラは、きょとんとした顔をして振り向いた。
「君、帰ろうって言わなかった?」
「だから聞いてるんだろうが」
呆れた顔で返すロロに、ソラはまだ首を傾げている。もっと早く、ロロの後ろにぴったり着いで駅まで歩いてきた時点で指摘するべきだったのだが、ロロも距離感を掴み兼ねているのである。何せこうも近い話だとは思わなかった為に先日の通達には碌に目を通しておらず、彼女の自己紹介以上の情報を持っていないのだ。
「泊めてくれないの?」
「誰が泊めるか!」
言うに事欠いて何を言い出すのだろうこの少女は。脳裏に浮かぶ事案の二文字を追い出す様に頭を振る。…つい大声になってしまったが、車両内に人が居なくて助かった。
「そっか。困ったな」
それを受けたソラが眉を顰めるが、困るのはロロの方である。何の因果があって初対面の、十以上も歳の離れた少女を家に泊めなければならないのか。困るというか体裁が地に落ちる。
「大人しく自分の家に帰れ」
「暫くは君の家に居るつもりだったから、帰り道を覚えてなくて」
ぼそ、と指摘するロロに、ソラがまたとんでもない発言を返した。
「…お前如何やって来たんだ」
絶句しそうになるのを如何にか堪えて、言葉を絞り出す。
「近くの駅まで送って貰って…まあ、一人じゃなかったから」
「…保護者に連絡は?」
流石に何かの連絡手段位はあるだろう。
「保護者?…ああ、えーっと…忙しいから電話しても出ないと思うよ。という訳だから、君に断られたら宛が無いんだ」
「………帰る目処が立つ迄だからな…」
そう言われて尚断れる程、ロロは非情に徹し切れない。先程までの途方に暮れたような表情は何処へやら、ソラは一転して顔を輝かせる。
「ありがとう!ふふ、さっきの戦闘の時も思ったけれど、ロロは優しいね」
「……」
何か言い返そうと口を開いたが、適当な言葉が思い付かずに押し黙る。心の奥の痒さが煩わしかった。そのままソラの無垢な視線から逃れるように、顔を背けて車窓の外に目を向けた。
「ここが君の家?」
「…ああ」
あの後も度々話し掛けてきたソラをおざなりにあしらって帰路を辿る。
やがて、黒く平らな屋根と白い波線の描かれたモルタル壁の、小さな十字枠の窓がついた二階建の家の前で足を止めた。既に日は傾いて、鮮やかな橙色の光が外壁の上で波打っていた。
「君、一人で暮らしてるって聞いたけど、立派な家だね」
「給与は十分出るだろ。…集合住宅は騒ぐと迷惑だからな…」
冷めた声で答えた後に遠い目で付け足すと、ロロの表情には気付いていないらしいソラが不思議がる。
「君が一人で騒ぐようには思えないけれど。…一人暮らしだよね?」
おずおずと確認するソラに無言の首肯で答えつつ、屋根と同じ色の、少し重い扉を引く。
「…入れ」
扉を引いたまま、空いた手でソラを促して入らせる。…遂に家に上げてしまったが、さて如何したものか。まあ如何にも出来ないのだが。
ソラを玄関に上がらせ、ロロも中に入ると後ろ手で扉を閉めた。すると、ソラが突然辺りを見回して困惑した声を上げる。
「あ、あれ?」
怪訝に思ったロロが何かを言う前に、ソラが振り向いて尋ねる。
「君のこの家、防音だったりする?」
「それが何か…ああ、お前の異能か」
頭を捻る前に、先程聞いた自己紹介を思い出す。人一倍…で収まらない程耳が良いのであろう彼女にとって、突然外の音が小さくなったのはちょっとした異常事態だったらしい。
「う、うん。その…外が突然視えなくなったから、驚いて」
気丈な様子で取り繕っていたが、その頬には冷や汗が浮いていた。常人からすれば、突如視覚の大部分を塞がれるようなものだろうか。だとすれば、その反応も無理はない。先に言っておくべきだったかと省みても仕方がないのて、取り敢えず居間に場所を移してソラを椅子に座らせ、彼女の緊張が緩むのを待った。
「落ち着いたか?」
「おかげさまで、ありがとう。もう大丈夫だよ。ふふ、さっきは照れていたようだけれど、矢っ張り君は優しいね」
またあの眼に見据えられて、ロロはすいと視線を逸らす。ソラの眼差しも言葉もあまりに混じり気がなく純粋で、如何にもむず痒く居た堪れない。ロロのその動作を見てくすくすと小さく笑ったソラは、来客用の上履きの爪先でこつこつと床を叩くと、壁の方に目を見遣った。
「そう言えば、壁が所々欠けているようだけど…」
「…お前の気にする問題じゃない」
ロロは目を逸らしたまま、苦虫を噛み潰したような表情をする。防音の一軒家を選ぶ羽目になった元凶の悪友達の顔が浮かび、この状況を彼等に見せる訳にはいかないという考えに至った。幼女趣味だ何だと何を言われるか分かったものでは無い。とはいえ彼らが今直ぐに襲来する訳でもなく、杞憂に近い憂慮と共に息を吐いて、おもむろに席を立ちつつソラへ尋ねる。
「一応聞くが、甘い物は好きか?」
「え?うん、好きだよ」
その答えを聞いて、台所の棚からココアパウダーと砂糖、冷蔵庫から牛乳を取り出す。同時に髪を伸ばしてカップ二つとステンレス製のミルクパンを用意する。ココアパウダーと砂糖、牛乳をミルクパンに入れて匙で混ぜる。慣れた作業は考えずとも身体が動く。
「それで、帰る目処はいつ立つんだ?」
ミルクパンを火にかけている間に端的に切出す。泊まる前提、という事は少なくとも今日中では無いのだろうが、当然ながら早い方が助かる。ロロの質問に、ソラは自分の中で諳んじるように顎に手を当てて答えた。
「ええと…次の週末かな」
「…一日二日じゃねえのかよ…」
平然と言ってのけるソラに今度こそ絶句し掛けて、痛む頭を抱えながら呻くように言葉を絞り出す。因みに週は本日明けたところだ。
「うん、そうだね」
事も無し、とでも言うような顔でソラが肯定する。さては世間体というものを御存知ないのか。それ以前に危機感という概念が存在しないのでは無かろうか。仮にもロロは今日初めて会った、特にこれといった接点も無い大人の男である。
充分加熱したココアを火から下ろして、カップに注ぎ、ソラの待つ卓に運ぶ。リズミカルに床を叩く音に、不思議と不快感は無い。
「…熱いぞ」
「器用だね。それに、態々淹れてくれたんだ」
「普通だ」
また少し笑って言うソラを遮って、まだ湯気の立つカップを置く。ソラは何度か息を吹きかけて、ココアを口に運んだ。
「うん、凄く美味しい!随分と手順を踏んでいたようだけど、これは普段から?」
「…悪いか」
実の所、ロロはその見目に似合わずかなりの甘党である。ここで否定した所で説得力がある筈も無いので、憮然とした声で開き直る。
「いや、ちっとも。…ふぁ」
ソラが小さく欠伸を漏らす。まだ日は沈んだばかりだが…彼女の何処か超然とした態度の所為ですっかり頭から抜けていたが、よく考えなくても見知らぬ環境に身を置いているのだ、無意識だとしても疲れも溜まるというものだろう。
「温かいもの飲んだからかな、眠くなっちゃった。唯でさえここは…音が少なくて、落ち着くから」
真逆落ち着いていたとは。社交辞令にも見えないが、この少女は些か肝が据わりすぎなのではないか?…今更だが。
「ずうと目を瞑っていたら眠くなるものじゃないかな?それと同じ事だよ、きっと」
ロロの困惑を見透かしたように、ソラが弁解する。…そういうものか。そういうものか?納得と迄はいかなかったが、言い分は理解した。つまり外の音が遮断されて脳が受け取る刺激が減ったという訳らしい。常軌を逸して耳が良いのも大変なのだなと少しの憐憫を覚える。
「二階に上がって手前二部屋が客間だ、好きな方を選べ」
少しして、ココアを飲み終え二階に上がり、手前の部屋を覗いたソラが言う。
「この部屋には随分と本があるね」
その言葉の通り、その部屋には大きな本棚があった。厚薄大小様々な本が色とりどりに敷き詰められている。それに留まらず床にも多少本や紙類等が散乱していた。
「興味があるなら勝手に読め」
ロロが言うと、ソラは困り笑いを浮かべた。読書は苦手なのだろうか。活発そうな格好を見ればそう意外な話でもない。
「折角だけど、私は目が利かないから本は読めないんだ。そういえば言ってなかったね」
「………は?」
流石に絶句するロロに、そのままソラが続ける。今日だけで幾度もロロを見据えたあの目が機能していないというのは信じ難かった。ソラはロロの動揺を余所に言葉を続ける。
「殆どは音で視えるから良いけど、文字や絵、色、というのは…難しくて」
そう述べるソラの態度は至って平常を保っていて、それがロロの感情の行き場を更に無くさせた。ロロは黙って聞き逃せる程図太くも、一方的に悲劇を押し付けて同情できる程傲慢でも無い。彼女は気遣いを求めている訳でも無いだろう、ただ当然の反応を返しただけなのだから。
「………そうか」
整理のつかない感情を押し殺して、それだけ返す。
「君は優しいよ」
その後、ソラに部屋を宛てがって、また少々の会話をして時を過ごしたが、結局自室の床に就くまで、そう言った彼女の顔を振り払う事は出来なかった。眠りに落ちるその刹那、あの青空が良く似合う少女は、終ぞ空の色を知る事は無いのだな、と、そんな事を思った。
「おはよう」
軽快な足音で階段を降りてきたソラは、開口一番に爽やかな笑顔で言う。ロロは既にワイシャツとスラックスを身に纏って、椅子で脚を組んでいた。
「…眠れたか」
一応問うが、ソラの様子を見る限り心配は要らないだろう。寧ろ眠れていないのはロロの方である。生憎一晩で諸々を割り切れるほど達観した人間でもない。眠気覚ましに淹れた珈琲を啜って、昨日ソラが座っていた席に置かれた皿を指す。
「トーストで良いな」
先程焼き上がったばかりの、目玉焼きとベーコンが乗せられたトーストは、まだ薄く湯気を放っている。
「うん、ありがとう」
ソラは口元を緩ませて食卓に着き、トーストを齧る。半熟の黄身がとろりと垂れた。ソラがきらりと目を輝かせる。
「ロロ、もしかしなくても料理上手いよね」
「…別に。そうでも無い」
仕事がない限り暇なものだから趣味と実益を兼ねて少し凝り始めただけで、所詮素人に毛が生えた程度である、と自認している。ソラが褒めてロロが無愛想な声で返す、最早定型と化してきたやり取りを終えた直後、ロロの持つ携帯電話が鳴り出した。…怪物の出現を知らせる通報だ。
すんでの所で落さずに済んだ珈琲を置いて、画面に表示された場所を確認する。急ぎ足で玄関に向かいながら、臙脂色のベストを羽織り紅いネクタイを締める。
「此処に居ろ」
後ろを着いてきたソラに短く言って、足早に通報地点に向かう。
そこから間も無く、その地点に到着する。広い交差点だが、周りに人は見当たらない。幸い避難は速やかに済んでいるようだ。
「…は?」
対象を目視したロロは思わず言葉を失う。何しろ該当する怪物と思われるものは、
「デカいな…」
生憎巨大な敵と相見えるのは初めてなのでその目測も見当外れかもしれないが、優にロロの身の丈の五倍だか十倍だかはありそうだ。大きいから何だ、という話ではない。巨躯とは、最も単純な脅威である。唯大きいと言うだけで、その一撃一撃が段違いの破壊力を産む。
一応は人型をしているが、腕部がやたらに長く、黒い影のような靄を纏っており、巨大さと相俟って精確な実体を捉え難い。
「!」
靄の中から、赫瞳が覗く。怪物がゆっくりと腕を持ち上げる。揺らめく赫い光に射抜かれて、刹那の間身が竦む。
「退がって!」
少女の鋭いソプラノが空を切った。ただその声に従うように、反射的に後ろに跳躍する。
一秒前にロロが立っていた位置に巨人の拳が落ちて、アスファルト舗装の道路に深く放射状の罅が走る。ソラの声が無ければ、と考えると背筋が凍る思いがした。だが、躱せた。戦える。
「助かった」
巨人からは目を切らず、素直に感謝を述べる。嗚呼、本当に助かった。
ゆらりと巨人が姿勢を戻した。不釣り合いに長い両腕が、不気味にだらんと垂れ下がる。動き自体は遅い様に見えるが、そもそもの大きさの為に油断すれば瞬く間に距離を詰められる。
「…ッ!」
大雑把に、横薙ぎに振るわれた腕を後方に跳び回避する。風圧で飛ばされた舗装の残骸が頬を掠めて紅い線を引いた。生温い感触に顔を顰める。小さく舌打ちして親指で頬を拭い、また巨人を見据えた。
怪物達は、元が人間の体だ。よってその動力源は人間体に置ける心臓部である。其処さえ破壊してしまえば、彼等は停止する。
気を抜けば竦みそうな身体を落ち着かせる為に、一度長く息を吐いた。喉元に這い寄る死のイメージを振り払う。先手必勝だとばかりに、漆黒の槍の先端をの巨人の左胸に向け、射貫く。案外硬度は低いようで、確かに実体を穿いた手応えがあった。
「違う、そこじゃない!!」
ソラが叫んだ。一瞬の油断に緩んだ緊張が張り直されて、瞬時に状況を確認する。
「は」
気付けば巨人の腕が目前まで迫っていた。
ぶわ、と網状に拡がった髪が正面から拳を受け止める。当然止め切れる筈も無いが、辛うじて力の方向を逸らした。更にそれと同時に後ろに跳んで、それでも尚吹き飛ばされる。
「ぐ、…ぁ」
背中を酷く打ち付けた衝撃で声が漏れる。痛い、眩々する、感覚が鈍い、身体が痺れる、吐きそうだ。
「大丈夫!?」
眩む頭にソラの声が響く。
「問題ねえよ」
喧々囂々と主張される不調を制し、見え透いた強がりを吐いて立ち上がる。さて、どうしたものか…攻略法を探すにも、痛みで集中力が削がれる。躱すだけで精一杯だ。
「あれの心臓は左肩の辺りだ、巨大化と腕が伸びた影響で動いたんだろうね」
ソラの少し早口な説明に納得する。確かに考えて見れば当然の話だ。大きさに慄いて判断力が落ちていた所為もあるだろうが、人型の見た目に余計に惑わされていた。
「いけるね?」
その黄金の瞳に映るのは、痛い程の信頼。
「ああ」
応えてやろうじゃないか。
次撃を冷静に見切り、髪を街灯の上部に縛ってワイヤーロープの要領で引き、身体を跳ね上げる。巨人の深紅の瞳を見上げた。既に、語ることは何も無い。
「これで最後だ、クソッタレ」
ロロの口角が吊り上がり、その尖った歯が垣間見えた。黒塗りの刃先を擡げる。黒刃が閃いて、巨人の左の腕が落ちる。同時にその本体は動きを停め、派手な音と共に倒れ崩れた。
落下するロロの髪が大鴉の翼を想起させるように広がった。緩やかに降下したロロは、革靴の底を鳴らして着地する。
「…っ、ゔ…」
着地の衝撃が先程打ち付けた傷に響き、小さく呻いた。今直ぐにでも大の字になりたかったが、最後の見栄で蹌踉めきながらもソラの元に向かう。少女は静かに笑っていた。
「私は役に立ったかな?」
その言葉に虚を突かれて、歩みが止まる。ロロは観念した様に目を瞑って、それから穏やかな表情を湛えて、答えた。
「ああ、そうだな」
その返答に、ソラは満足気な表情を浮かべる。
「ほらね、ロロ。私達なら何だって出来るよ」
雲ひとつない青空の下で、少女は英雄のように笑った。