午前十時、雨彦はクリスとの待ち合わせ場所である、駅前に来ていた。
クリスの誕生日から三日後の今日、オフが重なった二人は一日を共に過ごす約束をしている。誕生日当日ももちろん盛大に祝ったのだが、今年の雨彦にはもう一つクリスからのリクエストがあった。
「雨彦、お待たせしました」
待ち合わせの十分前、そう言いながらクリスが駆け寄ってくる。変装用の眼鏡越しに、雨彦を見つけたその瞳が輝くのを見ると、自然と表情が綻んだ。
「いや、俺も今来たところだ」
「良かったです。では、行きましょうか」
いつもであれば雨彦が口にすることが多いその言葉を、今日はクリスが口にする。今日の二人のデートは、主役であるはずのクリスが自ら考えたものだった。
誕生日を間近に控えたある日、雨彦はクリスにプレゼントのリクエストはあるかと尋ねた。当然のように物のリクエストが返ってくると思い込んでいたのだが、実際にクリスから返ってきたのは、「あなたの一日をいただけませんか?」という可愛らしいお願いだった。
せっかくの誕生祝いだ。海でも水族館でも、好きなだけ付き合ってやりたい。普段はなかなか足を運ぶことができない、少し離れた場所まで行ったっていい。雨彦の意思は、少しも迷うことなく固まる。
間髪を入れずに了承すると、クリスはぱっと表情を輝かせた。そんなクリスを喜ばせるべく、プランを考えようとした雨彦に、クリスは当日のことは自分に任せてほしいと付け足したのだ。
だから今日の雨彦は、クリスがどこへ向かうつもりなのかをまだ知らない。けれどクリスがどんなプランを練ってきたとしても、雨彦はとことん付き合ってやるつもりでいた。
「お前さんが映画とは、珍しいな」
待ち合わせ場所から歩くこと10分ほど。たどり着いたのは海でも水族館でもなく、商業施設に入っている映画館だった。
雨彦もクリスも、日頃頻繁に映画館に足を運ぶタイプではない。自宅で二人で過ごしている時に、映画やドラマなんかを見ることはあるが、こうして映画館に来たのは初めてのことだ。
クリスは既にチケットを手配していたようで、発券したものを手渡される。チケットに書かれていたのは、雨彦も聞いたことのある、最近話題の洋画のタイトルだった。
「眉見さんから、今一番おすすめの作品だと伺いまして」
そう言うクリスも、この映画を見るのは初めてのようだ。事務所でも指折りの映画好きである、鋭心がおすすめする作品となると、雨彦も興味が湧いてくる。
珍しいこともあるものだが、たまにはこういう過ごし方も良いだろう。そんなことを考えながら、指定された席に着く。程なくして館内が一段暗くなり、上映が始まった。
スクリーンに流れる映画の緻密に練られたストーリーや軽快なアクションは、映画にそう詳しくない雨彦から見ても面白かった。鋭心がおすすめするだけのことはある、と感心しながら、雨彦は時折隣に座るクリスの様子を盗み見る。
真剣にスクリーンを見つめているクリスは、シーンによって少し難しい顔をしたり、小さく笑ってみせたりと表情が移り変わっていく。何度か繰り返していると視線に気づいたのか、クリスがふと雨彦の方を見た。視線が絡まるとふわりと微笑みかけてくるので、思わず心臓が跳ねる。クリスの意識はすぐに映画の方に戻ってしまって、それを僅かに惜しんでいる自分に思わず苦笑した。
ここが二人きりの部屋の中だったなら、思わず触れてしまっただろう。けれど誰が見ているかわからない中で、無闇にスキンシップをとるわけにはいかない。
ほんの少しのもどかしさを感じながら、雨彦も映画の方に意識を戻した。
その後も、クリスの口から海や魚の話が出ることはっても、目的地が海や水族館になることはなかった。
映画館の近くのお洒落なカフェ。行く先々のスポット。時折事務所の仲間の名前が出てくることから察するに、クリスは今日のために随分とリサーチを行ったようだ。
まるで世間一般の恋人がよくするデートをなぞろうとしているようなそれらは、もちろん雨彦も楽しむことができている。クリスとこうして過ごすのも、たまには良いものだ、とも思う。けれどクリスが何故こんなプランを立てたのか、という疑問だけは残り続けた。
雨彦がそういうものを望むタイプでないことは知っているはずだし、今日の主役はクリスなのだ。
クリスと恋人という関係に収まったのも、つい最近の話ではない。だから今更雨彦に気を遣っているというのも考えにくい。クリスの方も楽しそうにしているのだから、気にすることはないのだろうか。
そんな思考が時折頭の片隅を過ぎるが、答えは出ないままあっという間に時間が過ぎていった。
「お前さん、本当に良かったのかい?」
すっかり日も暮れた後、イタリアンレストランで夕食を共にしながら、雨彦は結局本人にそう尋ねた。
雨彦の言葉の意味は、クリスには伝わらなかったらしい。不思議そうに目を瞬かせるクリスに、雨彦は続ける。
「お前さんが海以外にまったく興味がないとは思わないが、もっと他に行きたい場所があったんじゃないか」
その言葉でようやく雨彦の言いたいことを理解したらしいクリスは、小さく首を横に振った。それから内緒話をするかのように、少し声を潜める。
「実は、あなたと恋人がよくする定番のデート、というのをしてみたかったんです」
「……お前さん、こういうのに憧れがあったのかい?」
「憧れというよりはちょっとした好奇心、と言ったらいいでしょうか」
そう話すクリスは、雨彦が楽しめていないようであれば、予定を変更しようと思っていたのだという。
「あなたと同じものを見て、食べて、経験する。恋人が過ごすありふれた一日というものを、あなたと過ごしてみたら、これが定番だと言われる理由がわかるのではないかと思いまして」
「なるほどな。それで、試してみた感想は?」
「……そうですね。一人でだってできてしまう何気ないことも、あなたが隣にいてくれるだけで、あなたと共に語れるというだけで特別になるような、そんな気がしました」
クリスの言葉はいつだって真っ直ぐだ。この言葉を向けられる対象が、柔らかい笑みの先に自分がいることが、奇跡のようにすら思う。
言葉を探すように視線を彷徨わせたクリスは、けれど、と続ける。
「こういった過ごし方も良いですが、いつもの私たちの過ごし方の方が、私たちらしいのだろうとも思います。……雨彦、あなたはいかがでしたか?」
「俺もお前さんと同じ気持ちさ。これはこれで良いが、定番とやらにこだわらなくたって、お前さんが隣にいることに意味がある」
それは誤魔化しなしの本当の言葉だ。雨彦はただ、クリスに自分の隣で笑っていてほしいのだから。
そう伝えるだけで、クリスは嬉しそうに笑う。
「なあ古論、恋人らしいデートってやつの続きはあったのかい?」
「それは……はい」
「次のご予定は?」
「……二人きりになれるところに」
雨彦の問いかけに、クリスはほんの少し頬を染めて、ぽそりと呟いた。やや遠回しではあるが、クリスの言わんとするところはわかる。
願ってもないその回答に、雨彦はにやりと笑った。
「今日は一日付き合うって約束だ。その予定、やりきろうぜ」
そう返してやると、クリスは少し照れたような表情のままこくりと頷く。
今日は外で過ごす時間が長かったから、なかなかクリスに触れることができずにいた。だからこの後はその分、クリスをうんと愛でてやりたい。
少しだけ逸る気持ちを抑えながら、雨彦は食事を再開する。
二人の夜は、まだまだこれからだ。