キッチンから機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえてくるのを、雨彦はリビングでテレビを眺めながらひっそりと聞いている。
世間がバレンタインで盛り上がる二月十四日。今日は偶然にもオフで、クリスは雨彦に手作りのチョコレートを渡したいのだと数日前から意気込んでいた。必要なものは昨日のうちに用意していたらしく、朝からキッチンに籠もっている。
クリスが奮闘する様子を見守りたい気持ちはあったのだが、キッチンに近寄ったところ、完成するまでは秘密だと追い返されてしまった。恋人がチョコレート作りに夢中になっている間は、おとなしく一人待つしかないだろう。
パキパキとチョコレートを割る音。コンコンと卵を割る音。カシャカシャと何かをかき混ぜる音。
キッチンから響くそれらの音は、随分と途切れ途切れだ。時折物音が止まるので、おそらく慎重に手順を確認しながら進めているのだろう。
クリスは料理が得意だが、魚料理が専門のようなものだ。それに料理とお菓子作りとでは、また勝手が違う。クリスが慣れないお菓子作りを、自分のために頑張ってくれているというのは、正直なところ気分が良い。
オーブンが稼働すると、キッチンからほんのりとチョコレートの香りが漂ってくる。どんなものを持ってきてくれるのだろうと、楽しみになっている自分の浮かれ具合に気づいて、雨彦は思わず苦笑した。
「お待たせしました、雨彦」
それから少し時間が経って、エプロン姿のクリスが皿とマグカップを手にしてやってきた。
皿の方には一口サイズに切り分けられたブラウニー。マグカップにはコーヒーが淹れられている。
「これが、今年の私からのバレンタインチョコです。見た目にはあまり自信がないのですが……」
「ああ、ありがとな。お前さんが頑張って作ってくれたんだ、大事にいただくよ」
目の前に置かれたブラウニーに、そこまで気にするような点は見当たらないのだが、謙虚なところがクリスらしい。感謝を告げる自分の表情が、緩みきっていないだろうかと少々心配になった。
「お前さんの分はないのかい?」
「まだ切り分けてない分はありますが……」
「ならせっかくだ、一緒に食おう」
頷いたクリスは足早にキッチンに戻って、自分の分の皿を手に雨彦の隣に座る。それを確認した雨彦は、ブラウニーを一つ口へと運んだ。
ナッツがたっぷりと入ったブラウニーは、甘さ控えめで食べやすい。焼きたてなのでまだ温かく、ふわふわとした食感だ。
クリスの方はというと、フォークすら手に取らず、雨彦の様子を心配そうに見守っている。
「雨彦、いかがですか……?」
「美味しいよ。甘さも丁度いい」
そう答えてやると、クリスは安堵の表情を浮かべた。そうしてようやく自分のブラウニーに手をつける。
「冷やすとまた味わいが変わるようなので、残りは冷蔵庫に入れておきますね」
「ああ、それじゃあ明日のお楽しみにしようか」
チョコレート作りを成し遂げて安心したのか、クリスはいつものようにチョコレートと名がつく魚の解説を始める。それを聞きながら雨彦は、二つ三つとブラウニーを口へと運んでいった。
どんなお返しを用意すれば、この嬉しさに見合うだろう。一ヶ月先のことを考えるのは少し気が早いかもしれないが、早めに準備しておくに越したことはないはずだ。
そんな思考を巡らせていたら、皿の中身が空っぽになるのはあっという間だった。