もし、別れることになったらダメージが大きいのは俺の方だ。
あいつは——暁人は見た目も性格も良い。新しい相手を見つけるのなんて、難しくないだろう。なにより若い。俺と違って。
俺と付き合っていたことなんてすぐ忘れるだろう。それが若さというものだし、それで良いと思う。
それが、俺はどうだ。新たに恋愛をしたいかといえば、そんなことはない。妻と別れてから、愛だの恋だの興味はなかった。自分には向いていない。どうせ別れることになるなら、わざわざ相手を探す意味もない。なにより、そんなことに現を抜かす年齢でもない。
暁人とそういう関係になってからも、つい考えてしまうのはあいつの気持ちが俺から離れてしまうのではないかということ。あいつが俺に「好きだ」と言う度に、身体を重ねる度にそのことが脳裏に浮かんで不安になる。暁人がこんなおっさんに執心している理由がわからない。だから余計に不安になるのだろう。
暁人と一緒に住み始めて数ヶ月経つ。だが、一緒にいる時間が増えるほど、いつか終わりが来るのではないかとネガティブなことを考えてしまう。一度手にした幸せを失うのが怖い。その喪失感を俺は知っている。
二人分の食器、二人で選んだ家具、二人で決めた部屋……気付けばそれらも不安を駆り立てる要素になっていた。
幸せを感じるほど、それに比例して不安が膨れ上がっていく。
幸せなほど、それを失うのが怖いから……。
どうせ失うなら早い方がいい。その方が傷は小さくてすむ。
それなのに、自分から別れようとは言えない。
愚かな俺は二人で暮らすその場所を避けるようになった。仕事を言い訳にアジトに入り浸り、忘れた頃に家に戻る。それも暁人がいないであろう時間を選んで。
そんなことをしていればそれこそ愛想をつかされるという話だが、自分から手放す勇気のない俺にはその方が都合が良かった。けれど、俺の破滅的な期待とは裏腹に、暁人は優しいままだ。毎日スマホにメッセージをよこし、俺のために手料理を作り置きしている。それらを目にする度に俺は「ああ、まだ愛されている」と安堵する。
行動と感情が矛盾していることなんて自分でもわかっている。
本当に、愚かだ。
けれど、こんな馬鹿で愚かで幼稚な行動は長くは続きはしない。
そんなこと、わかりきったことだ。
通勤通学時刻を過ぎた頃、俺はアジトを出た。四日ぶりに家に戻ろうと思ったのだ。秋の終わりらしく、吹く風は冷たい。コートの襟を立て、両手をポケットに突っ込んだ。
暁人はもう大学に行っている時間だろう。顔をあわす事はないはずだ。そしてあいつが帰ってくる前にまたアジトに戻る。そう算段をつけた。
身体が冷え切る前に家に着いた。築年数はそれなりだが、リノベーションで内は綺麗にされてるマンションの三階の角部屋。事故物件だが俺たちには関係ないと、格安で借りたその部屋の玄関扉に鍵を差し込んだ。
扉を開けて中に入る。そして気づいた。
人がいる。
この時間は大学の講義時間のはずだ。俺の記憶違いだったのか。慌てて踵を返そうとしたとき、玄関の正面、廊下とリビングを隔てるドアが開いた。
「KK、帰ったの?」
エプロンをつけた暁人がリビングから出てきた。
「あ、ああ」
狼狽えながら返事を返す。
「おかえり」
「……ただいま」
暁人がにこりと笑う。けれど、俺はその笑顔に圧を感じた。それを誤魔化すように言葉を続ける。
「今日は大学じゃないのか?」
「履修してる講義、休講になったんだ」
「休講……」
口の中で呟いた。なるほど、それは予想できない。
「時間できたからさ、KKと一緒にご飯食べたいなって思って色々作ってたんだ。KKお腹空いてるでしょ?」
小首を傾げて問うその仕草は可愛らしいが、やはり圧を感じてしまう。なぜなら暁人の目が笑っていないからだ。
「いつまで玄関に突っ立ってるつもり?」
溜息混じりにそう言うと、暁人は俺を追い越し玄関扉の鍵を掛けた。
ガチャン
鍵の音がやけに大きく聞こえた。
「ほら、行くよ」
暁人が俺の腕を掴む。痛い。
普段の暁人からは想像できないほど乱暴に強く掴まれ、引っ張られる。俺は引きずられるように歩いた。まるで連行されてるみたいだ。いや、実際そうなのだろう。
馬鹿なことを繰り返すから、罰が下るのだ。
リビングとひと繋ぎのダイニング、そこに置かれたダイニングテーブルの上には既に大量の料理が並べられていた。
綺麗な狐色に揚がった唐揚げ。大ぶりの海老がごろごろ入った海老チリ。焼き餃子と水餃子はどちらも餡が多めにみえる。山椒が効いていそうな色合いの麻婆豆腐。それと黄金色に輝く中華スープ。どれも出来立てらしく、湯気が立ち上っている。室内は食欲をそそる香りに満ちていた。
中華で揃えられた食卓に呆気に取られているのもお構いなしに、暁人がテーブルとセットの椅子まで俺を引っ張っていく。乱暴にコートを脱がされ椅子に座らされるとやっと腕を解放された。掴まれていた腕の辺り見れば薄く手の痕が残っている。そこをさすりつつ暁人の様子を窺うと、あいつは何事もなかったように二人分のコップに麦茶を注いでいる。それから、やはり二人分の茶碗に米をよそう。それらを俺と自分の席の前に置いてから俺の向かいの席に腰を下ろした。そして綺麗に手を合わせる。
「いただきます」
暁人がこちらを見る。その視線に促されるまま、俺も手をあわせた。
「……いただきます」
箸と取り皿を手に取る。ちらりと暁人を窺い見れば、じっとこちらを見つめている。俺が食べるまで自分は箸をつけないつもりなのだろう。俺は居心地の悪さを感じながらも、小太りな焼き餃子に手を伸ばした。一つをつまみ上げる。見た目通りずっしりと重い。それを一口頬張る。噛むと破れた皮から熱い肉汁が溢れ出した。口内を火傷しそうだが構わず咀嚼した。餡にしっかり味をつけているらしく、タレをつけなくても十分に——
「美味い」
自然と漏れた言葉。それは暁人にも届いたらしく、表情が和らいだ。
それからは暁人も料理に箸をつけ出した。俺も食事を続けた。どれも美味い。美味いが、居心地の悪さは相変わらずだ。何より暁人がこうやって二人分の食事を準備してくれていること自体に戸惑いを感じていた。俺は今日帰るなんて伝えていないのだから。
久しぶりの二人での食卓なのに、交わす言葉はほとんどなかった。
テーブルの上の料理を粗方平らげたところで暁人が口を開く。
「デザートに杏仁豆腐があるけど、食べる?」
「ああ、もらうよ」
「OK。準備するよ」
席を立ち、空になった皿を重ねる。手伝おうと俺が椅子から立ちあがろうとすると、
「KKは座ってて!」
強い口調で言われた。
「僕がやるから。KK はそのまま座ってて」
念を押される。俺が逃げることを警戒しているのかもしれない。
いっそ本当に逃げてしまおうか。あいつが追ってきたとして逃げ切ることは難しくない。けれどそれをしないのは——
コトっ
皿を置く音に我に返る。目の前にはガラス製の小鉢に盛られていた杏仁豆腐。その上に赤い実がのっている。杏仁豆腐にはたいてい乗っているそれ。
「何て名前だっけ」
「え? 杏仁豆腐だけど」
「それにのってる赤いやつ」
ああ、と暁人が声を上げる。自分の席につきながら、
「クコの実ね」
と言った。それだと俺も得心する。
「店で出てくるやつみたいだな」
「これがあるだけで見栄えが違うよね」
あんまり他の料理への使い道ないけど、と暁人が笑う。
やっと、まともな会話ができた。そんな気がする。
「使い道ないのにわざわざ買ったのか?」
「だって、久しぶりのKKとのご飯だもん。デザートまでこだわりたかったんだ」
ドキリとした。
不義理なことを続ける俺を、暁人はまだ見捨てる気はないというのか。いつものなら「まだ大丈夫だ」と安堵するところだが、本人を目の前にするとただ罪悪感だけが重くのしかかる。
「なんで……」
そこまでするんだという言葉は尻すぼみになった。
「好きだから」
きっぱりと暁人が言う。
「愛してるから。僕はKKにしてあげたいこと全部する。ただそれだけだ」
「いつ帰ってくるかもわからない奴のために?」
「そうだよ」
でも、と暁人は続ける。
「KKがいつ帰ってくるかはだいたい予想ついてた。だから今日は目一杯ご馳走用意して待ってようと思ったんだ」
「なんでわかったんだよ、帰ってくるって」
「いつも僕がいない日を狙って帰ってきてただろ? 特に僕が朝一の講義に行ってる日。」
「……」
「ちゃんと気づいてるし知ってるよ。僕はKKに無関心ではいられないから。KKは? 僕を避けるのは僕に興味がなくなったから? 僕のこと嫌いになった?」
『嫌い』という言葉に心臓が跳ねた。もしそうなら、こんな不安に思うことなんてない。
俺は絞り出すように言った。
「そんなこと……ない」
「だよね」
自信ありげに暁人が笑う。
「僕のこと嫌いだったら、僕からのメッセージに律儀に返信したり、作り置きのご飯ちゃんと食べたり、ご飯に添えたメモに返事書いたりしないよね」
暁人のいう通りで、俺はこいつを避けつつも離れることなど出来ていない。半端なんだ。
「それなのに、なんで僕を避けるのかって考えてた。本当は無理矢理にでも理由を聞き出してやろうかって思ったけど、あんたは自分の気持ちなんて言わないだろ? そういうとこ頑固だって知ってる。だから考えてた。なんでだろうって。それでふと思ったんだ。」
暁人が目を細めた。俺の心を見透かすみたいに。
「僕の気持ちを確かめようとしてるんじゃないかって」
俺の鼓動がはやくなる。
全部バレている。
馬鹿で愚かで幼稚な行動など、バレて当然だ。居た堪れなさを覚えて俺は視線を逸らした。それを暁人は図星だと解釈したようだ。
「良かった。当たってたみたいだね」
「軽蔑するか? 馬鹿みたいだと」
軽蔑されて当然だと思う。
これで全部終わりだ。これで、いつ来るかわからない終わりに怯えることはなくなる。それを期待していた。同時に、それを恐れていた。それも、すべて終わる。
最後通達を覚悟するに俺に対し、暁人は頭を振った。
「軽蔑はしてない。あんたが態と怒らせることして僕の気持ちを確かめようなんて子供みたなことしてくるの、多少ムカついてはいるけどね。でもそんな不器用なとこも可愛いと思える程度にはあんたに惚れてるんだ」
その瞳はしっかりと俺を捉えている。
暁人はいつだって真っ直ぐ俺を見る。
この視線を素直に受け止めることができたなら、不安を抱えることもないのだろう。暁人の視線から逃げながらそんなことを思う。
「KKってさ、マレビトと対峙してる時は即断即決で無駄なこと考えないくせに、それ以外はぐだぐだ考えるだろ。今もそう。何考えてる? 僕の気持ちはKKにとって迷惑?」
「迷惑なんかじゃない。迷惑だったら、俺はここに帰ってきたりしない」
全てバレているなら、もう隠す必要などないだろう。
「……不安なんだ」
「不安?」
「幸せなほど、不安になる」
俺の告白に、暁人は「なんだ、そんなこと」となんでもないように答えた。
「そんなことって……」
「『そんなこと』だよ。僕だって不安だよ。KKが一人でいなくなる度にもう会えないんじゃないかって、帰ってこないんじゃないかって不安で怖くてしかたない。それは今回のことに限らない。KKが仕事に行く時だってそう。でも、本当に僕から離れるなら意地でも追いかけてその腕を掴んでやるって決めた。だって、僕に取り憑いてる時だって何度も僕から離れてただろ?」
暁人が皮肉気に言う。
「その度に僕が連れ戻したの忘れた? これからも同じだよ」
形の良い掌を俺に向けた。
「あんたが何度不安に攫われたって、何度でも僕はその手を掴んで引き戻す」
言葉と共に力強く握られた拳は、エーテルを吸収していないはずなのに輝いて見えた。あの日のように。
なんだよ、それ。
「俺の気持ちなんてお構いなしか?」
「うん。ごめんね。僕がKKを好き過ぎるんだ。あんたが欲しい言葉も居場所も安らぎも、全部あげる。だから——」
熱のこもった瞳が俺を捉える。熱過ぎる視線から目を逸らせない。
「KKはただ俺に愛されて」
傲慢すぎるその言葉は、幼稚な行動をとってきた俺には相性が良すぎるように思えた。
お前の傲慢を受け入れる程度に、俺だってお前のことを……。
そんなこと、口にはできないが。
「生意気言ってんなよ、クソガキ」
「気をひくために家出する人には言われたくないな」
互いに皮肉を口にして、互いに吹き出して笑った。