コーヒーカップは無重力 コーヒーカップを買った。
「あ? 敬、お前そんなん買ったのかよ」
昼下がり。合宿施設のダイニングルームで真四角の箱から取り出して眺めていると、背後から一孝に声をかけられる。怪訝な顔をしていた。
「へへっ、ビビッときたからな〜」
新品のコーヒーカップは全体がつやつやで深い青色をしていた。光に当たると深海を想起させてくるそれは思わず見惚れてしまうほどの訴求力を放っていて、敬はまんまとその手中に収まってしまった。
「お前にそんな小遣いあったのか?」
「バイトして貯めた金で買った! 一ヶ月前くらい? もうちょっと前だったかな? に、お店のおねーさんにキープしてもらってさ!」
敬は鼻息荒く言って、一孝に向かってコーヒーカップを掲げた。ほう、と苦い顔になる一孝。
「そんななげぇこと、よくキープしてもらえたな」
「すっげぇやさしーんだ、そのお店のおねーさん。いろいろ教えてくれんの。な、うらやましい?」
「は? んなわけねーだろ」すこし強めの力で頭を小突かれる。半分くらいは見栄を張っているように見えた。笑ったら怒られると思ったけれど、どうしても口元がにやついてしまう。「つうかお前、コーヒーなんか飲むのか? どっちかと言えば甘党だろ」
「えぇ? フツーに飲むぞぉ。今はまだまだだけどな、オレはコーヒー道を究めて右京さんになるって決めたんだ!」
「アホ言え。右京さんはコーヒーを飲まねぇよ」
「え!? マジ?」
一孝の言葉にがん、と頭を殴られたような衝撃を受ける。目を見開くと、真隣の椅子の背もたれに肘を着いていた一孝が「おう」と頷く。
「マジだ。コーヒーを飲むのはカブラギか、……ほら、あの『暇か?』の……クソ、決め台詞の印象が強すぎんな……あー、角田課長だ。そんくらいじゃないか?」
ウソ、マジかよ、と呟いた。そういえば、そうだった気がする。盛大な勘違いが発覚した余韻で放心してしまう。
「右京さん……なに飲んでたっけ?」
そう尋ねると、一孝は呆れ顔をしていた。
「もうろくしてんな。紅茶だよ、紅茶。ティーポットからダーッて、淹れてんだろ」
一孝は握り拳をつくり、頭上で傾けるジェスチャーをする。ドラマで見た光景が鮮明に思い出される。あれ、紅茶だっけなぁ。一孝の言うとおり、紅茶だった気がする。
敬は肩を落とし、コーヒーカップをそっとテーブルの上に置いた。コーヒーカップの魅力は変わらないけれど、胸中はなんとなく複雑だ。つんと唇を尖らせる。
「……。んな落ち込むことねーだろ。カブラギでも角田でもいいだろ。ふたりとも右京さんに負けず劣らず立派じゃねぇか」
「あのふたりは……配合してねーじゃん……」
「おい、敬。お前はどこに向かおうとしてんだ。右京さんだって配合はしてねーだろ」
むう、と唸って指先でカップの取っ手を弄っていると、話し声が近づいてくる気配がした。
「あれ、一孝に敬さん。お疲れ様っす」
「おつかれさま」
部屋を覗き込んだ寿史と光希がにこやかに声をかけてくる。おつかれぇ、と声を掛け合うと、光希が敬の手元に視線を留める。
「わぁ……敬さん。そのカップ、綺麗だね」
無邪気に寄ってくる光希の様子に、沈んでいた心がほんの少し沸き立つ。
「そーだよなあ。海の底みたいだろ?」
「うん。僕も今、お魚がいっぱい泳いでるところを想像した」
「あれ敬さん、コーヒー飲むんですか?」
「こいつ、右京さんになるんだってよ」
敬の顔を指差して口角を上げる一孝。馬鹿にされている! 敬は憤慨した。
「おいカニ座! それはもういいだろ! しつこい!」
寿史が苦笑いをしている。その顔を見るとやっぱり紅茶なんだ、と思った。
「………………」
ぽかんと口を開けている光希に気がついて、一孝も「あ」と口を開けた。
「光希。お前、右京さんわかるか?」
えっと……と、顔を弛緩させる光希。困惑の色が浮かんでいる。はっと息を飲んだ。寿史も慌てた表情をしている。
「えっとね、光希。右京さんはね、刑事ドラマの登場人物で……」
「紅茶が好きなんだが、敬はコーヒーが好きなもんと勘違いしていた」
「だからぁ、もういいだろ、それは! なっ、光希! 今度一緒にドラマ観よう! な!?」
口々に言われて目を丸くしていた光希だったが、まばたきをしているうちに状況を飲み込んだようで、ふふっと口元を綻ばせた。
「右京さんは刑事ドラマの登場人物で、紅茶が好きで、だけど敬さんはコーヒーが好きなんだって、勘違いしてた人なんだね。僕、覚えたよ」
「一孝のバカぁ! おたんこなす! 光希が! 光希が変なこと覚えちったじゃん!」
「あー、わり」
「ふふ。正義さんも入れて、みんなで観たいな。ドラマ」
「うん。一緒に観よう、光希」
寿史が微笑み返した後の光希の表情を見て、安堵する。光希の嬉しそうな表情を見るとこちらまで嬉しくなる。
「あとね、僕、もうひとつ覚えたことがあるよ」
ん? と目を上げた。
「敬さんには、どうしてもおいしいコーヒーを淹れたい理由があるんだね。それって、いいな」
なにもやましいことはないというのに、表情が固まる。そうだなぁー、とカップを眺めながら言った。我ながら乾いた声だった。
*
養護施設で暮らしていた頃は、姉と呼んで慕っていた女性の真似したがりだった。
姉は人気者だったので、年下連中は敬に限らずみんなが姉の真似をしたがった。もちろん、良輔や柊も例に漏れず。よく三人で姉のもとへ行き、なにをしているのかとたずねていた。
その日も敬は、幼い良輔と柊を連れて台所に立つ姉のもとへ向かった。また知らないことを教えてもらえるかもしれない! 期待で胸を膨らませながら、なにをしているのか、とたずねた。頭ひとつ分は背が低い自分たちに気がついた姉は表情を綻ばせてうたうように言った。
「コーヒーを作っているのよ」
敬はまだコーヒーを飲んだことがなかったので、その言葉を聞いてから間髪入れずに自分も飲みたいと言った。ご機嫌な姉を見て、きっといいものだと思ったからだ。当時の良輔は敬の真似したがりでもあったので、当然のように自分も飲むと宣言した。その一方、臆病な柊はココアがいいと少し気を落とした様子で呟いていた。
姉は困った顔で「大丈夫?」「ちゃんと全部飲める?」と念押ししていたけれど、敬と良輔は頑として「コーヒーを飲む」と言って聞かなかった。じゃあマグカップに少しだけいれてお試ししましょう、という仕方なげな姉の妥協案を呑み、浮足立つ心でコーヒー(とココア)の完成を待つ。好奇心で高鳴った胸がはち切れてしまいそうだった。
実際にコーヒーとやらを口にするまでは。
おとなしくテーブルの席に着いて待っていた三人の前にあらわれたのは、茶色い液体が入った愛用のマグカップだった。
柊のマグカップには縁下一センチまで、見慣れたココアが注がれていた。においも見知ったものだ。甘いチョコレートのかおり。対して敬と良輔のマグカップには、逆に一センチほどしか液体が注がれていない。敬は当然のように文句を言った。しかし姉は「まあとりあえず試してみてよ」の一点張り。不満を拭い去ることができないままマグカップに向き直った敬は、まずにカップに顔を近づけてにおいを嗅いだ。つんとした、酸っぱいかおりが鼻腔を突く。そこで姉が口酸っぱく言っていた意味をうっすらと悟ったけれど、隣に座る良輔の不安げな横顔を横目で見て腹を括る。濁った茶色をしたその液体を、敬は、……ぐいっと一思いに飲み干した。
嚥下した瞬間、うっと嘔吐いた。ぴたりと動きを止める。口の中にひろがる苦味とほんの少しの酸っぱさを不快に思った。上顎を舐めると、感じた『不快』があとを引く。息を止めて、はーっと深く息を吐いて、良輔と柊を交互に見た。良輔は青い顔で敬の様子を窺っていて、柊はくぴくぴとココアを飲みながらじっと敬を見ていた。
ごくりと唾を飲み込んだ敬は眉間にしわを寄せ、良輔からマグカップを奪い取り、今度は息を止めてコーヒーを飲み干す。あっ、と声をあげた良輔の顔は見ず、ただひたすらに眼前の敵と闘った。
乱暴にマグカップを置いてまた深い息を吐いた後も、心臓がどきどきと高鳴っていた。姉はなぜこの得体の知れない、ちっとも美味しくない飲み物を好んで摂取しようとするのだろうか? 不思議で堪らなかった。
「あら」
ため息のような声を出した姉の驚いた表情を、今でもよく覚えている。すぐに「ごめんね。ココアを飲みましょうか」と言って敬と良輔のマグカップを回収したことも。
柊は「敬ちゃんと良くんと、おそろいだ」と足をゆらゆらとさせて喜んでいたけれど、良輔は敬に視線を向けたまま、ばつが悪そうな顔をしていた。敬の心臓の高鳴りは仕切り直しのココアを口に含むまで、収まることはなかった。
*
今思えば、あの日姉が振る舞ってくれたコーヒーには砂糖とミルクが含まれていたと思う。年を経てから飲んだ『微糖』のコーヒーになんとなく味が似ていると感じたからだ。今でこそ飲めるようになったインスタントコーヒー。あの日の出来事を思い出すたびに、自分が当時の姉とほぼ変わらない年齢に達していることを実感する。
それなりに頑張って金をはたいた。対価として得たコーヒーカップを手に取り眺め、ふうと息を吐く。ああ、今無表情だな、とやけに客観的に自らを分析する。これを得たところでどうするつもりだったのだろう? 実際に自分のものになるまでは明確な目標があったはずなのだけれど、肝心の今はなんとなくもやついている状態だ。
「う」
キッチン棚の前で立ち尽くしていると、ふいに呻き声が耳に入る。はっと振り向いた。部屋着を身につけた良輔が顔をしかめていた。
「良輔」
敬が笑いかけると、良輔はチッと舌打ちをする。
「驚かせんなよな」
はぁ、とわざとらしくため息を吐き、冷蔵庫の扉に手をかける良輔。
「何か作んの?」
「夜食」良輔は短く言って、ちらりと横目を向ける。「……ありあわせで」
良輔が手慣れた様子で四分の一カットにされたキャベツや冷凍のミンチ肉を取り出す様子をじっと見ていた。
「なに」
「いやー、さっすが良輔だなぁと思ってさー」
「……あっそ」
冷蔵庫の扉を閉め、まな板の上に載せた食材を前に、ふんと鼻を鳴らして考える良輔。敬はカップを手にしたまま、吸い寄せられるように良輔の傍に寄った。
「なんだよ。作業しにくいだろ」
「見てていい?」
「はぁ?」
「良輔が料理してんの、見るの好きなんだよなー」
良輔は返事をしなかった。その代わり、眉を顰めている。
「……。あっ、のさぁ」
「んー?」
顔を覗き込むと目を逸らされる。
「いや。お前も、なんか、食うつもりでここにいんじゃねぇの」
首を傾げた。そう言えば、お腹が空いている気がする。
「そーだなー。良輔見てたら腹減ってきたかも!」
にっと笑うと、良輔は唇を尖らせて視線を返す。
「別に、作ってやってもいいけど。ついでだし……」
エ? と目を見開くと、エ? と返される。みるみる赤くなる顔をそのまま見つめていた。
「作ってくれんの?」
「や、やっぱいい!」
「オレのために!?」
「忘れろ! 気が狂ってた!」
「えっやだ! オレ、できるまで見てるし待ってるからな!」
期待のまなざしを向けると、うう、と苦い顔をする良輔。
「なにが出てきても、文句言うなよな……」
「言わない、言わない!」
冷蔵庫にピーマンが仕込まれていないことは、ついさっき確認したところだ。
良輔はキッチンの引き出しを引いて、包丁を確認する。あった、とみずみずしい唇が動く。敬は胸の高鳴りを感じた。なにが出来上がるんだろう。良輔はオレになにを作ってくれるんだろう。想像していると、口元が自然とゆるんだ。
「なあ」
「んー? なに?」
「やっぱさ、なんか飲むつもりだったんじゃねぇの?」良輔の視線は敬の手元に向けられていた。「見慣れないカップだけど、お前、また無駄遣いしたんじゃないだろうな?」
一瞬、言葉に詰まった。ああ、と合点がいく。
「綺麗だろ? これ」
目の前に青いカップを掲げる。良輔はカップを見るなりその瞳に純粋な色を纏わせた。しかしそれもただの一瞬のことで、すぐに静電気にあてられたかのようにはっと身体を奮わせる。
「……別に?」
そして、ふいと顔を背ける。とん、とん、とキャベツを切る小気味いい音が鳴る。はやる気持ちで口を開いた。
「あっ、なあ、これにコーヒーいれてやろうか? 夜食作ってもらうお礼にさ!」
「はぁ?」
良輔は一定のリズムでキャベツを切りながら顔をしかめる。トン、トン、トン、トン。
「ほら! 昔、トモ姉にコーヒー淹れてもらったことあったろ? あの時みたいにさ、」
キャベツを切るリズムが崩れた。良輔の表情は変わらない。
「………………」良輔の喉仏が上下に動く。「いらねーよ。余計なことすんな」
「あっ、もしかして良輔、まだコーヒー飲めない? それじゃあ仕方ないかもなー」
「ちっげぇよ! もう飲めるわ!」鼻息荒く反論する良輔。「つーか、そもそもここにコーヒーなんてあったか? 俺、見たことないんだけど」
「うそ?」
焦って周りを見回して、棚の扉という扉を開く。それらしい瓶もティーパックも見当たらない。
「ホントだ……影も形もない……」
愕然とした。
「それでどーやって液体にする気だったんだよ。アホか。いいから、お前は余計なことは何もするなよ」
なんだ、ないのか。と棚に向かって言った。
途端に手持ち無沙汰になってしまい、もはや用済みとなったコーヒーカップを適当に棚に入れた。カチャン、と陶器が触れ合う甲高い音が鳴る。
「おい、合宿施設にあんま余計なもん持ってくるなよ」
良輔はキャベツから目を離さずに苛立った声で言う。カップを収めるところに収めた敬は「うーん」と唸る。
「なんでだろうな」
家だと取り上げられちゃう気がするからかな。とは言わなかった。
「今度はコーヒー買ってくるよ。うんとおいしいやつ」
包丁の音が止む。耳を澄ませていると「あっそ」という短い言葉が返された。