どっちもダメだ 幾星霜の……。
ううん。
海に輝く……。
ダメだ。
思わず「うーん」と唸って、机に突っ伏した。ため息を吐いたら歌詞ノートに反射して、熱がこもってむっと暑くなった。
傍らできゅうんと搾り出すような音がして、少し顔をずらして確認した。ぽんちゃんがちょこんとおすわりして、僕を見上げていた。きゅんきゅんと舌を出して鳴き続けるぽんちゃんは、もしかしたら僕を心配してくれているのかもしれない。
「ありがとう、ぽんちゃん」僕はぽんちゃんのふわふわの毛並みに指を埋めるようにして、その頭を撫でた。「僕は元気だよ。ちょっと、歌詞作りが煮詰まっててさ」
ぐるぐると頭に薄暗い靄が渦巻く。それを追い出すようにため息を吐くと、気持ちよさそうに撫でられていたぽんちゃんはハッとして、僕の手を必死にペロペロと舐める。動物は人の心の動きに敏感だって説は都市伝説だろうと思っていたけれど、ぽんちゃんを見ているとあながち間違いでもないのかもと思えてくるな。
「ぽんちゃんは優しいね」蓮みたいだ。仕草や雰囲気もそうだけど、こういう、困ってる人を放っておかないところとか(きっと当の本人に聞かれたら「そうかな?」と首を傾げられるのだろうけど)。
……甘いものでも食べようかな。
疲れた時、煮詰まった時は甘味で解決するに限る。横目で壁掛け時計を確認した。チクタクと刻む秒針は、もうすぐ二十一時五十分を指そうとしている。ちょっと、時間が遅い気もするけど、まあ許容範囲内でしょう。
「ラスク……まだ残ってたかな?」
重たい身体を起こして、うんと伸びをしながら独りごちた。プリンやシュークリーム、少し前までは冷蔵庫にストックしてあったのだけど、家計に厳しい万浬くんから次のライブが終わるまでの購入禁止令が出されてからは消え失せてしまった。ちなみに僕が食べ過ぎてるわけじゃなくて、男子大学生五人の生活とバンド活動とを両立させるには、それなりに切り詰めるところはそうしていく必要がある、ということだ。
だから、僕はちょっとみみっちいかもしれないけど、桔梗が余ったパンの耳で作ったラスクで飢えを凌ぐしかないわけで。
若干痺れていた脚を手でほぐしてから、キッチンへ向かった。自分のおやつだと勘違いして嬉しそうにトコトコ着いてきたぽんちゃんを「だーめ。ぽんちゃんのはまた今度ね」と手で制して、ガパッと冷蔵庫を開いた。作り置きのおかずとか、使いかけの牛乳パックとかを一瞥して、ラスクが入ったタッパーを見つける。ひんやりと冷たくなったそれを抜き取って、冷蔵庫を閉めた。
「ただいま」
ちょうど同じタイミングで涼しげな声が響く。心臓をドキッと鳴らして反射的に振り向いた。桔梗が髪を手櫛で整えていた。
「おっ……おかえり」
ばか、なんで吃ってるんだ。別にやましいことはしてないはずなのに、兄さんに悪戯が見つかった時みたいな気持ちになってなんとなく声が上擦ってしまう。桔梗は「ただいま」ともう一度僕に言って、視線をすっと僕の手元に向けた。
「なっ、何?」
「的場……少し身体を動かしたほうがいいんじゃないか?」
舐めるような視線を感じて、僕はムッと顔をしかめた。帰宅早々、とんでもなく失礼なやつ。
「は? 僕がデブだって言いたいの? 余計なお世話なんだけど……」
「的場、そこまでは言っていない」桔梗は笑いも焦りもせず言った。「歌詞が煮詰まっているんじゃないか」
「なんでわかるの?」
「的場を見てたらわかるさ」
なにそれ、と思いながらタッパーの蓋を開けた。ラスクは五本残っていた。
「甘味に頼るのも的場らしいが、運動もいいぞ。汗を流せばいくぶんか頭がすっきりする。どうだ? お前さえよければ、今度ランニングの仕方を教えてやるよ」
「今度ね」
「帰ったら、的場の好きなものでも作ってやろう。何がいい? 朝方ならフレンチトーストが良いと思うんだが」
きゅう、とお腹が鳴りそうだった。
「……。考えとくよ」
桔梗は「そうか」と肩を竦めた。ガリ、とラスクを齧る。甘くてカリカリで、ちょっと塩気もあっておいしい。悔しいけど病みつきになってしまって、もう一本、もう一本と手が止まらなくなる。
「ていうかさ、桔梗がそうやって甘いものをほいほい与えてくるからダメになってるようなとこあるんだけど」
「そうだったか?」
ラスクをざくざく齧りながら言うと、足元に纏わりつくぽんちゃんを構っていた桔梗はキョトンとした顔で僕を見る。
「こうやってラスクも作り置きしといてくれるしさ? パンケーキとか、レアチーズタルトとか……味見もしないのに美味しいのを作ってのけて、悪びれもせずに与えてくるし」
「そんなに頻繁だったか」
「そうだよ! なんか、お陰で身も心もどんどんダメにされてる気がする」
いまいちピンときていない様子の桔梗にヤキモキしながらラスクを口に運びそうになって、慌ててやめた。言ってるそばから自堕落を見せつけてしまっては、説得力が増してしまうことに気づいたから。
「そうか。俺にも原因の一端があったんだな。悪かった」
「ま、まあ、たまにならいいけど?」
なんとなく惜しい気がしてフォローを入れると、桔梗はそうかと吹き出した。
「お前の美味そうに食べる様子が可愛らしくて、つい甘やかしてしまったようだ。許してくれ」
桔梗が寝ぼけたことを言っているから、僕は「はぁ?」と眉を顰めてタッパーを閉めた。