いつでもあなたにやられてる「俺には我慢ならねぇモンが二つある」
というのは恩人であり友人の現役弁護士・天国獄の口癖である。息をするように、その枕詞ひいては前置きが紡ぎ出される。十四はナイフのような切れ長の目を真っ直ぐに見つめて、次の言葉を待つ。
「ひとつ。冷め切ったコーヒー」
チン、と目の前のコーヒーカップを爪弾く獄。半分ほど注がれたコーヒーからはもう湯気は出ていない。静かなものだ。
冷め切ったコーヒーかぁ。それは自分もあまり得意でない。冷めることで、酸っぱくなるからだ。お揃いだなと思って心を躍らせた。彼がらみのことだと、どんなちいさなことでも嬉しくなってしまう。
「ふたつ。……性懲りもなく職場に乗り込んでくるガキだ」
獄は鋭い眼光を向けてくる。かっこいい。まるで時代劇に出てくる正義のサムライみたいだ。
「でも、なんだかんだ自分のこと追い出さないっすよね。獄さん」
「追い出そうが追い出さなかろうが、オメーはしつこい。なら、話を聞いてやったほうが面倒じゃねぇだろ」
「優しいっすね、獄さんは」
「ぬかせ」
出会ってから数年。彼にとっての『我慢ならないこと』がもはや累計でふたつどころではなくなっていることには今さら触れず、十四はいつも通りに悩み事を暴露し、他愛のない話をして、ひと息吐きがてらソファに腰掛けた。ボフ、と音を立てて尻が沈む。獄はカスタムデスクの向こうで、終始怠そうではあったが十四と会話をしてくれた。それも受け止めるだけではない。キャッチして、ちゃんと投げ返してくれるタイプの会話だ。獄さんが自分の話を聞いてくれている! それが息苦しくなるほど嬉しい。
「え、えへ……」
だらしなく顔を弛緩させてしまう。
獄の位置からでもその表情が見えたようで、ぎょっとされてしまった。
「ンッ……だよ、気持ちわりーな」
そう言って嘆息されても、なんだかずっと嬉しくて、表情を直そうとしても直らない。
「ご、ごめんなさいっす。で、でも獄さんが優しいことが死ぬほど嬉しくて……えっ、仕方なくないすか?」
「十四。そう思ってンのはテメーだけだ」
「ええっ。だって、獄さんはうざいって思ってても自分のこと追い出さないし、こうして静かな壁が厚いお部屋でちゃんと話聞いてくれるし、あとあんまり、自分といる時はタバコ吸わないし……」
蛇口を捻れば湯水の如く溢れ出る『獄のいいところ』を、指を折り舌を縺れさせながら掬い上げる。もっと言葉にできたのだが、途中で獄に遮られた。
「俺には我慢ならねぇモンが二つある。ひとつ、愛用の銘柄以外のタバコ。ふたつ、未成年の飲酒吸煙だ。いいか、副流煙はバカになんねぇんだよ。早死にの片棒担いで後々祟られても迷惑だからな」
別に、獄さんになら殺されてもいいのに。
そんなことを言えば、怒られそうだ。
心臓がぎゅっと締めつけられる。胸があたたかい。この甘く心地いい空気に浸っていたい。けれど抱えたものが大きすぎて溢れてしまいそうなので、早く楽になりたい。そんな心地だった。
そわそわと身を捩り、自分の揃えた膝小僧を凝視した。最近は特にいけない。獄と同じ空間にいると、だめだなぁと思う。全部、獄が優しいのがいけないのだ。
大きく息を吸い込んだ。新しい部屋のにおいと、本のにおいと、コーヒーのにおい。それから、ムスクのような獄の香りが詰まったこの部屋がどうしようもなく好きだった。
「……おい、十四。どーした、ボケッとして」
怪訝そうな空気を漂わせた、獄のバスボイス。綺麗に研磨されておらず、表面に少しざらざらが残っているのがたまらない。
獄に名前を呼ばれると、嬉しい。
けれど最近、たまにキャパシティオーバーになってしまって、心の準備をしていなかった場合に情けなく慌てることがある。
どうしよう。獄さんがちょっと困っている。というか、自分に話しかけてくれているのに! 早く答えないといけないのに……!
「あ」「あう」と指をもじもじ狼狽した十四は「……我が盟友、獄よ! クロノスにより失われしサラマンダーの加護、我が蘇らせてやろうぞ! さあ、その白き聖杯を渡すがよい!」と、咄嗟に額に手を翳して高らかに宣言した。
(あ〜〜〜〜! やっちゃったっす)
そのままのポーズで、石像のように固まる。獄の顔が見られない。自分のこの口調仕草には慣れたものだが、ありのままの自分を知っている人間に改めてこのような態度を取ってしまうと、なんとなく気恥ずかしく、気まずいものがある。コーヒーを飲んでいないにも関わらず、口の中が苦い。
おそるおそる瞼を開け、横目で獄を見遣った。ぽかんと呆気にとられた顔をしていた。
「あ? ああ、まあ、そうだな。頼む。……つーか、なんで急にそんな喋り方なんだ?」
それは自分が訊きたいっすよ!
そう叫び出したい気持ちを抑えながら、獄からコーヒーカップを奪い取り、足早にコーヒーの器具が一式揃えられたスペースへと急ぐ。顔から火が出そうだった。十四は鼻の奥がつんとして目から涙がこぼれ落ちそうなのを堪えながら、脳内で本格コーヒーの淹れ方を復習していた。