愛も酒もそそいだ結果 日々の暮らしを月島が鯉登と共にするようになって、幾度目かの春を迎えた。それは4月1日生まれの月島にとって、幾度目かの誕生日を祝ってもらうことと同義だった。
誕生日だからと張り切る鯉登に、入店を躊躇するような高級レストランへ連れていかれることもあれば、どこで勉強したのか綿密に準備した手作りの料理を振る舞われることもあった。休みの日だったときは、一日外には出ないで済むようデリバリーで乗り切ったこともある。
己に対して無頓着な月島にとっては、誕生日もまた殊更意識するものではなかった。書類に記入する時の年齢も一瞬確認するくらいだ。そんな月島にもっと自分を大事にしろと鯉登が繰り返し言って聞かせ、実際に行動するものだから、そのお蔭でここ数年の誕生日は人並みに年中行事となっていた。
今年は家で。
仕事終わりにデパ地下の食料品売場を一緒にうろうろして、普段なら買い物リストには入れないようなオードブルやら惣菜やらを買い込んだ。家へ持ち帰ってくるなり、月島は座ってろ!と言われたので、言われた通り月島はおとなしくテレビの前のソファできちんと膝を揃えて座って待っていた。その間も鯉登はいそいそとキッチンを動き回っている。
よし、と言うので席へつくと、テーブル狭しと皿が並んでいた。誕生日なんだから、自分が払うから、たまには、と鯉登に半ば押し切られるようにして買うのを許したのだが、お蔭で自宅とは思えないお洒落な食卓が出来上がっていた。今日ばかりは米もいつもの茶碗ではなく皿に盛られている。いつの間にかご丁寧に小さな花まで活けてあった。
「何飲む?ビールもあるが……」
冷蔵庫を指差して訊きながら、鯉登の目は、テーブルに置かれた互いの地元の日本酒の瓶に向けられていた。
「……折角なんで、日本酒にしますか」
「どっちだ?新潟?」
「ああ、はい」
「よし。私もそれにしよう」
ぐい呑み代わりのショットグラスへ日本酒を注ぎあい、お互いグラスを手に、改めて顔を合わせた。
「では……月島、誕生日おめでとう。乾杯!」
「乾杯」
コツ、と形ばかりグラスを合わせて、酒を一口流し込む。飲み慣れた、澄んだ味わいと香りが漂う。よく冷えてはいるが、喉を通り過ぎるとカッと身体の中が瞬間熱くなった。
何から食べようか、と月島がサラダやら骨付き鶏やら麻婆豆腐やら豚の角煮やらを物珍しそうに見回していると、向かいの鯉登が可笑しそうに吹き出した。
みっともない行動をした、と少々気恥ずかしさを覚えながら、月島は鯉登が取った料理へ手を伸ばした。薄切りの魚――鯛のカルパッチョには、小さな赤い実と細い緑の葉がぱらぱらとまぶされていて、見た目も華やかだ。透明なドレッシングを絡めてぱくりと口に運ぶ。
「お、美味い……」
醤油にしては甘く、ポン酢にしては酸味が柔らかい。まろやかな出汁と甘酢を合わせたような味が淡白な白身魚に合う。目を丸くしていると、鯉登が得意そうにふふん、と笑った。
「だろう。煎酒を使っとるらしいぞ」
「はあ……イリザケ……?」
聞いたことのない調味料だが味は良い。米にも合うのがなにより良い。そういえば和洋中のまとまりがないレパートリーだが、いずれも米が進むものばかりで固められているようだった。鯉登が何を基準に選んだのかがわかって、月島は少し胸がくすぐったくなった。
「月島、これもあるぞ」
「え、それ……」
うずうずしていた鯉登が突き出した小鉢を覗いてみて、月島は目を瞬いた。小鉢の中には、細く切られた、半透明の黒っぽいものがちんまりと盛られている。知らない者が見れば、ところてんか刺身こんにゃくかと思うだろう。しかし、月島には一目でわかった。
「いごねり、ですか」
「ああ。こっちでは売ってなくてな、こっそり取り寄せたのだ!」
肩を聳やかす鯉登といごねりを交互に見て、月島は恐る恐る、という動きでいごねりに箸をつけた。郷愁だけでなく、複雑な感情を呼び起こす郷里の味だ。
「……いごねりです……」
「そりゃそうだろうな」
反応を伺っていた鯉登が真顔で頷いた。自分でも味を見てみると、もう一度頷く。
「磯の風味が強いが、味はさっぱりして喉越しがいいな」
「ええ、そう、そうなんです……」
無論、月島にとってはそれだけではない。それだけではないのだが、好物なのに、様々思うところがあって言葉が出てこない月島は、助かったと言いたげに頷いた。
皿と皿の隙間に置いたグラスは、中身が減れば、気付いた方が素早く次を足していく。
「空いてるぞ。次はどれにする?」
「じゃあ……それで」
鹿児島の焼酎を指差すと、鯉登が少し目を見張って、瓶を傾けて注いでくれた。この酒は新潟のものに比べると、香りからしてどことなく癖がある。しっかりとした呑み口だが、後味は思いの外すっきりして潔いのが好ましい。いつの間にかこの味にも慣れてしまっている。恐らく、鯉登のほうも新潟の酒には慣れているのだろうと思うと、月島はまたしても胸の中がくすぐったくなるのだった。
何杯目になるか、月島は酒を干したグラスを目の前に持ち上げてじっと眺めてみた。このグラスは鯉登がくれた薩摩切子である。鯉登が紫、月島が緑で、色違いのお揃いだった。どの角度に傾けても精緻な切り込みが美しい光を放っている。もらった当初はうっかり割ったらと思うと恐ろしくて、使うのを尻込みしていたのだが、鯉登が大層不機嫌になるので少しずつ使うようにしていた。
切子を通して散乱する光を眺めながら、月島がほうとため息をついた。角煮を箸で割りながら、鯉登がちらとその様子を目に止めた。
「酒が進んでいるようで何よりだ」
「お蔭様で」
グラスを置くと、月島は少し間をおいてから口を開いた。
「……鯉登さん」
「なんだ?」
こちらもグラスを置いて、いつもより幾分か酔いが回っているらしい月島を見つめた。
月島は頬杖をつくと、半分眠るように目を伏せた。
「あのね……俺、今年は自分の誕生日覚えてましたよ」
その呟きに、鯉登はハッと息を呑んだ。呟いた月島の口元は微かに緩んでいる。緩慢な瞬きの下に、いつになく穏やかな瞳が見え隠れするのを見て取り、思わず鯉登は目頭が熱くなった。
「……そうか」
ぽつりとそれだけ答えて、うっすら目を潤ませているらしい鯉登を、月島はやはり穏やかな、愛おしそうな瞳で見つめていた。