いくつになっても男の子 主が不在の屋敷は静かなものだ。
静かであると、仕事が捗る。
日光の入る部屋の文机に向かい、月島はロシア語の郷土資料と辞書を並べて、内容を日本語でノオトブックへ書き出していた。文机の上には他に、薬缶をそのまま小さくしたような急須と湯呑がのっていた。月島は思い出したように湯呑へ手を伸ばし、湯呑が空になれば薬缶から中身を移し、また湯呑を手に取ってノオトブックへと戻っていたが、その動作を幾度か繰り返して、ふと顔を上げた。
日が傾いて、部屋が薄暗くなっていた。どうりで文字が見えづらい気がすると思った。細かい文字を読むというのでなければ、別に支障があるというほどではない。それでもあと一時間ほどすれば、灯りをつける必要があるだろう。
少し早いが夕餉の支度を始めようかどうしようかと考えていると、玄関の引き戸がガラガラ開く音が、続いてやや荒っぽいドスドスいう足音が部屋へ近づいてきた。
こちらが迎えに出る間もなく、さっと襖を引き開けて立っていたのは屋敷の主だった。
彫りが深く鋭い印象を与える顔立ち、左頬には縦に走る刀傷、威風堂々たる長躯に褐色の肌がなんとも野性味を感じさせるが、撫でつけた長髪と整えられた口髭、そして佇まいには凛としたものがあり――まあ、要は美丈夫である。
月島は正座で向き直り、畳に三指をついて頭を垂れた。
「おかえりなさい、鯉登少佐殿」
この屋敷の主はこの鯉登。故あって、月島は彼とひとつ屋根の下で暮らしている。
旭川の第七師団より北西へ八町ほど行った先、細い川を跨いで小高い春光台の裾野に、鯉登少佐の住まいはある。函館の実家が二階建ての洋館であるのに対し、この住まいはぐるりを生垣に囲まれた中に、和室ばかりの平屋だった。勤務地が代わることがあるかもしれないので、借家である。裏庭の隅には厩があって、司令部への行き帰りに使う馬はそこに繋いでいる。
そっと月島は目を上げて鯉登を窺った。足音の荒々しさで予測はしていたが、鯉登がご機嫌斜めであるのは、その憤懣遣る方無いと言いたげな表情を見ればより明らかであった。鯉登はじろりとその鋭い目付きで月島を睨むと――
「月島ああぁん」
突如耳を劈くような声をあげて、正座している月島の横っ腹へ滑り込むようにしがみついた。
「うおぅ」
もはやほぼ体当たりに近いぶつかり方をされて、僅かに月島の上体が泳いだ。が、月島は慣れた様子で、少々膝を開くことで重心を安定させ、鯉登の頭に当たらないよう、軽く万歳するように肘を上げただけだった。
「まっっったくやってられんッあんのヒヒ爺どもめ」
「これ、言葉遣い」
「ぐうぅぅ!」
鯉登は腹立たしそうに呻きながら、頭をぐりぐりと月島の腹に押し付けて身悶えした。爪先をじたばたさせて、完全に駄々っ子の態である。
「月島ァ!腹が固いぞ!」
「そんなこと言われましても」
これでも現役時代より筋肉は落ち、代わりに贅肉がついている。しかし当然ながら、鯉登の頭を柔らかく受け止めるほどの弾力は無い。八つ当たりにもほどがある、と月島はため息をついた。上げていた手を鯉登の背に置く。
「何があったんです?また上の方から、何かいけ好かないことでも言われましたか」
う、と鯉登が動きを止めた。
実をいうと、その通りである。
もうじき君も中佐だろう四十にも手が届くんじゃないのかいい加減身を固めてはどうかねそら良い娘がいるぞ紹介してやろう云々。
「気に入らん!」
とはさすがに当人ら、上官たちの前で口走ることはさしもの鯉登にも憚られた。恥じ入るような微笑を浮かべ、自分のような顔も軍歴も傷物の男にはとても、と心証を悪くしないように気を配りつつ、どうにかその場をやり過ごした。しかし思い出すと尚更腹が立ってくる。
「私には月島がいるというのに!」
「は?」
突然名前を出され、月島が訝しげに首を傾げた。鯉登がむううっと不愉快そうに口を結んだ。
自分には既に伴侶が、生涯を共にする覚悟の相手がいる。しかし、「それ」は世間に大っぴらに認められるものではない。そのことはわかっている。認められるとしても精々がそういう「趣味」としてである。だから、「いやもう相手はいるので」という断り文句が通用しないこともわかっている。そうかそうかそれはそれとしてちゃんと嫁は取れ、と言われるのが関の山だ。それがどうにも腹立たしいったらない。
そしてその怒りが、いまいち月島には理解してもらえないということも、また腹立たしかった。なんなら月島自身が言うことすらあるのだ。嫁を取れと。
うぐぐぐ、と唸りながら鯉登は月島の膝にぐずぐずと顔を擦りつけた。その頭をぽんぽんと月島が軽く触れた。
「四十も近いでしょう?四十と言えば不惑と言いますのに。こんな聞かん坊のような姿とても人には見せられませんね」
やれやれと首を振る月島を見上げて鯉登は口を尖らせた。
「当たり前だ。母にだってこんなことせんぞ」
「身内にも出来んことを他人にしないでくださいよ」
「また他人とか言いよって……!」
共に死線をかいくぐり、互いの思いをぶつけあい、この先ずっと離れまいとそう心に決めた間柄は、下手な血の繋がりよりもよほど強靭な紐帯で結びついていると思うのだが?
こちらの気も知らず、どうでもよさそうな顔をして見下ろしてくるのが憎らしいやら悔しいやらで、尖らせた唇をぷるぷると震わせた。
しかし、鯉登にはひとつの確信があった。
そのことを思うと、怒りや焦りが鎮まり、余裕すら出てくる。
「だがなぁ、月島……」
おもむろに身体の向きをごろりと変え、月島の膝を枕にして見上げてやると、にや、と口の端を持ち上げる。
「実はお前、私が子供っぽく振る舞うのが、結構好きだろ?」
その言葉に月島が目を見開き、ぴたりと動きが止まった。だがそれも今更だ。駄々をこねるたび、宥めるように頭を撫でる手が、背中をさする優しい動きが、鯉登の確信を裏付けていた。
にやにやとしたり顔を向けてくる鯉登を、月島はしばらく無言で見返していたが、目を閉じると、澄ました様子でひょいと両肩を竦めた。
「……そりゃ、まあ?」
片手で肩を押さえて、首を左右に傾けながら、何食わぬ顔つきで月島は続ける。
「そりゃあこの歳になると力で勝てませんし、あなたときたら最近すっかり頼り甲斐が出てしまったし……少しくらい自分のほうが上だと思えることがあると、嬉しいもんですよ」
薄く目を開いて、ニヤッと笑みを浮かべる。
「……やっぱり男だからですかね」
子供っぽさと男臭さが混じったような珍しい笑みは、鯉登の目にはとても魅力的に映った。その上こいつときたら、随分な褒め上手になっているではないか?頼り甲斐が出てきたと、そう思われていることが嬉しくて簡単に心が弾んだ。
「あとは、まあ……」
月島の両手が鯉登の頬を包む。上から鯉登の顔を覗き込むと、月島がちょいと小首を傾げてみせた。
「御母上ですら知らない姿をこうして見られるのは、役得かも、と思いますね」
何食わぬ顔に戻っていたが、その瞳には慈しむような色が滲んでいる。自分を見るその瞳と、頬に添えられた手の温かさで鯉登は胸が熱くなって、先程までの不満や憤りなどはどこかへ行ってしまった。
「ッ~~~~~月島ァ!」
ばっと身体を起こし、鯉登は犬が飛びかかるようにして月島に抱きついた。
「おわ……っ」
不意をつかれたため、月島の身体が傾いで、二人して畳に倒れ込んだ。押し倒した月島を鯉登はぎゅぎゅっと抱きしめる。確かに、以前ならこうも容易く押し倒せはしなかった気がする。受け入れてくれるようになったのだと思えば嬉しいが、体力が落ちてきたからだと思えば若干の切なさがある。
それでもやはり、私はこいつに勝てない。
――だって可愛すぎるだろう!
無抵抗で抱き締められている月島の耳を、うふふと鯉登のくぐもった笑い声が擽った。何がそんなにおかしいのか、と怪訝に思いながら、つられて月島の唇が僅かに緩んだ。横目にこっそり覗き見て、鯉登がにんまりする。
「役得か……確かに」
月島のそんな顔を私だけが見ることが出来る。
これぞ役得というものだ。