ご馳走様にはまだ早い 不満、というほどのことでもないが、恋人に注文をつけるとするならば。
「私もお誘いされたい」
「ハァ?」
頭でもぶつけたのかとでも言いたげな顔になりながら、月島は鯉登が座るソファの前のローテーブルへ、どんどんと缶ビールを置いた。そして鯉登の隣にどっかりと座る。
「さっぱり意味がわかりませんが、一応、話は聞きましょう」
「うむ……あのな」
「あ、ツマミとってきます」
「月島ァ~!」
さっと立ち上がってしまうと、月島は台所から枝豆を盛った小鉢と殻置き用の小鉢を持って戻ってきた。座りなおすと、まず缶ビールを開ける。鯉登も慌てて缶を開けると軽くぶつけて乾杯した。
「で、なんですか」
ビールを一口飲んで、早速枝豆に手を伸ばしつつ月島が聞き返した。月島に習って鯉登も枝豆をひとつ取る。食欲をそそる香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。ニンニクと一緒に炒めたものらしく、大変ビールに合う。
「私もお誘いされたいんだ」
「いや、わかりません」
「だから……月島に……」
「は?私にですか?どこに?」
「ベッドに」
「ベッ……」
途端、月島が盛大に噎せた。ビールが気管に入ったのか、げほげほと咳き込み苦しんでいるので、鯉登は背中をさすってやった。
「大丈夫か月島ァ!」
「げほっ……あなたが、変なこというから……」
背中を丸め、口元を押さえながら月島が文句を言う。ちらりとこちらを見上げる顔が赤いのは噎せたからだろうか、それとも「ベッドに誘う」という言葉の意味するところに照れているのだろうかと鯉登は考えた。
背中をさする手を鯉登に押し戻すと、月島は身体を起こし、ふーっと深呼吸をした。かと思うとガッと缶ビールを引っ掴み、残りを一気に飲み干して、鯉登のほうへくるりと顔を向けた。
「言っておきますけど、誘ってます」
「えっ」
「あなたが気づいてないだけです」
「ええっ!?」
相手が気づいてないのなら、誘っているうちに入らんのでは?という疑問は脇へやって、鯉登が恐る恐る尋ねた。
「そ、それはいつ……?」
「知りませんよ」
枝豆をひょいひょいと口に運びながら、月島は冷たく言い捨てた。不機嫌そうに細められた目を見ていると、鯉登はそれ以上は強く聞けなかった。
幸い、月島の怒りは深くなかったようで、次の日には普段通りに戻っていた。鯉登にしても、再び会話に出すようなことはしなかった。そもそもが時々思い出したように考えるだけの軽いトピックスのひとつ、という程度のものだったからだ。
そんなことがありつつ数日が経過して、鯉登が残業を終えて帰った夜のことである。
少々遅い夕食と風呂を済ませて、寝るまでの束の間をソファで寛いでいると、後ろから通りがかりに月島が声をかけた。
「今日はお疲れですね」
「んー……まあ、ちょっとな……」
「わかりました」
タブレットで読みかけの本を流し見しながら鯉登が答える。一瞬遅れて、その指が止まった。
――ん?
特にいつもと変わらぬ月島の声色だったが、鯉登の頭には何かが引っかかった。なんだか少しおかしな会話ではなかったか?タブレットを膝に置いて首を傾げる。
月島は冷凍庫を開けて中を覗き込んでいる。
「アイス食べます?」
「アイス?食べるっ」
台所に声を張り上げた拍子に、鯉登は捕まえかけていた違和感の正体を取り逃がしてしまった。
そんなこんなで明日から週末という金曜日。
ようやく休みを迎えられ、体力的に疲労はありつつも精神的にはうきうきとテンションが上がりつつあった鯉登は、職場を出るなり月島へ電話をかけた。外で夕食でもどうかと思ったのだ。
一度目の電話では出なかったので、メッセージを送ろうとしていたところへ、月島から折り返し電話があった。月島の返事は簡潔に「いいですね。わかりました」だった。
待ち合わせて食事を済ませ、今日の台湾料理は当たりだっただの、サッポロビールがあるとつい頼んでしまうだの言いながら部屋へと帰ってきた。
「風呂のお湯入れますね」
「おー」
帰るなりこれだ。本当に月島は風呂が好きだな、と緩めていたネクタイを外しながら、鯉登は寝室へ向かった。上着に軽くブラシをかけて、クローゼットへ戻していると、月島がやってきた。鯉登が手を出した。
「月島、上着」
「?」
「お前のも。やってやる」
「あ。ありがとうございます」
自分のはそんなにいいスーツでもないから、と月島はブラシをかけることに消極的だが、手入れするにこしたことはない。ついでだからと鯉登は受け取り、自分の服より念入りにブラシがけした。
月島は着替えるでもなく、ベッドに腰掛けて、上着が手入れされているのを見守っている。
「……」
黙ったままの月島を、鯉登は内心怪訝に思った。何か言いたいことでもあるのか?と思いつつ上着を渡した、その時。
「疲れてますよね」
「うん?あー……」
まあ、少し、と返事しようとして、はっと鯉登は先日引っ掛かった違和感が蘇った。惰性で滑り出そうになった言葉を、ぶんぶんと首を横に振って打ち消した。
「いや!そうでもない!」
「……そうでもない?」
今度は縦にぶんぶんと首を振って、月島の隣に座った。
「疲れてない!」
身を乗り出してそう返すと、月島は思案するように緩慢に瞬きした。膝の上では、指先が所在なさそうに組んだり離れたりを繰り返している。
やがてその目が、ほんのりと形を緩めた。一刷毛だけ重ねたような、うっすらとした艶が、いつの間にか瞳に漂っている。
――あ。
鯉登の胸がどきんと高鳴った。
「……あの、だったら……」
言いかけた月島の両肩を掴むと、鯉登はその場に押し倒した。
風呂が沸いたことを知らせる呑気なメロディが響き渡る。
衣服が散乱しているベッドの上で、素っ裸の鯉登は両手をついてむくっと体を起こした。その身体の下からのっそりと素っ裸の月島が起き上がる。
「風呂……」
「の前に、だ」
胡座座りした鯉登は、同じく胡座になった月島に向かって、こほん、と空々しく咳払いをして言った。
「いいか、月島。一般に、働いて帰ってきた社会人に疲れているかと訊けば、十中八九は疲れていると答えるもんだ」
「はあ」
「だから、そういう予防線を張るような……変な前置きはせんでいい」
「でも……」
俯いて、月島がいじいじと指を組み替えた。
「疲れてるときに求められるのは……困るでしょう」
「困らんが!?仮に疲れていたとしても元気になるが!?」
「ああ……なんか、そうみたいですね」
「どこ見とるんだ。人と話すときは顔を見んか」
「あ、はい」
言われて鯉登と目を合わせると、月島は多少拗ねたように唇を尖らせた。
「でもこれでわかったでしょう?私だってたまにはお誘いしているってことが。まあ実際は、誘うより先に大抵あなたのほうが来てるんですけど」
「む……」
それは仕方がないではないか、と鯉登が難しい顔になった。眼の前に好きな果物があって、それが食べ頃の甘い香りをさせていれば、食らいつきたくなるのは大自然の摂理のようなもので。口に運ばれるのを待ってなどいられない。
「……とにかく。そういう時は遠慮なんかしなくていいんだ。ちょっとやそっと疲れていようが、デザートと同じで月島は別腹だからな!」
そう言って自分の腹を叩いてみせると、月島が呆れたように半眼になった。
「別腹って……私はもうお腹いっぱいですけど」
目を伏せた月島が、中の具合を確かめるように、下腹部を撫で回して呟いた。ぬるりとした、愛撫するような手の動きは、鯉登の目には妙に艶めかしく映った。
「……月島……お前、誘うのは下手だが、煽るのは上手だな……」
「は?」
月島が顔を上げると、眼前に鯉登が迫っていた。肩に手をかけられ、のしかかるようにして再びベッドに沈まされる。状況が飲み込めず、月島の頭には疑問符が飛んだ。
「……ん?」
「言ったろう、別腹だと」
「……ええと……」
「あ、でも疲れてるときは困るんだったか……?なあ、疲れてるか?」
真面目な顔で鯉登が尋ねてきた。月島は目をパチパチさせて鯉登を見つめ返した。なんとまあ律儀というか、単純というか。
――素直なんだよな……。
そういうところが憎めない。断られたらと思うと躊躇して誘えなくなってしまう自分が、いかに彼の欲望に素直なところに助けられているか、こういう時に実感する。予防線という言い方からするに、断られることを織り込み済みで言っていることもきっと見抜かれているのだろう。
「……言われてみてわかったんですけど、よっぽどでもなければ、私もそういう遠慮はしてもらわなくていいです」
「!」
暗にOKを貰えたことを理解し、鯉登の瞳がわかりやすく輝いた。その首に両腕を回して、月島は思いついたように訊いた。
「ところで私がデザートならメインディッシュはなんなんですか」
「メインディッシュも月島!」
「それもう別腹とかいう次元じゃないのでは……」
「うふふ」
嬉しそうに顔を近づけて、鯉登はぶつぶつ言う月島に口付けた。
「おかわりだ」
唇を離した時には、既にその顔は捕食者のものになっていた。