彼に酔う「おれはおまえの優しさにあまえているんだ」
舌ったらず気味に呟かれた男の言葉にミラージュは目を丸くする。俺は酒を一滴も飲んでいないはずだよな、と思わず自分で自分の記憶を疑った。
ミラージュがあくせく働いている本日のパラダイスラウンジ内はレジェンド達によって貸切状態だ。飲みたいだの騒ぎたいだの言い出したのは誰だったか、ミラージュの記憶は定かではないが、あれよあれよと言う間に気づけばこの店で飲むことになっていたし、なんなら開催側の立場になっていた。
最初は騒ぎたい数名が来るだけだろう、とタカを括っていたミラージュだが実際の所はほぼ全員が参加という事態になって、目が回りそうな程忙しく働いていた。善意で手伝いを申し出たパスファインダーのお陰で(その手伝いで仕事が増えることもあったが)漸く一息つけそうな所になったから、おおよその連中とは違って一人静かに飲んでいるクリプトの目の前にやってきて声をかけた所だった。
確かにこれまで飲んでいないなと、ミラージュは自分の記憶が正しいことを確信する。つまり素面であって、正気そのものだ。
対して、酔いが回って正気ではないクリプトは、大分ふやけた顔をしていて、からかってやろうとすら思っていた矢先の出来事だった。
改めて、まじまじとクリプトの様子を観察する。飲みかけのグラスを両手で握りしめたまま、うつらうつらと船を漕ぎ始めていて、瞬きの多くなっている瞼は時々閉じている時間の方が長い。ミラージュと比べて色白の肌は熟した果実のように赤みが差し、普段よりも健康的に見えなくはない、気がする。
今にも意識が落ちてしまいそうなクリプトの手からグラスをカウンター越しにやんわりと取りあげた途端、クリプトは険しい視線をミラージュに向ける。しかし、新しい中身の入ったグラスを握らせれば、少し表情を綻ばせて嬉しそうにその液体を嚥下していた。中身は何の酒でも無い、ただの良く冷えたミネラルウォーターなのだが、それすら気づいていなさそうな泥酔加減だ。
周りに並ぶ空き瓶の数々を見る。乾杯に付き合ったは良いものの、周りのペースに呑まれて許容量を超えた、という所だろうか。確かにあまり酒を嗜むようには見えないし、そもそも誘った所で断ることの多い男が今回のような酒の席にいるのがレアケースではあった。
ミラージュは、今回何故クリプトが来たかの理由を知らない。恐らくではあるが、いつの間にか和解したらしいワットソンが連れてきたのだろうか。ミラージュがどれだけ誘ってもNOと言い続けた男がその誘いには乗ったのかと考えると、ほんの少しだけ心に靄がかかる。それは、ほんの少しだけだが。
段々思考がらしくない方向に転がり出しているのを振り払って、カウンターに突っ伏すまで秒読みを始めているクリプトの肩を揺する。
珍しい男の様子をもっと見ていたいような気持ちも無くはないが、店主としてここはストッパーをかけた方が良いだろう。
「クリプちゃん〜潰れるまで飲むのは良いが、その後のことまで俺は保証しないからな? レジェンドだろうが時間になったら店の前に蹴り出すぞ? おーいこれ聞こえてるか?」
「……きこえてるし、お前はそんな事しない」
肩を揺すられて多少は目が覚めたのか、ぼんやりした黒い瞳が瞼の下から現れて視線がかち合って、滑るように肩から手を離した。クリプトから漏れ出た言葉は決定事項のように宣言され、水で濡れた唇が弧を描き、店内のネオンの光を受けて艶やかに光っている。ミラージュはそれを見て、自分の喉がやけに乾いているような感覚に陥った。そういえば、忙しくて数時間もの間水の一滴も飲んでいなかったな。
「紳士な俺は客に対して酷いことしないってか? そりゃどーも。その法律が適用されるのは良客だけだね。客は店を選べるが、店は客を選べないなんてそんなことは無いからな」
「しずかにのんでるのは良客だろ」
「潰れて店の中で寝出したらいくら俺でも叩き出すぞ」
「みせのまえで凍死でもしたらおまえのひょうばんがさがるな」
「クリプちゃんすぐそういうか…から…あークソ、怖い事言うよなー」
「からおそろしい?」
ミラージュが詰まってしまった言葉の単語を言い当てて、クリプトはくつくつと肩を震わせて笑っている。皮肉を言って鼻で笑ったり、キル数で煽って憎たらしい笑みを浮かべている訳ではない、自分で言ったことがおかしくて仕方なくて、なんでも笑いのトリガーにしてしまう酔っ払いのそれだ。
「……………………………眠い」
笑いの波が引いてきた頃、ぴたりと動きを止めるや、クリプトはそう言い残してとうとうカウンターに突っ伏してしまった。倒れそうになるグラスをすんでの所で掴み、カウンター内の流しに置いて、ミラージュは頭を抱える。本当に摘み出してやろうか、という呆れが半分と、仕方ないやつだなあ、という謎の愛おしさが脳内を占拠していた。
俺は一体どうしてしまったのだろう。恐らく、多分、きっと雰囲気酔いに違いない。そうでなければこの男のことを可愛いだなんて思う筈、ないよな?
ミラージュはどこかおかしくなってしまった自分の思考にまたブレーキをかける。これ以上は考えると危険だと結論づけて、一旦問題を先送りすることした。
とりあえず目下の問題についてはーー、紳士的に対応することにする。
ミラージュはカウンターを出ると、クリプトの腕を首に引っ掛け、無理やり体を起き上がらせる。自分よりも薄い体とは言え、歩く気がない人間の体は相応に重い。ずりずりと足を引き摺らせてるのを見て、いっそお姫様抱っこでもしてやろうか等と頭に過ったが、お持ち帰りという言葉が頭に浮かんだので止めた。ちら、と周りを見たがまだまだどんちゃん騒ぎをしていて茶化しにくる暇な奴はいなさそうだと分かると、ほっと胸を撫で下ろした。
備品室に続くドアを開き廊下を抜けて、もう一枚のドアを開くと、こじんまりとした休憩スペースにあるソファへとクリプトを雑に寝かせる。呻き声が聞こえたが、聞こえなかった振りをしてクリプトに声をかける。
「おねむなクリプちゃんは暫くここで寝てろ。店閉めるときにもっかい起こしにくるからその時はちゃんと自分の足で帰れよ? お前の家は知らないから俺は送迎なんてできないし、しないからな。秘密主義のクリプトに譲歩した限りだぞ」
「それは、たすかる……ハック、監視たのむ」
寝入る寸前の状態でも防犯意識はあるのか、クリプトが命令を下すとドローンが起動しその場でふわふわと漂う。頼もしい監視者がついてるなら営業中の心配はすることは無さそうだ。レジェンドが酒で失敗してぽっくりなんてそれこそ笑えない冗談だからな。
店に戻ろうとすると、ウィット、と背中に声をかけられる。か細い掠れた声。本当にクリプトのものなのかと疑って振り向いたが、当然そこにいたのはクリプトではあったものの、何も取り繕っていない、自然な表情を浮かべた一人の青年がそこにいた。
「おまえがやさしいから、おれはあまえてしまうんだ」
クリプトはそれだけ言い放つと、瞼を閉じ切ってやがて寝息を立て始めた。ミラージュは未だ呆然とクリプトを見つめたまま立ちすくんでいる。
心臓を掴まれた様な衝撃だった。今すぐにクリプトを起こして問い詰めたい一心だった。お前はどういう感情を俺に向けてるんだ。お前はどうしてそんなに俺のことを信用してるんだ。お前は俺だけに甘えているのか。そんなことばかりが脳内を占める。
俺は正気だ。ちょっとばかり雰囲気に酔ってしまっただけだ。再三、思考を整理する。落ち着けエリオット・ウィット。お前は女好きじゃなかったか? そうだよな?
静かにドアを閉めて、頭の中では独り言を言いながら無言で店内へと足を進める。気持ちをきりかえるためにドアの前で深呼吸を一つ。身なりをチェックするために壁に取り付けた小ぶりの鏡で、ハンサムな自分の顔をチェックしようとして、ミラージュはひく、と自分の喉を鳴らした。
「嘘だろエリオット、お前マジかよ」
薄暗い中で耳まで真っ赤にした自分の顔に、どうしようもないくらいニヤけた表情。それらを認めたくなくてミラージュは自分の目を両手で覆った。